9日、小林邦昭さんが逝去した。
享年68。
癌による闘病生活を送っているのは知っていたのだが、
あまりに突然の訃報に驚いた。
訃報を知ったのは9日の22時過ぎのこと。
藤原組長と私の共通の友人であるⅯさんから突然LINEが入った。
Ⅿさんは、藤原組長から電話をもらったあとすぐに知らせてくれたのだ。
その後、小林さんとゆかりのある関係者、
選手数名にLINEで訃報を伝えた。
みんな、一様に驚いていた。
同時に、寂しさを隠し切れない様子。
68歳……若いし、早すぎる。
改めて考えてみると、私と6歳しか年齢差がないことにも驚く。
小林さんは、学生時代に観ていたテレビのなかの人だった。
だけど、実際にはわずか6歳しか違わないのだ。
小林邦昭といえば、初代タイガーマスク最大のライバル。
‟スーパーヒーロー”タイガーマスクのマスクをビリビリに引き裂く
アンチヒーローとして、その名を全国に轟かせた。
実際に、タイガーvs小林抗争の時代、
テレビ朝日『ワールドプロレスリング』は、
驚異的な視聴率をはじき出している。
小林さんは、よく当時の思いで話を口にしてきたが、
記録を調べてみると、それが事実として浮かび上がってくる。
『ワールドプロレスリング』による金曜夜8時のゴールデンタイム伝説。
それは実質、1980年代からスタートしたと言っていい。
80年代に入って、初めて平均視聴率20%を超えたのは1981年11月6日の録画放送。
放送カードは、アントニオ猪木vsラッシャー木村、タイガーマスクvsグラン浜田だった。
ちなみに、蔵前国技館で開催された同大会を大学2年生だった私は観戦に行っている。
その後、トップスターのアントニオ猪木、長州ー藤波名勝負数え唄、
タイガーマスクの異常人気という3本柱が確立して視聴率は伸びていく。
また、タイガーマスク人気を象徴する現象として、瞬間最高視聴率では
タイガーの試合が猪木の試合を凌駕することも何度かあったという。
1983年8月、タイガーマスクが新日本に契約解除を求めるまで、
タイガーマスクのシングルマッチが放送された試合で、
視聴率20%を超えた放送回は通算10回に及ぶ。
無論、タイガーの試合だけには限らず他の好カードとの相乗効果もある。
ただし、特筆すべきはその10回のうち5回がタイガーvs小林の一騎打ちであったこと。
つまり、タイガーマスクvs小林邦昭の遺恨カードは、
金曜夜8時伝説を象徴する黄金カードであったのだ。
新日本ジュニア第二期黄金期の主役の一人でもあった小林は、
ジュニアを卒業しヘビー級に転向してから中堅の座に甘んじていた。
ところが、あの試合をキッカケに一大ムーブメントを巻き起こすことになる。
1991年12月、突如勃発した小林と誠心会館の抗争。
翌92年の1・30大田区体育館でメイン終了後の番外戦として、
小林邦昭vs斎藤彰俊の異種格闘技戦が組まれた。
プロレスvs空手、しかも日本人同士による喧嘩マッチ。
いや、試合ではなく喧嘩そのものだった。
おそらく、今の新日本マットでこんな闘いを観客の前で披露することはないだろう。
あまりの壮絶さ、非情なシバキ合いにファンはドン引きするかもしれない。
ただし、当時の血気盛んな新日本ファンはこれを待っていた。
以降、紆余曲折を経て小林&越中は誠心会館(青柳&彰俊)と合体。
反選手会同盟を結成する。
それがのちに、新日本マット、天龍率いるWARマットを席捲し、
平成維震軍という一大勢力にまで成り上がるわけだ。
小林は反選手会同盟結成直後にして不運なことに
大腸癌を患い半年間も欠場せざるを得なかった。
それでも、やはり小林が1発目に残したインパクトこそすべての始まりであり、
アレがあったからこそ、越中を大将に据えた平成維震軍は成功したのだと思う。
小林邦昭はジュニア戦線でもヘビー級戦線でも、
日本プロレス史に大きな功績を残しているのだ。
すこし、話が堅苦しくなってしまった。
やはり、素顔の小林さんにも触れておきたい。
この業界で、小林さんのことを悪く言う人はまずいない。
ジュニア時代、若くしてスター選手になりながらも、
偉そうなところ、横柄な態度などは微塵も見せたことがない。
後輩レスラーには優しく親切に指導、アドバイスをするし、
若いマスコミやフロント関係者にもフレンドリーに接してくれる。
なにより話し好き。
若い記者やカメラマンにも自分から話しかけてくれる。
そんな小林さんと最後にお会いして、
いろいろと会話したのは、2020年2月初旬だったと記憶している。
