今日は創価学会母の日。
余命宣告をはねのけて頑張る母に寄せて、投稿します。
信心とは確信、と私はいつも思っている。
戸田先生も、どういう人が偉い人なのでしょうか、と聞かれて、
「確信のある人だよ。人生はまた、全ては確信だよ」と答えられていたそうである。
確信を持った人は強い。
確信がなければ、グラグラである。
少しのことで180度ひっくり返ってしまう。
そこそこの役職を持っていた活動家が、アンチブログに転じているのを見ると、本当に情けない。
同じアンチ同士が傷をなめ合うようにいいねをつけ合っているのを見ると、本当に涙が出るほど情けない。
アンチなら何でもいいのか。
非活になろうが、正宗に行こうが、宗教自体を捨てようが、何でもいいのか。
学会でさえなければいいというそのモラルのなさ、一貫性のなさ、思考の浅さ、情けないとしか表現のしようがない。
生涯、一学会員として踏ん張り切ることがどれほど大変で尊いことか、改めて思う。
しかしその確信を持てるようになるまでの大変さといったら、半端ではない。
大抵、少しの波や縁でやられてしまう。
大波小波を幾多も乗り越えて、悪縁をも払いのけて、必死にすがりついて信心を手放さなかった人だけが人間革命の山を登り、一生成仏という境地を手に入れることができる。
一生成仏とは、何も他の世界に行くことではなく、この現実世界において、何者にも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいう。
戸田先生の言う、生きていることが楽しくてたまらないという境地のことである。
何があっても、その状況を楽しめる、という境地のことである。
究極の楽観主義、というやつである。
そこまで行くには、あらゆる大波小波と戦わなければいけない。
「仏法」と、「戦う」ということが相いれないように感じて、創価はおかしいという人がいるが、自分の人生と戦わずして何が手に入るか。
もう戦わなくてよいのだと言う人たちは、「戦う」ということの意味を取り違えている。
学会活動の中の数の目標に飲み込まれて、我を失ってしまっている。
自分の人生の目標まで見失ってしまっている。
戸田先生の言う楽観主義と、単なる自身の娯楽の楽しみを、もったいなくも同じレベルで考えてしまっている。
何とレベルの低い、都合のいい話でしょう。
人生、毎日毎日が戦いの連続である。
日々目標に向かって進むということが、それが生きているということであり、生まれてきた価値もあるということである。
単なる数の目標と、人生の目標を取り違えたまま信心をバカにして捨ててしまうのは、あまりにもったいなく、おバカさんである。
気がついたときには取り返しのつかないところまで来ていることでしょう。
苦難のない人生なんかつまらない。
成長のない人生なんかどうしようもない。
アンチブログの多くが短命なのは、成長がないからです。
成長がないから、一通り書いたらもう書くことがないのです。
私はブログ上にぷかぷか難破船のように、乗組員がいなくなってゴミのように浮かんでいるアンチブログが大嫌いです。
海が汚れるだけです。
あるのなら、書いてみましょう。
私はこれでもまだまだ書き足りないです。