ALS と診断され、途方に暮れていた 2014 年 10 月初旬、私はとあるブロ グに辿り着きました。それは、ALS と診断を受けてから 20 年目になる、中 野玄三さんという方のブログでした。当時、私は、この病気に関して情報を 得るため、藁にも縋る思いで、一心不乱に ALS 関連の文献や ALS 患者のブ ログを読み漁りました。しかし、有効な治療法は見つからず、ほとんどの ALS 関連の文献やブログは、病気に対して非常に後ろ向きであり、ALS= 人生の終わり...などと書かれたものばかりでした。それもそのはず。ALS という病気は、現在、有効な治療法が無く、体全体の筋肉が動かなくなって いき、声を失い、ご飯も口から食べられなくなり、顔の表情も作れなくなり、 自発呼吸も出来なくなり、次第に寝たきりになり、最後は呼吸筋麻痺で死亡 する(発症から死亡までの期間は約 2~4 年)と言われた難病だったからで す。しかし!玄三さんのブログと出会い、私の ALS に対する考え方は 180 度変わりました。上記に述べた症状は、一般的に言われているものであり、 ALS の患者全てに当てはまる訳では無いということが、玄三さんのブログ を読んでいくうちに分かったのです!最初は半信半疑でした。でも、何より も病気に対する前向きな玄三さんの考え方と、病気に取り組む姿勢に強く惹 かれ、私も玄三さんのように生きたいと思うようになっていました。「人工 呼吸器を付けて人生を楽しんでいる?口からご飯を食べることが出来てい る?ご自身で起業し、社員の仕事の日程作りを全て自ら作成している?ALS になっても仕事をしている???ホンマかいな???」と思いました。しか し、それらは全て本当だったのです!
ALS の告知から1年後の 2015 年 10 月中旬、満を持して佐賀にお住まい の中野玄三さんに妻と 2 人で会いに行きました。玄三さんには飛びっきり の笑顔で迎えて頂きました。ご飯を美味しそうに口から食べる姿も見せて頂 きました。人工呼吸器を外して 5 分以上、自ら腹式呼吸をされているのも 見せて頂きました。見ること全てに驚かされました!最高の奥様と、何事に 対しても諦めないヘルパーの皆様に常にイジられている玄三さんの家には温かい笑顔がありました。しかし、玄三さん達の笑顔の裏には ALS を乗り 越えるまでに想像を絶するような努力があったと聞きました。玄三さんと奥 様、そしてヘルパーの皆様にお会い出来て本当に勉強になりました。ALS に対して先入観を持ち、物事を勝手に決めつけ、簡単に諦めてはいけないと 思いました。いろんなことに対して意欲が湧いてきました。

帰りの飛行機の中、私は自身が ALS と診断された一年前の事を思い出し ていました。当時、私は、次女が誕生した 2 日後に検査の為に入院しまし た。原因不明の右手の動きづらさと、舌の痺れと話しづらさ、歩きづらさが あったからです。当初は、2 週間ほどの入院予定でしたが、担当した医者は、 1 週間もせずに原因が分かったようです。私も、入院生活が暇で、携帯電話 を使い自分の症状と病気を調べました。すると、その年の夏にブームになっ た、「頭から氷水をかぶるか、寄付をするか」という、アルファベット 3 文 字のあの病気が脳裏を過りました。この病気に該当する特徴が、私の症状に ことごとく当てはまったからです。告知時は、家族を同席させず、私一人で 臨みました。医師の告知によって絶望に変わる家族の顔を見たくなかったか らです。重苦しい空気の中、ほどなくして、担当医師から私の病気が、“ALS” である可能性が非常に高いことを告げられました。しばらく放心状態が続き ましたが、ある程度の覚悟もあり「やっぱりか...」という、少し安堵の気持 ちにもなりました。検査入院 2 か月前には喋りづらさが顕著に表れるよう になり、脳神経外科を受診しても、そこでは原因を特定できなかったからで す。ただ、受け入れるのには時間が掛かりました。仕事を続けられなくなる ことに加えて、生まれてばかりの娘を含めた子供 3 人と妻と、「これからど うしよう...」という気持ちの中、やっとの思いで妻に電話しました。医師か ら告げられた病名が、“ALS”である可能性が極めて高い事を告げると、受話 器の向こうの妻は、電話機越しでもわかるくらいに泣き崩れていました。し ばらくの沈黙の後、妻から、「洋平(私)はどうしたい?」と聞かれました。 私は当初、「24 時間介護をしてもらって、家族や周囲に迷惑をかけてまで生 きてよいのか?」と考えていました。その事を妻に伝えると、「何も、人工 呼吸器を付ければ死なないんでしょう?私が面倒を見てあげるから子供達 のためにも生きて!」と言われました。10 日前に我が子を産んだばかりの 妻にとって、それは大変な決断だったと思います。そんな一年前の出来事を、 帰りの飛行機の中で思い出していました。同じ ALS 患者でも、人生を楽しんでいる玄三さんの生活を見たことで、私がするべきこと、そして、これか らの目標が見えてきました。

