7月12日、午後10時52分に母が亡くなった。

昭和9年7月29日生まれ、金澤ツヤ子。享年86。

もうすぐ87歳の誕生日だったので、

そこまでなんとか頑張ってほしかったのだけれど、

力尽きてしまった…。

 

母が体調を崩したのは5月下旬。

足腰の痛みがひどくて、寝室のある2階まで階段を上がれなくなってしまった。

6年前の1月23日に父が亡くなってから千葉市内の一軒家でひとり暮らしをしていた母だが、

私の姉がクルマで15分ほどの場所に住んでいるため、

父を自宅介護したときに使用していた介護ベットを1階の部屋に設置し、

夜はそこで休むようになった。

 

病院嫌いの母が病院へ行くのを拒むため、

毎月一度、近くの掛かりつけ医が往診に来てくれていたが、

6月に入って、「毎日必ず誰かが付いていたほうがいいです」と医師に言われ、

姉と私が毎週交互に付き添っていた。

 

私の場合、埼玉県在住なので、電車なら2時間半、

クルマで高速を飛ばしても1時間半ほどかかってしまう。

とても気軽に通える距離ではないから、

行ったときには2泊3日で介護していた。

 

頭のほうはしっかりしていて、以前とそれほど変わらない。

ところが、食欲が落ちてしまい、好きなものを買っていってもあまり食べられない。

訪問するたびに衰弱していくような感じで、1日中ベッドで過ごすことが多くなってきた。

それなのに、意地でもトイレだけは自力歩行で行くのだ。

 

私が手を貸そうとしても、「いいから、自分で行くから」と言って、

30分かけても自力で起き上がってトイレに行き、戻ってくる。

 

昔から、そうだった。

信じられないほどの根性の持ち主。

真面目で働き者で、正義感が強く、子どもにだって弱みを見せない。

 

姉と話し合った結果、いくら病院嫌いでももう限界だろうということで、

姉夫妻が6月24日から入院する手続きをとり、23日朝に病院関係者と自宅を訪問した。

そのとき、母がベッドでグッタリしていたという。

救急車を呼んで、蘇我の大きな病院に運ばれた。

 

各種検査の結果は、絶望的なものだった。

「いつお亡くなりになってもおかしくないほど衰弱しています」

また、大腸に7㎝ほどの悪性腫瘍も見つかった。

 

輸血、点滴によって、ある程度元気を取り戻したようだが、

やはり担当医の診断は変わらない。

 

現在、コロナ禍とあって、一般患者の面会は禁止となっている。

ただし、母の容態が容態だけに特別許可をもらい、姉、私と妻で、

1人=10分程度の面会を何度か繰り返した。

 

たしかに衰弱しているが、相変わらず頭はハッキリしていた。

入院中の母と最初に面会したとき、私に何か同じ言葉をしきりに訴えかけてきた。

そのときはよく聞き取れなかったのだが、あとからその言葉を思い出し反復してみた。

 

「パパに会いたい」

 

そう言っていたように思うのだ。

だけど、まだ会わせたくない。

 

内科の担当医、

消化器系の外科医とも話し合った。

食べる力が衰えているということで、

胃ろうをお願いして一旦は引き受けてもらったが、

大腸癌の影響から腸閉塞を起こす可能性があることを指摘された。

 

姉、妻と話し合った結果、

最後は自宅介護と決めた。

 

姉の自宅に専用の部屋を作り、

訪問看護師、介護士の手配も済んだ。

13日午前中に退院して自宅へ移動する手配もできていた。

 

その前日夜に、危篤の連絡。

姉も、私と妻も間に合わなかった。

息を引き取った母は、薄く目を開けて穏やかな顔をしていた。

 

「あら、来たの?」

 

いまにもそう言いそうな顔をしていた。

母の肩をさすりながら、心のなかで呟いていた。

 

産んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。

 

小学・中学生のころの私は、

手の付けられないガキ大将、悪ガキだった。

 

3歳上の姉が典型的な優等生だったから、

私の暴れん坊ぶりがよけいに際立った。

 

父には、子供のころ一度も叱られた記憶がない。

一方、母の躾は厳しく、小学生のころは鬼のように見えたもの。

 

一度、ホウキを手にした母に家中追いかけまわされたことがある。

最後は物置に逃げ込んだが、追い詰められホウキの柄でひっぱたかれた。

 

あのときの恐怖心は、まだ記憶に残っている。

サザエさんとカツオの追いかけっこどころじゃない!

