突然の訃報が入ったのは6月14日のこと。
発信者は現フリーカメラマン(元・週刊ゴング)にして、
デポマートを経営している大川昇くんから。
そのニュースは瞬く間に業界中に流れ、
多くのマスコミ関係者、選手たちに
大きなショックを与えた。
元・週刊ゴングの岩本稔カメラマンが、
5月末、外食中に脳幹出血により急逝したとのこと。
享年54。
なんとも若すぎる。
彼の妹さんが、葬儀等すべて終わってから、
ゴング時代の兄貴分でもあった大川くんに連絡をくれたという。
たしか、彼に最後に会ったのは5~6年前と記憶している。
元・週刊ゴング写真部のメンバーが集まって飲み会をやっているということで、
後楽園ホールで取材中の私にもお誘いの連絡が入り、大会終了後に飯田橋へ。
2次会は新宿のスナックへ移動。
そこへ岩本くんもやって来た。
昔とまったく変わらない元気な彼と、
昔話や互いに好きな野球の話などをして盛り上がった。
岩本くんがゴングにカメラマンとして入社してきたのは、
たしか、1992年の夏ごろだったと思う。
不器用だけど、真面目で一生懸命。
無口だけど、いつもニコニコしている。
そんな印象だった。
これは、おそらく1994~1995年当時のワンカット。
岩本くんがメチャ若いし、私はロン毛でコンタクトレンズをしている。
出張先で食事を終えホテルに戻る途中、
週刊プロレスのカメラマン勢と街中でバッタリ。
総勢5名でゲーセンに入り遊びまくったときのもの。
こちらは、以前にも掲載したのだが、
渋谷の仲本工事さん(故人)のお店『名なし』を訪問したときのもの。
永田裕志選手が手にしている週刊ゴングの表紙から2000年5月上旬だとわかる。
残念ながら3年前にコロナで亡くなった海谷さんも一緒にいる。
正直なところ、私は岩本くんにはかなり厳しく接していた。
本来、編集部と写真部は別部署なのだが、
本の出来不出来はカメラマンの腕しだいというところが大いにある。
越権行為とは知りながら彼にはことさら厳しく指導していた。
どちらかと言うと、のんびり屋だった岩本くん。
ただし、芯の強い彼は打たれ強かった。
精神的に弱い人間ならば、私もそれほど怒ったりはしない。
彼は私にメチャクチャ怒られて現場で涙を流していたこともあった。
それでも決してくじけることはなかった。
次に一緒に仕事をするときは、いつもの岩本くんだった。
だから、仕事を離れると彼にはできるかぎり優しく接したつもり。
彼も私にビビることなく、時には冗談で返してきたりもした。
また、彼には意外な一面もあった。
文才があったのだ。
ゴング誌ではロープブレイクというコーナーが毎週あって、
スタッフが4人ずつ順番に240文字以内で好きなことを書く頁があった。
何を書こうと自由だから、スタッフ内で人気のコーナーでもある。
そこで、岩本くんの書く話がいつもおもしろかった。
起承転結……ちゃんとオチがあるのだ。
そこで、ある企画を考えてみた。
90年代後半だったと思うのだが、
新日本の地方巡業に2日間、彼ひとりでまわってもらったことがある。
そこで、彼に2日間の巡業のなかで見て感じたことを
旅日記風にレポートしてもらったのだ。
これが予想以上におもしろくてビックリしたのを憶えている。
おいおい、下手な記者より視点が鋭くおもしろいぞ!
想像以上だった彼の感性に驚かされたものだ。
一緒に過ごしたのは、週刊ゴング時代の約14年ほど。
後輩ながら、いい仲間だったと思う。
そこで杉本喜公くんからの提案により
大川くんが連絡係を務めてくれて、
25日夜、参加可能なメンバーが集結。
元・週刊ゴングの編集記者、カメラマン、デザイナー。
いまもプロレス業界にいる人間もいれば、
まったく違う職種で頑張っている者たちもいる。
なぜかスターダムのロッシー小川EPも参加してくれた。
まあ、どんな集いであろうともロッシーさんは我々の同志なのである。
そして予想通り、岩本くんを偲ぶというより、
昔の馬鹿話に花が咲き、大人げない宴は延々と続いたのであーる。
おそらく、岩本くんも天上から苦笑いしながら眺めていたことだろう。
それに、もし彼がその場にいたなら大川くんに耳元で命じられた通りに、
私の背後から、「GK、飲み過ぎだよ! すこし控えろ」と言ってから、
岩本くんは笑いながら逃げていったことだろう(笑)。
彼は、そんな洒落の利く男でもあったのだ。
ゴング時代の思い出となると、
岩本くんは絶対に欠かせない男だった。
あらためて、合掌。
岩本くん、俺たちゴングの仲間意識は永遠ですよ!