そこからは、あっという間に時間が過ぎていきました。まず、生活拠点を、 当時職場のあった帯広から札幌へ移しました。理由は、当時、帯広には 24 時間対応の訪問介護事業所が無かったことや、私の介護に加え、更に幼い3 人の子供たちを妻が見るには限界があると思ったからです。長期的に考えて、 私の介護を妻が一人で抱え込むには、地方では大変だと考えました。そのた め、訪問介護事業所が帯広より多く、お互いの両親がいた札幌を選びました。 幸運なことに、病気後も仕事は札幌でしばらくの間、在宅で続けられること になりました(現在は、2015 年 8 月から休職中)。その後も、今後起こりう る可能性のあることを想定し、あらゆる対策を講じました。いずれ病気が進 行すると声を失うので、まず自分の声を保存しました。子供たちに自分の声 を残しておきたかったからです。行政からの支援を得るため、特定疾患、重 度心身障がい者医療費、身体障がい者、ひとり親家庭等医療費、傷病手当、 障がい年金などの申請を行いました。また、私は、介護保険を使える年齢で ある 40 歳に達していなかったため、重度訪問介護の申請を行いました。常 に先を見越して、訪問介護や、移動支援、訪問看護師、PT(理学療法士)を早 い段階から受け入れました。長いお付き合いになることを想定し、まだ声が 出て、身体が動くうちに、お互いを知り、コミュニケーションを円滑に計り たかったからです。しかし、物事は全て順調に進んだ訳ではありませんでし た。次第に動かなくなっていく全身の筋肉と、日に日に不明瞭になってゆく 声に無力感を感じながら、知らず知らずのうちに、苛立ちを全面に押し出し、 周囲に当たり散らすこともあったと思います。そのうち、呼吸苦や、噎せこ む頻度が増えてきました。当時、定期受診していた病院での検査結果も、人 工呼吸器を付けなければいけないほどの危険な数値に達しており、医師から は手術の決断を迫られていました。既に、人工呼吸器を付けることは決めて いましたが、当時はまだ少し声が出ていたので、なかなか踏ん切りがつきま せんでした。それも、ようやく少し言葉を話し始めた末娘や、長男、長女た ちと、声を失う前に 1 日でも長く話をしていたかったからです。また、当 時は、手術によって声を失う前に、口文字の練習を開始していました。声が 出なくなると、コミュニケーションのすべが限られる事が目に見えていたか らです。

