学会でも世間でも、誰しも親がいるのだから介護の問題は避けては通れない。

 

信心しているから、介護の苦労をしなくてよい、、、そんなことはない。

 

それが苦労かどうか、どう捉えるかである。

 

私は約10年間、認知症の母親を介護して、とても楽しかったです。

 

大嫌いであった母親が、介護を通して大切な大切な存在になった10年間は、宝物のような年月でした。

 

「さよならカルトさよなら創価学会」さんのブログでは、功徳や宿命転換なんていう学会の軽々しいワードは、壮絶な介護の世界では塵ほどの価値もない、とけなしているが、そんなことは絶対ありません。

 

私は介護を通して、最悪であった親子関係の、大宿命転換ができました。

 

これが歓喜でなくて何でしょう。

 

介護させていただけて、幸せでした。

 

親子共に、感謝しながらの日々を過ごすことができました。

 

信心してもしなくても、最後はみんな介護したりされたりするのなら、どう違うのだ、と書かれているが、大違いであります。

 

 

まず、いいケアマネさんに出会えます。

 

ここまでしてくれるのか、というようなデイサービスにも行くことができます。

 

いい訪問看護を受けることもできます。

 

あらゆる方向から支援の手が差し伸べられてきます。

 

私は、一人で母の介護を背負っていたわけではなく、大勢の味方や仲間の方たちから沢山の力を借りることができました。

 

これだけでも大違いではありませんか。

 

そして何より、お互いに感謝することができます。

 

最期まで手に手をとって、楽しい介護ができました。

 

最期はばあさん、ご苦労さま‼️と声をかけました。

 

「さよならカルト」さんはお母さんの介護を理不尽だとか、壮絶な最期だというが、私は母の介護を壮絶とか理不尽だと思ったことは、一度もありません。

 

本当に幸せでした。

 

「さよならカルト」さんのように、人のことを「てめえ」なんていう、汚い言葉を使うような心境では全くなく、澄み切った、やり切った満足感でいっぱいでした。

 

繰り返しますが、大違いですよ。

 

 

私の大好きな「英語で創価」さんが生死について語っていたので引用します。

 

『多くの人の死を見とってきた人が言っていた。

 

人生の最後に、パノラマのようにパーっと自分の人生が思い出されるようです。

 

その中身は、自分が社長になったとか、商売が上手くいったとかではなく、自分がどんなふうに生きてきたか、誰をどんなふうに愛したか、優しくしたか、または冷たくしたか、自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう人間としての部分がぐゎーっと追ってくる、それが死です。

 

死を意識することが人生を高めることになる。

 

死を自覚することによって、永遠なるものを求めることになるからです。

 

そしてこの一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる。

 

死があるからこそ、今を大切に生きようとするのです。

 

いざ死に臨んだ時、人は一切の虚飾を剥がされてしまう。

 

地位も名誉も財産も、全て役に立たない。

 

裸の自分自身で死に向き合わなければならない。

 

釈尊は、死にたくない、死を受け入れたくない、死を見つめたくないという、人間本来の本能のようなものを乗り越えて、偉大なる勇気を持って、人生の苦の相、真実相を受け入れた。

 

なぜ死ぬのか、死と生は全くかけ離れた存在なのか、それとも密接な関係にあるのか、生命はどのような流れがあるのか。

 

そうして得た悟りが永遠の生命だったのです。

 

凡夫のまなこには、生命は生で始まり、死で終わるとしか映らない。

 

しかし、仏法の視点は、この限界を打ち破って、生とあらわれ、死として持続している全体を貫く命そのものをとらえたのであります。

 

仮に、死で一切が終わりだと信じ、最後までその信念で生き抜くことができる人がいたとしよう。

 

しかし、自分の身近な家族が死に直面して苦しんでいるとき、その人はどんな癒しを与えられるだろうか。

 

彼の信念、死生観が果たして希望となるだろうか。

 

仏法で説く三世の生命感は自分に希望をもたらすだけではない。

 

人をも励まし、勇気と希望を与えゆく生命感なのです。


かけがえのない人を失った、その体験が人を人生の深い次元へと進ませる。

 

死が恐ろしい、人間である以上、当たり前のことです。

 

その苦しみ、悲しみに打ち勝っていこうとするから、人間として深まるのです。

 

他の人と同苦する心もできていくのです。

 

妙とは死を表す、法とは生を表す。

 

妙法で生死不ニを表す。

 

生も死も、生命の変化の姿です。

 

生と死は二つのようであって、その奥底にある一つの生命は普遍であり、生と死を貫いて永遠に続いている。

 

その永遠に続いている生命の根源のリズムが南無妙法蓮華経です。

 

だから題目は、死後の生命をも救っていけるのです。

 

唱えた題目は必ず相手に通じるし、自分が願えば再び家族になったり友人になったりして、身近なところに生まれてくる。

 

それを確信して、遺族が堂々と幸福になり切っていくことです。

 

その幸せの実証こそが亡くなった人の成仏を雄弁に物語っている。

 

家族の生の側が幸せになれば、死の生命も幸せになっていく。

 

また、死の状態の生命が成仏していけば、生の私たちを守ってくれる。

 

だから生きている間に信仰によって生命を磨けと教えられている。』

 

 

 

母の意識がもうほとんどない状態の時、耳元でお題目をあげていると、一瞬ハッとして母はこちらを凝視しました。

 

あの時の目は忘れられません。

 

今日も明日も、これからもずっとお題目を送るからね。

 

必ずまた、会いましょう。