「毎日御書」という動画に、「本当の功徳の現れ方」というのがある。
感心し、納得したので少し引用してみる。
『私たちは常に功徳を求めている。
いらないという人はいないでしょう。
妙法を唱えることによる功徳は御書の至る所に書かれているが、人はなかなか信じてはくれないでしょう。
そこで私たちの実証の姿がものを言うのです。
功徳を求めると言うのは自分のためでもありますが、さらに進んで自分の周りの人にも功徳を受けていただくためでもあります。
功徳は少しくらい欲張っても平気です。
ご本尊は功徳じゅです。
功徳が無尽蔵に集まっているのです。
ではその功徳はどこからやってくるのでしょうか。
功徳というと、どうしても経済的に豊かな生活になるとか、物質的に恵まれた生活になると考える人が多いです。
確かにそれはとても大事なことですし、大いに祈って実現させていくべきことでしょう。
しかし本当の功徳というものはもっとすごいものです。
例えば同じ状況に置かれた二人の人間が、全く異なる反応を示すことがあります。
一人はその状況に対して感謝し、楽しむことができる一方で、もう一人は不満や不安を感じる。
ここでの差は、仏法では境界の違いと言います。
つまり、外部の出来事自体が私たちの感情を決定するのではなく、私たちの境界の深さの違いが、異なる感情を生み出しているのです。
ですから、お題目をあげて境界が高く深い人は何があっても前向きになれ、進み続けるのです。
このことをわかり、また感じることができるのが最大の功徳といえます。』
私は母を亡くして悲しかったが、大変に感謝して送り出すことができました。
最後の2週間、信心していなければ、ただ悲嘆にくれ、無力に時間が過ぎるのを待つことしかできなかったでしょう。
でも私たちは最後まで題目を送り続け、手を握り続け、足をさすり続け、全力で励ましながら見送りました。
ばあさん、こんなにみんなによくしてもらって幸せやなあ、本当に幸せやなぁと声をかけ続けました。
意識もない状態の危篤の人に、幸せやなあと言えること自体が、私が信心して得た最高の幸せです。
今回ほど、信心していて良かったと思ったこともない。
ただ悲しい表情をするしかない、宗教を否定する人たちに比べて、なんと幸せな送りだし方ができたのだろうと思うと、感謝しかない。
医者が死因に老衰と書いてくれたのが、私の誇りでもあります。
文字通り老い衰えて、自然に亡くなっていく、、、素晴らしい死であります。
死は忌み嫌うものではなく、生老病死の一つのサイクルでしかない、とわかりました。
生も歓喜、死も歓喜、がわかる気がしました。
先ず臨終のことを習うて後に他事を習うべし、も少し経験させていただきました。
母はあの世でワーワーキャーキャー遊んでいる、そんな気がしています。