7月20日、午前11時から千葉市内の斎場で母の葬儀(お別れ会)を行なった。

質素な家族葬ながら、棺の母は大好きな花に囲まれ幸せそうに見えた。

 

 

 

また、当日ちょっとした偶然に驚いた。

斎場は6年半前、父の葬儀を行なった場所を選んだのだが、

式場までたまたま同じ部屋であったのだ。

 

 

 

そういう偶然もあったせいか、

不思議な感覚に包まれた。

千葉市斎場は、火葬場も同じ建物のなかにある。

 

だから出棺のとき、式場からそのまま徒歩で

棺とともに150メートルほど歩いて火葬場へと向かう。

 

父のときは、先頭に位牌を持った喪主の母、

その後ろに遺影を持った私、そして棺、親族とつづいた。

 

今回は、位牌を持った喪主の姉、遺影を抱いた私、

そして母の棺、親族といった順に進んだ。

 

6年半前は、私の前を母が歩いていた。

本当に辛く悲しそうな表情を浮かべていた母。

そのときの光景がオーバーラップして不思議な感覚に包まれたのだ。

 

 

 

親族以外の方からも供花をいただいた。

永田裕志選手、藤田和之選手。

 

また葬儀屋さんを通すことなく

ケンドー・カシン選手も花を贈ってくれた。

 

 

いかにも、カシン選手らしいやりかた。

 

みなさんから頂いた供花は母の棺に納めさせてもらい、

カシン選手からの供花は姉の自宅に戻った

母の遺影、遺骨のそばに飾らせてもらった。

 

みなさん、ありがとうございます。

 

また、友人からも供花をいただいた。

 

帯広時代、互いの自宅が徒歩5分程度の距離。

小学1年生からの親友で中学、高校も一緒。

大学生となって上京してからも、よく泊まりがけで遊んでいた渡邉豊くん。

 

ウチの家族とも家族ぐるみの付き合いで、

父も母も、ナベを息子同然に可愛がっていた。

だから、今回の訃報に際し彼は大きなショックを受けていた。

 

現在、函館市内の病院で内科医として勤務しているナベには、

母が体調を崩し入院したとき、たびたび相談にものってもらった。

 

もうひとりが、勝木敦志くん。

彼のほうが2歳年長だが、

青山学院大学時代の4年間、濃密な付き合いをしていた。

 

運動部では同期、しかも男子部員の同期は彼と私の2人だけ。

同じ北海道出身ということもあって気が合ったし、

部の運営に関しては真面目に、ときには思いっきり羽目を外し、

文字通り二人三脚で学生時代を過ごしてきた。

 

現在の勝木くんは、日本でもっとも多忙な男のひとりかもしれない。

いま開催中の東京五輪のスポンサーも務めている、

アサヒグループホールディングスの代表取締役社長兼CEO。

 

彼もまた多忙の合間を縫って、私のことを随分と心配してくれた。

あ、彼の嫁さんは部の同期だった祥子さん。

祥子もいろいろとありがとうね。

 

ただ、やはり今回もイチバン頑張って母の葬儀を仕切ってくれたのは、

ウチの奥さんの京子さんだった。

父の葬儀のときも、彼女がしっかりと仕切ってくれた。

 

たぶん、母親も「やっぱり京子さんが一番頼りになるねえ」と

笑っていたのではないかな。

 

家族だけでのお別れ会の後、

母は火葬場で荼毘に付された。

 

骨上げのときも、すこし驚いた。

そのまま母が寝ているのが目に浮かぶほど、

太くしっかりとした丈夫な骨が整然と並んでいたからだ。

 

本来、母は丈夫な人だった。

父が帯広市で旅館を経営していたころ、

朝から晩まで働きづめで、同時に主婦業もこなしていた。

 

帯広から札幌へ、さらに千葉へと引っ越しても、

家の中は塵ひとつどころか、埃も見つからないほど綺麗に掃除されていた。

 

休むことが苦手というか、

つねに動きまわっていないと気が済まない性分だった。

 

だから体力があったし、

もともと骨も頑強だったのだろうなと思う。

 

入院初日、「パパに会いたい」と言っていた母。

今ごろ父と再会して、父お得意の親父ギャグに呆れつつも笑っていることだろう。

 

 

2人でずうっと仲良く過ごしてほしい。

 

産(生)んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。