映画『八つ墓村』で血の涙を流しながら追ってくる小川真由美から

逃げまわる萩原健一の心境といったほうがいいかも(笑)。

 

まあ、私のことだから、よっぽどの悪さをしたのだろう。

もちろん、このエピソードはここ数年、母との間でギャグとして使われていた。

 

「あれは虐待だな。いまだったら大問題だよ」

 

「ばーか。可愛い息子だからこそ、汚れたハケじゃなくて柄で叩いたんでしょう」

 

ただし、父が子どもに優しくて甘かったから、

母の躾が厳しくてちょうどよかったのかもしれない。

 

もし、母の躾がなかったら、私はロクでもない人間になっていたかもしれない。

同時に、おもしろいことに姉にも私にも、

いわゆる反抗期というものがまったくなかった。

 

これは家が旅館を経営していたため、

平日も休日もつねに両親が家に居たからだと思う。

だから、なにも反抗する要因がないのである。

 

 

これは、2年ほど前に姉が撮った写真。

姉夫妻とレストランに出かける前だから、すこし母もオシャレな格好。

母は身だしなみに気を使うし、昔からオシャレだった。

 

生まれたのは父と同じで北海道の帯広市。

高卒で銀行に就職した母は街を歩いていて、ある人に声を掛けられた。

ハリウッド美容専門学校の創設者でもあるメイ牛山さんだ。

 

そのころ、帯広でファッションショーを開催するにあたり、

下見に訪れていた牛山さんが街頭で母に声を掛けたのだという。

当時としては165㎝と長身にしてスタイルの良かった母が目に留まったようだ。

 

牛山さんにスカウトされた母はモデルとなり、

その後、父とともに東京で暮らした。

サッポロビールのキャンペーンガールをやったり、

雑誌、カタログなどのモデルを務めていた。

 

結婚前から父と暮らしていながら、

20代前半は青春を謳歌していたようだ。

 

銀座が大好きで、友人とお茶をする約束をして早朝から銀座の街を歩いているとき、

長身で体格のいい若い男性がまだ人気のすくない路上でジョギングしていた。

なぜか母の前まで来てからクルっとまわってUターンしていく。

それを何度か繰り返すのでよく見てみると、

相手はあの石原裕二郎だったという。

 

「えっ、もしかして裕二郎さん?」

 

「はい、エッへへへ! また会いましょう!」

 

大ファンだった石原裕二郎にナンパ(?)された。

 

「映画の笑い声とまったく同じ笑い声だったんだよ。

ママもうびっくりしちゃってねえ」

それが母のイチバンの自慢だった。

 

同じ友人と興味本位でダンスホールに行ったとき、

「一緒に踊ってもらえませんか?」と、

無茶苦茶イケメンの男性から誘われて踊ってみた。

 

相手は、1950~70年代にかけて硬派の二枚目俳優として

一世を風靡した大木実だったという。

 

だけど、こんなにモテた母がなぜ父に惚れたのかな?

やっぱり、父がとびきり優しかったからなのだろうか?

 

ちなみに、両親が結婚する際に仲人を務めてくれたのが、

帯広市在住だった中島みゆきさんのお祖父ちゃん。

 

明日(20日)午前、千葉市の斎場で家族葬を行ない母を見送ります。

 

最期までいっさい弱音を吐かなかった強い母。

働き者で料理上手で読書家で、博識だった母。

なにより、子どものことをイチバンに考えてくれた母。

実の息子の私より、嫁さんを可愛がってくれた母。

 

産んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。

 

 

これは2005年11月、札幌から千葉へと引っ越し、

姉の別荘を訪ねたときのショット。

 

もうすぐ、パパに会えるからね。