プロレスラー・吉江豊さんが亡くなった。

享年50。

 

若すぎる、早すぎる、突然の訃報に愕然とした。

 

10日、全日本プロレスの高崎大会に出場した吉江(※、以下、敬称略)。

試合後、コメントを残し控室にもどりイスに腰かけて、

そのまま静かに息を引きとったという。

 

死因は動脈硬化だった。

 

吉江は群馬県前橋市の出身。

地元の隣町である高崎市での試合。

 

通夜と告別式は、前橋市内の斎場にて営まれている。

 

通夜は14日で、告別式は15日。

 

通夜には多くのレスラー、OB、関係者が駆け付たという。

14日には外せない私用があったので、

私が式場に出向いたのは15日の葬儀。

 

葬儀が始まる1時間前に式場に着いた。

献花の数があまりにも多く式場内だけでは収まりきらず、

廊下にもズラリと並べられている。

 

真っ先に吉江の愛妻である美奈さんと、

兄でお笑い芸人のよしえつねおさんにお悔やみの言葉をかける。

 

お二人とも古くからの知り合い。

 

 

吉江が亡くなったときの状況をつねおさんが聞かせてくれた。

そして、「どうぞ、弟に会ってやってください」。

 

棺のなかに、試合コスチュームで吉江が眠っていた。

眠っているという表現が一番ぴったりとくる穏やかな顔。

彼と会うのは3年ぶりぐらいかな?

 

最後に会ったのは、後楽園ホールだった。

控室を出た通路のところでバッタリ出くわした。

 

「あぁー!」

 

「あらぁー!」

 

お互いの顔も見合わせてそう叫ぶと、

彼の巨体に押しつぶされそうになりながらも、

しっかりハグした。

 

10分ほど互いの近況報告。

昔と変わらぬ人懐っこい笑顔に癒された。

やっぱり何年ぶりに会おうとも吉江は吉江だった。

 

それ以来の悲しい再会。

それなのに穏やかな顔を見ているとなぜか涙は出てこない。

普通サイズの棺に窮屈そうに収めらている160㎏の巨体。

 

「あのー、ちょっとこのベッド狭いんですけどねえ」

 

苦笑いしながら今にもそう言いだしそうな感じ。

もし私が棺を2回叩いたら、3カウントの前に肩を上げそうな気さえしてきた。

 

美奈さんと会うのは十何年ぶりだろうか?

 

「吉江君との思い出をブログに書きたいんですけど、

祭壇の写真を撮らせてもらってもいいでしょうか?」

 

「どうぞどうぞ!

主人は絶対そういうのを喜びますから」

 

 

突然のできごとから、まだ5日も経っていない。

憔悴しているのは当たり前のことなのだろうが、

持ち前の明るさで元気を振り絞って、

なんとか気持ちを保っているのだろう。

 

美奈さんは、そういう女性なのだ。

吉江の顔を見るより、彼女を見ているほうがずっと辛かった。

 

読経が終わり、弔辞を述べたのは棚橋弘至。

2003年6月、日本武道館で蝶天タッグの保持する

IWGPタッグ王座を奪取したのが、吉江&棚橋のコンビ。

 

以降、半年間で3度の防衛に成功している。

実質6カ月天下ながら、私はこのタッグチームが好きだった。

 

体格とパワーで攻める吉江に、スピードとキレで勝負する棚橋。

まったくタイプが違うのに、なぜかコンビネーションは抜群だった。

 

「僕が新日本プロレスに入門したとき、吉江さんが寮長でした。

練習は厳しい、道場は厳しいと聞いてビビりながら入門したんですけど、

吉江さんがとても優しくて、いつも笑っていてホッとしたのを憶えてます。

受身の練習でも吉江さんの受身が一番巧くて参考にさせてもらいました。

最近、蝶野、天山組からIWGPタッグを獲った試合を見直したんですけど、

僕はほとんど活躍していなかった。

コーナーで吉江さんが待っていてくれるという安心感だけで、

僕は好き勝手やって、あとはお願いしますみたいな感じでした。

吉江さん、またタッグを組んで2人でボディプレスを決めて勝ちましょう!」

 

 

 

そうか、

そういうことだったのか!

