「毎日御書」を、それこそ毎日聴いている。
バックミュージックも清らかで切ない。
背景が一面の桜で、母に見せることのできた今年の桜を思い出さずにおれない。
余命2週間といわれたのを無理に連れて帰り、5ヶ月寿命を伸ばすことができました。
梅も見て、念願の桜も見て、ツツジも見て、そしてアジサイの季節に亡くなりました。
体調を崩した6月のその日は、奇しくも母の母の命日。
私のおばあちゃんの命日です。
ああ、迎えに来たんだなぁと思いました。
そして12日間の闘いの末、母の父、私のおじいちゃんの命日の前日に亡くなりました。
母は一人っ子。
文字通り、両親に囲まれるようにしてあの世に行ったのでしょう。
親が迎えに来たんなら心配ないな、と長男。
まだ意識があったとき、母は何度も「はい‼️」と空中に向かって返事をしていました。
そろそろおいでと言われていたのでしょうか。
この世にはまだまだ不思議なことはたくさんあります。
人の死を家で看取るというのは正直怖かったが、大変な経験ができました。
漠然としかわからなかった死生観が一変しました。
ああ、こういうときのために信心してきたのだ、と実感しました。
今日読んだ「毎日御書」のタイトルは、「愚かでは幸福を失う」
先生の指導が身に沁みます。
『わからないと言って、ご本尊の功力を疑う弱い信心であってはいけない。
どこまでも無疑曰信の信心の姿勢を忘れてはならない。
病気になった場合、その病魔に流されて愚痴っぽくなり、信心が弱まる人と、逆に生命力を強めて病魔を克服していく人がいる。
信心の弱い人は次第に魔に流され、濁った生命となり破れてしまう。
信心がなくなることほど怖いものはない。
信心強盛の人は、自身を見つめながら豊かな唱題によって全てを堂々と乗り越えていくものだ。
功徳といい、罰といっても結局は自分自身が実感していくものである。』
母のように認知症となって、自分ではお題目を唱えることができない場合は、身近にいる人のお題目が大事になってきます。
身近にいる人の信心一つで、死にゆく命も幸せを感じながら死んでいけるのだと、心から実感しました。
生死不ニですから、生の側も死にゆく側も共に、幸せを感じられる、こんな素晴らしいことはありません。
実感するしかないのです。
毎日御書のタイトル通り、愚かであっては実感することなどできません。
愚かとは、不信ということです。
ばあさん、ありがとう。
私はまた一つ、大きな大きな体験をさせてもらうことができました。
残された家族が、先生の指導通り、堂々と幸せになって実証を示していきたいと思います。