今月のグループ学習会は、

法華初心成仏抄「仏になる法華経を耳にふれぬれば、これを種として必ず仏になるなり」

 

誰であれ、南無妙法蓮華経に一度縁すれば、それが成仏の種となって、植物が成長して身を結ぶように、必ず妙法に目覚める時がくる、ということで、これを下種仏法と言います。

 

相手の反応に関わらず、真実の法を説き聞かせることが成仏の直道なのだそうです。

 

相手が仏法を聞くことを好むかどうかに関わらず、毒鼓の縁と言うくらいですから、とにもかくにも法華経に縁させることが大事ということなのです。

 

しかし、人間関係でいうとこの辺が大変難しいところです。

 

現代では素直に聞く順縁の人はほとんどいなく、反発する逆縁の人ばかりなのですから。

 

多くの学会アンチの方がブログで批判しているのもこの辺りのことで、ここはこちらも常識を逸脱してはいけない。

 

いけないが、相手の反発を恐れて仏法を伝えなければ、相手は仏縁を結べず、成仏することができないわけです。

 

ですから学会員がしつこいと言われるのは、まあ当然ですね。

 

 

前記事でも書いたが、私は妹に大変嫌われています。

 

一時期、盛んに仏法対話をしていたからです。

 

その結果、顔を見るのもいやだと言われてしまいました。

 

最後はとうとう、ギャー‼️と叫ばれました。

 

しかし、考えてみれば妹との関係が悪くなったのは、嫌がっているのに無理に仏法対話をしていたからではない。

 

私は今になって思う。

 

自分は本当に彼女の幸せを願ってしていたのだろうか、と。

 

誰かいない?と言われて、数として上げたい気持ちでやっていただけなのではないだろうか、と。

 

その辺を見透かされていたのではないだろうか、と。

 

本当に自分のためを思ってくれているのなら、入会するかどうかはさておき、気持ちが通じないわけがないものを、気持ちすら通じなかったということは、そういうことではないかと思う。

 

申し訳なかったと思う。

 

ケンカした後、お題目をあげていて、自分は無慈悲であったと痛感した。

 

すると妹はその日から、母の介護に通ってくれるようになった。

 

今までは、どんなに頼んでも来なかったのです。

 

それは、母の介護をしたくないということではなく、ただ私に会いたくない、ということだったのです。

 

それを知ったとき、ただ申し訳なかった、と思いました。

 

しつこく仏法対話をしていたことにではなく、心から相手のことを思ってしていたわけではなかった自分の無慈悲さに、ただただ申し訳なかったと思いました。

 

北風と太陽ではないが、無慈悲な仏法対話をいくらしてもコートを脱がせられるわけがない。

 

心から相手の幸せを思ったときに初めて、自らコートも脱いでくれるのである。

 

悔しいが、やはり長男の言うように自分が変われば相手も変わる、そのものであった。

 

介護を手伝わなかった原因を、私はただ妹の発達障害のせいだけにして怒りをそちらに向けていたが、私が原因でもあったわけだ。

 

そのことに自分が気づいたとき、妹は素直に母の介護に来てくれるようになった。

 

まだまだもつれにもつれた糸がぴんと伸びるように関係が修復されるわけではない。

 

しかし、大きな一歩前進でありました。

 

関係修復をあきらめないで、今度こそ真の意味の仏法対話ができる時がくるよう、祈っていきたいと思います。