 

先ほど吉江&棚橋のタッグが好きだったと記したが、

あのころの棚橋はキャリア的にもまだ未熟だったから、

吉江、棚橋組への思い入れを過去にほとんど語ったことがない。

 

初めて明かした5年先輩への感謝の気持ち。

 

それに、当時の棚橋はまだハイフライフローを使っていなかった。

いまなら、どうだろう?

ハイフライフローと160㎏ダイビングボディプレスが

同時に炸裂したなら、会場は大爆発間違いなしだろう。

 

棚橋の弔辞は、

吉江に対する感謝に溢れていた。

 

焼香が終わり、喪主の美奈さんからの挨拶。

 

「明るくて、楽しくて優しい吉江豊というプロレスラーが

いたことだけは、みなさんいつまでも憶えていてください」

 

気丈に挨拶を終えた美奈さん。

だけど、そこまでが限界だったのかもしれない。

 

それ以降、遺族、参列者が棺に花を捧げたときから、

もう美奈さんの涙が止まらなかった。

 

逝ってしまった者より残された者のほうが辛い――。

当たり前の話だけど、それを現実に見せられてしまうと心が痛む。

 

最後に、つねお兄貴が10カウントゴングで送り出す。

 

「吉江兄弟最高の最強の弟、そして吉江美奈最愛のパートーナー、

180センチ、160キロ、吉江ユタカー!!」

 

そう絶叫すると、お馴染みの入場テーマ曲である

『Wild night』が鳴り響く。

 

参列者からは「吉江コール」の大合唱。

 

最期のお別れ。

レスラー陣によって棺が車へと運びだされる。

 

棚橋、藤田和之、高岩竜一、長井満也、征矢学と

屈強な現役プロレスラーが5人いても160㎏の吉江は重い。

車へと運び入れる際にも四苦八苦。

こんなところでも、また吉江伝説が生まれた…。

 

車のハザードランプが点滅し、ついに出棺。

まだ多くの参列者が残ってそれを見送ろうとしている。

 

私の隣にいた藤田が大きな声で「吉江コール」を叫びはじめた。

藤田が音頭をとる格好となって、盛大な「吉江コール」へ。

 

最期まで元気に明るく――。

みんなが吉江の性格を知っているからこそ、

こんな爽やかで清々しい余韻が残るお別れ会になったと思う。

 

 

個人的に、思うところはいっぱいある。

吉江豊と初めて知り合ったのは、ちょうど30年前の今ごろだった。

 

新日本プロレス道場の取材に出向いていた私は、

取材終了後、カメラマンと一緒にちゃんこをご馳走になった。

1990年代は、取材陣にもちゃんこを振る舞ってくれるのが通例のこと。

 

そこで、私たちにちゃんこをよそってくれたのが、

入門したばかりの練習生だった吉江。

 

もうひとり、あとになって辞めてしまった新弟子もその場にいたのだが、

彼が直立不動だったのに対し、吉江は人懐っこい笑みを浮かべながら挨拶してきた。

 

当時はもちろん、まだ線が細い。

だから、ややシャクレ気味の顔が印象に残った。

 

「吉江君はど根性ガエルに出てくる‟梅さん”に似てるねえ。

これからは、梅さんって呼んでいいかな?」

 

そう話しかけると、彼は爆笑していた。

 

「ハイ、じゃあ梅さんでお願いします。

なんでも憶えてもらうのはいいことですから」

 

以降、吉江とはよく会話をするようになった。

後にも先にも、練習生時代からこれほど話すようになった選手は他にいない。

デビュー戦の前から、彼とはすっかり打ち解けてしまったのだ。

 

彼がデビューしてから。

いったい何十回と飲みに行ったことだろう。

2人きりで行った記憶はない。

 

だけど、飲み仲間による飲み会の席にはかならず吉江がいた。

その場に吉江がいるのは当たり前。

渋谷の居酒屋でも駒沢のスナックでも、

いつもそこには吉江の姿があった。

 

美奈さんを初めて紹介されたときのこともよく憶えている。

2001年12月のこと。

新日本プロレス道場の関係者の友人が亡くなり、

お通夜に多くのレスラーたちが参列した。

 

その後、二次会に行くことになった。

大晦日にミルコ・クロコップとの総合マッチを控えている

永田裕志だけはさすがに二次会を辞退した。

 

