最近、赤ちゃんはお空の上からお母さんを選んで生まれてくる、という本があったり、動画も沢山あって、見ていて興味深い。
一方で、子は親を選べない、とも言う。
どちらなのだろうか。
私は、選んで生まれてくる、と思っている。
それは、私に障害児が授かり、苦労はしたが今こうして、その子を中心に家族で支援する体制が会社として出来上がり、着実に今世の課題を克服させてもらっているのを実感するからである。
ものすごい成長をさせてもらっているのがわかるからである。
子どもたちは確実に私を選んで生まれてきたのだと思っている。
しかし、何とそのことが経典にもちゃんと書いてあるということまでは知らなかった。
あるのです、ちゃんと。
びっくりしました。
三世にわたる生命の因果と流転の相を「十二因縁」という法門として、説かれているのです。
過去世の因、現世の果、現世の因、来世の果、、、というように生まれ変わりを繰り返していく様を表した法門で、三番目に「識」というのがあって、これが「過去世の業により、現在の母親を定めて、その胎内に宿ること」とあります❗️
母親を定める❗️びっくりしました。
こんなことが経典に書かれているなんて。
やっぱり、赤ちゃんは、自分の過去世の業にぴったりのお母さんを選んで自らその胎内に宿りにくるのです。
いい業も、悪い業も含めて。
私が初めてこの仏法に縁したとき、何にもわからなかったが、生死を繰り返していなければ、生まれながらの不平等は説明がつかないな、ということだけはわかった。
だって同じ双子として生まれながら片方は五体満足、片方は重複障害。
こんな不平等なことがあるでしょうか。
次男がかわいそうでなりません。
この不平等が何とかなるなら、ええ信心でも何でもしますとも。
そのときは、まさかここまで深い法理だとは思いもしなかったが、、、
ああ、すごいな。
やっぱり時代が下って、文化や科学が発達するにつれて、経典に説かれたことが明らかになってきて、仏法に近づいてくるのだな、と思う。
こんな家に生まれたくなかった、選ぶとしても何でよりによってここ選んだんや、と思っても、選ぶだけの理由が過去世にちゃんとある、というわけです。
これが理解できないと、自分の中に原因も結果もあるという、仏法そのものが理解できないということになる。
見えないからと過去世、来世が信じられないというのは、この自因自果が信じられないということです。
よくハスの花に例えられる、あの因果倶時です。
これを信じられないでバカにすると、すなわち他因自果になります。
こうなったのはあいつのせいだ、こいつのせいだ、というわけです。
学会が悪い、組織が悪い、幹部が悪い、だからやめてやる、と早く言えばこういう思考回路です。
あるのかないのかわからない来世など信じられるかというわけですから、死んだら終わりの短絡的な思考になります。
そういう思考回路からは、今世をよりよく生きていこうとする気持ちなど芽生えるわけがない。
いわゆる外道です、外道。
「蒔かぬ種は生えぬ」が理解できないわけですから、外道です。
私は、私自身も母を選んで生まれてきたのだろうと思っている。
母には、あの人が認知症になるまでずいぶん苦しめられたが、そうされるだけのことを、過去世で私はあの人にしたのだと思っている。
いわゆる、仕返しをされたのだと思っているが、今世で私が信心したことによって、仕返しをされる因がなくなり、あの人は認知症になってくれたのだと思っている。
認知症になってくれたおかげで、縁を切ってもおかしくないほどの憎み憎まれる関係も終わり、もういつ母が亡くなっても悔いはないほど、楽しくお世話させていただいた。
何という宿業の転換でしょう。
日蓮仏法ではただの生死の繰り返しという宿業論で終わらずに、まだその先の、宿業の転換までを説いているのである。
何とありがたいことであろうか。
だから、感謝しかないのである。
同じお題目でも感謝のお題目、同じ座談会でも感謝して参加する座談会、同じ財務でも感謝の財務、に功徳が満開の春となるのである。