ちょうど新型コロナウイルスが蔓延する直前のこと。
2月22日に、後楽園ホールで引退試合を行なう中西学を取材するため、
初めて私はリニューアルされた新日本プロレス道場(合宿所)を訪問した。
旧道場であれば、それこそ100回以上は足を運んできたが、
新道場は初めてなので、物珍しくて仕方がなかった。
取材は道場が空いてからということで、
合宿所に入ってすぐのリビングルームで待っていた。
その場にいたのが、長州力、ヒロ斎藤、飯塚高史、そして小林さん。
いわゆる練習好きな新日本のOB軍団だった。
一通り挨拶を済ませてから、ソファに置いてある新刊の単行本を手にとった。
発売されたばかりの『平成維震軍「覇」道に生きた男たち』である。
この本にひとり語り形式で登場するメンバーは、
越中、小林、木村、カブキ、青柳、彰俊、AKIRAの7名。
じつは、越中のパートに関しては私がインタビュアーを担当していた。
早速、小林さんが近づいてきた。
「この本、売れてますかね?」
「あ、けっこう初動いいみたいですよ」
「そっちは越中を担当したんでしょう?」
「はい。本当は青柳館長もやる予定だったんですけど、スケジュールが合わなくて」
「でもさ、彰俊の記憶力は凄いよね?」
「ええ、僕もビックリしました」
「若いからだよなあ。
若さには適わないよ、もう俺たちは(笑)」
「なに言ってるんですか?
若いころより、ぶっとい腕してる小林さんが」
「ハッハハハ! 確かに、筋トレは若いころよりやってるかもね」
そう、小林さんは引退して道場の寮長を務めながらも、
つねにトレーニングを欠かしていなかった。
まるで小島聡ばりの太い上腕二頭筋をいつも披露してくれた。
だれにでもフレンドリーに接してくれる小林さんに、
初めてロングインタビューを行なったときのこともはっきりと覚えている。
1986年の年末、場所は池尻のジャパンプロレス道場だった。
当時の私は、キャリア半年そこそこの『週刊ファイト』の若手記者。
ただし、若いからこそ怖いものなしで、知りたいことはなんでも質問してしまう。
「いま、全日本プロレスのリングで闘っている小林さんですけど、
全日本と新日本プロレスのスタイルの違いって言葉でいい表すことはできますか?」
小林さんはすこし考えてから、こう返答してくれた。
「プロレスは同じプロレスですよ。
だけど、あえて言うならね……
全日本では受身をとったあとすこし休んでいられる。
でも、新日本はすぐ起き上がらないと蹴りが飛んでくる。
そこが違いかもしれませんね」
うーん。
唸った。
もしかしたら、これほど的確に当時の両団体の
スタイルの違いを示した言葉はないかもしれない。
間を大切にするアメリカンプロレスの王道を継承する馬場スタイル。
過激なプロレスを謳い、ストロングスタイルを標榜する猪木スタイル。
両派のリングでジュニアの頂点を獲った小林さんだから言えるセリフであった。
インタビュー終了後に、読者プレゼントとして、
サイン色紙3枚にサインを入れてもらった。
小林さんは達筆で、イラストも上手い。
サラサラっとサインを書いてから、
自分の顔に似せたダルマの絵も色紙に描いてくれた。
「最近、ダルマの絵を入れるようにしてるんですよ。
まあ、石の上にも三年という言葉の大切さを感じているもんだから」
ジャパンプロレスとして独立してから2年余。
当時、長州の新日本マット復帰が囁かれ、
ジャパン分裂の噂も飛び交いはじめた時期だった。
そのときの心境を小林さんは言葉ではなく、
ダルマの絵で表現してくれたのかもしれない。
いまになって、そんなことを思い出す。
いつも笑顔だった小林さん。
顔を合わせれば、気軽に話しかけてくれた小林さん。
新日本創成期、藤原さん、栗栖さん、荒川さん、浜田さん、木村さん、
小沢さん(キラー・カーン)といった超個性的メンバーに挟まれながら、
だれとも波風を立てることなく修行に励んでいた小林さん。
多くの後輩たちから慕われていた小林さん。
合宿所で絶品のちゃんこを振る舞ってくれた小林さん。
そんな小林さんにもう会うことはできない。
だけど、小林邦昭がプロレス界に残した功績、
後輩たちに指導した教えはこれからも綿々と生き続けることだろう。
この写真は、昨年の5月7日、闘道館において
『嗚呼、懐かしのメキシコ修行時代』と銘打って、
メキシコ修行仲間の高杉正彦さん(ウルトラセブン)と一緒に
トークイベントに出演したときのワンショット。
相変わらず、人懐っこい笑顔とバキバキの上腕二頭筋を見せてくれた。
合掌。