あの場にいたレスラーは、西村修、中西学、吉江で、

それと私たちマスコミと友人たち。

 

たまたま、私の目の前に座ったのが美奈さんだった。

吉江が照れながら「婚約してるんです」と紹介してくれた。

 

生前の福田雅一さんの紹介で付き合いはじめたという。

福田は日大のレスリング部出身、その体育会系のつながりで同期。

美奈さんは卓球部に所属していて国体で活躍するほどの選手だったという。

 

明るくて、可愛らしい人だった。

こんな金星のハートを射止めることができたのも、

吉江の人柄の良さからくるのだろう。

 

私が取材、プライベートで接してきた選手でいうと、

昭和のプロレスラーのなかで最高の善人はラッシャー木村さん。

 

平成のプロレスラーのなかでは、吉江豊となる。

 

そんな吉江が最後に罪深いことをしてしまった。

美奈さんを残して、勝手に旅立ってしまったことだ。

 

もちろん、プロレスラー吉江にも思い出は数多くある。

 

1998年8月、吉江はドイツCWAマットを中心とした欧州遠征へ出発。

すでに体が大きく‟スモー”ユタカ・ヨシエのリングネームで活躍した。

2000年に入り、凱旋を間近に控えカナダ・カルガリーの大剛鉄之助さんのもとへ。

過去に天山、小島、大谷らを鍛え上げた名伯楽のもとでトレーニングを積んだ。

 

当時、米国在住の『ゴング』海外特派員が取材に出向いたとき、

吉江は大剛さんの指導のもと、打撃の練習に没頭していた。

特大のサンドバックに蹴りを叩き込む写真が数多く送られてきた。

 

その模様をカラーグラビアで伝えるにあたり、すこし考えた。

肉体的にはスーパーヘビーで、打撃の練習にも余念がない。

 

私は、「格闘モンスター」と吉江を命名した。

ちょっとベタだけど、他にいい表現が思い浮かばなかったのだ。

 

2000年3月に約1年半の海外修行を経て帰国した吉江は、

中西、永田、福田とともに新格闘集団『G-EGGS』を結成。

しばらく吉江のキャッチフレーズを格闘モンスターと記していたが、

当時の新日本プロレス担当Y記者がユニークなキャッチを考案した。

 

世界中でブームになっていたポケモン(ポケットモンスター)にあやかって、

吉江のことを「格モン」あるいは「カクモン」と表記したのだ。

これに吉江本人が大喜びしてくれた。

 

「格闘モンスターじゃ荷が重いけど、

カクモンなら大歓迎ですよ!」

 

ようやく吉江にピッタリのキャッチができたし、

本人が喜んでくれたことがなによりも嬉しかった。

 

試合でいうなら、先述した棚橋とのIWGPタッグ王座戴冠もそのひとつ。

 

また、2003年の『G1 CLIMAX』リーグ戦で実現した永田戦では、

あの永田裕志をあと一歩まで追い詰める好勝負を展開してみせた。

 

2004年の『G1』でも強烈なインパクトを残した。

リーグ戦は1勝に終わりブロック最下位だった。

ところが、その1勝が値千金の白星。

 

8・9神戸ワールド記念ホール大会。

まだまだ衰え知らずの天龍源一郎に速攻勝負をかけると、

わずか4分余ダイビングボディプレスで圧殺してみせたのだ。

 

あの瞬間の会場のどよめきは忘れられない。

 

2002年4月、ノアの有明コロシアムに乗り込んだ試合も印象深い。

セミファイナルでワイルドⅡ(森嶋猛&力皇猛)の保持する

GHCタッグ王座に挑戦したのが中西学&吉江豊。

 

4人が4人とも130㎏を超えるバトル・オブ・スーパーヘビーの闘いはド迫力。

あの小橋建太が、わざわざアリーナの後方から試合を見とどけるほどの凄絶戦だった。

 

遺影の写真にも使用されているように、

世界タッグのベルトを巻いた曙とのコンビもインパクト絶大。

 

 

記録よりも記憶に残るプロレスラー。

その人柄で多くの仲間たちから愛された男。

 

そんな吉江のことをこの先も忘れるわけがないのだ。

吉江君、楽しい思い出をいっぱいありがとう!

 

合掌。