遂に、2016 年 7 月末に、人工呼吸器を付ける為の気管切開手術を決断し ました。同時に、食べる事が大好きな私は、口から食べ続ける事にこだわり、 誤嚥を防ぐ為に、喉頭分離手術を受けました。病気が進行すると、口から食 べ続ける事は不可能になるかもしれない事は理解していました。しかし、佐 賀で見た玄三さんが、試行錯誤を繰り返しながら、今だに口から食べ続けて いる姿を目の当たりにし、私も残された微かな希望に賭けてみる事にしまし た。手術は呆気なく終わりました。術後は多少の痛みはありましたが、思っ た程の痛みはありませんでした。声を失ったショックはさほどありませんで した。それより、声が出なくなった事により、コミュニケーションに時間が 今まで以上にかかった事が、何よりもストレスでした。また、退院してから の在宅生活の前に、あてにしていた事業所の突然のキャンセルや、新たに痰 吸引ができる事業所探しも難航しました。更に、人工呼吸器装着後、すぐに 24 時間介護に必要な時間数を獲得できなかったのは想定外でした。しかし 入院中は、辛く大変な事ばかりではありませんでした。複数の訪問介護事業 所に最大限協力していただき、入院時コミュニケーション支援として、ヘル パーさんを病院に派遣していただきました。この間のヘルパーさん達は、周 囲と意思疎通を図るには必要不可欠でした。お互い、良い口文字の練習にな りました。私は声を出せなくなっていたので、ヘルパーさん達も私も、死に ものぐるいで口文字に取り組みました。今、思い返しても、声が僅かに出て いた頃に口文字を始めておいて良かったと思いました。また、入院中に、妻 が 3 人の子供たちを病室に連れて来てくれたことも大変励みになりました。 家族や友人らには、精神的、経済的に助けて頂きました。深瀬支部長や松田 さんには、役所との時間交渉の際に大変お世話になりました。私は色んな 方々に支えられて生きていると強く感じました。

現在は退院し、在宅生活を始めて 5 ヶ月程になります。自宅に戻ってか らは、安定した生活のリズムを作るため、日常生活の内容を細かくヘルパー さん達に書き留めてもらい、私のケアの全てをマニュアル化(一日の流れ・ 口文字・食事介助・口腔ケア・移乗・入浴・排泄・ケア上の注意など)しま した。また、退院した直後は、殆ど口から物を食べる事ができませんでした が、ヘルパーさん達の工夫で、入院前よりも食べられるようになりました。 今では、私を中心とし、より良く、快適な在宅生活を送る為、相談員、訪問医、訪問看護事業所、訪問介護事業所、札幌市独自の PA 制度のヘルパーさ んらで、一つの強力なチームを作りました。その結果、介護士や看護師がよ り良い私のケアをお互い切磋琢磨して行ってくれる様になりました。

ALS と診断されてからは、フェイスブック等の SNS を積極的に利用し、 同じ ALS 患者や医療/福祉関係者と情報交換のため繋がりました。4 月から 11 月まで定期的に開催される“ALS の絆サロン”にも、昨年は全てに参加し ました。深瀬支部長や松田さんを中心として、ALS 患者とそのご家族、関 係機関の方々と直にお会いし、お話できるこの会は、大変貴重でした。人と の繋がりが凄く大切なのだと、この病気になってからより一層感じました。私には目標があります。私は、妻や3人の子供たちを養っていくため仕事 をします。ALS を一人でも多くの人に知ってもらうため活動をします。様々 な事を自ら経験し ALS を乗り越えます。そんな遠くない未来に ALS の治療 法が見つかる日が来ると信じています。私はその日が来るまで、家族と共に 人生を歩み、その日が来るのを待ちたいと思います。

 

ALS生活26年!
皆さんからゲンゾウさんと呼ばれています。


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僕のような無名の電子書籍は すぐ忘れられてしまうので 改めて紹介させてください。  

そうは言っても 自分で自分の本を紹介するのは気恥ずかしくて苦手です。
 

しかし、読んでもらって初めて存在意義というか 必要性が高まると考えていますので 

これから先 生活に不安がある障害を持っている人と関係者に読んでもらいたいです。

 

★シリーズ1巻~5巻は 乗り越えていくプロセスを時系列で書きました。 

★★シリーズ6巻~8巻は 乗り越える時に必要なことを実話を交えて書きました。 

★★★シリーズ9巻は 障害を抱えているからこそ食べる必要性を書きました(刻み食写真集)。 

★☆新作★☆シリーズ10巻【宣言!ALはの乗り越えられる】はALS生活26年の考えで書いた本。

 

加えて【特別編】と【まとめ】の3冊があります。 

 

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