ノアの2・12日本武道館大会が終わった。

10年2カ月ぶりの‟聖地”日本武道館帰還は、

魂を揺さぶられるような素晴らしい興行となった。

 

その余韻も冷めやらぬなか開催された3日明け会見。

15日、サイバーファイトの記者会見において、サプライズ発表があった。

 

 

新GHC王者である武藤敬司のノア入団と、

前日、新KOーD無差別級王者となった秋山準のDDT入団。

 

じつは私、細かいマット事情に疎い面があるので、

秋山の場合、すでにDDTの契約選手だと思いこんでいた。

 

だからそちらは、あらためて「ああ、そうだったんだ!?」という感覚なのだが、

武藤が正式にノアの契約選手となったことはまさに驚きだった。

 

そして、あの名(迷)台詞が19年の歳月を経てふたたび飛び出した。

 

「契約したからには、この団体に俺の骨の髄までしゃぶってもらいたいと思います」

 

19年前のあのときとは、新日本プロレスを退団し

全日本プロレス入団会見を行なったときの所信表明。

 

あのとき武藤は、「全日本プロレスに骨を埋めます」と言うつもりだった。

ところが、その言葉ではナマっちょろいと感じたのか、

咄嗟のアドリブで「骨までしゃぶってもらう」と言い放った。

 

やや噛んでしまったことに本人も照れ笑いしていたし、

マスコミからも笑いが漏れた。

 

だけど、のちになって、それもまた名言として武藤語録に加えられる。

 

「プロレスとは、ゴールのないマラソンのようなもの」

 

「思い出と闘ったって、勝てっこねえんだよ」

 

それらと並ぶ武藤の三大名セリフと言っていいのかもしれない。

ともかく、武藤敬司がまた思わぬカタチで動きはじめた。

 

激闘の翌日に電話を入れてみたときは、

「もう疲れたよ。防衛戦なんて1年に1回ペースでいいかなって」

と、本当に疲れ切った声で笑っていた武藤。

 

ところが、早くも3・14福岡国際センターで、

清宮海斗の挑戦を受けるⅤ1戦が決定した。

 

福岡国際センターといえば、1999年5月3日、IWGPヘビー級王者として

天龍源一郎の挑戦を受けてⅤ3に成功した思い出の地。

‟ミスタープロレス”の称号を懸けた一戦でもあった。

 

なんと天龍が掟破りの雪崩式フランケンシュタイナーを初公開。

この天龍の一発に館内が大爆発し、記者席のマスコミ陣もド肝を抜かれた。

 

ヘビー級レスラーとして世界で初めて雪崩式フランケンを公開したのが武藤である。

(※ジュニアヘビーまで広げると、雪崩式フランケンシュタイナーの元祖はライガー)。

 

試合は、ムーンサルトプレスを放った武藤の両膝が天龍の腹部をぐさりと直撃。

凄まじいダメージを食って、さすがの天龍も返すことができなかった。

 

試合後、武藤はこうコメントしていた。

 

「やっぱり、天龍源一郎は凄い。

おれ、認めるよ。

試合は勝ったけど、称号は譲るから。

あの人が、ミスタープロレスだ!」

 

この一戦は文句なく、1999年度『プロレス大賞』のベストバウトに選出されている。

 

あ、ヤバい。

思いで話になると、

いろんな記憶が蘇ってきてしまう。

 

これって、トシのせいなのか?

それとも脳内がプロレスにおかされてしまっているのか(笑)。

 

話題を戻して、2・12日本武道館大会。

 

じつは潮崎vs武藤の前哨戦を見るにつけ、不安しか浮かんでこなかった。

58歳の武藤敬司は、盛りのすぎた58歳のプロレスラーにしか見えなかった。

顎ヒゲだけではなく、胸毛まで白髪になっている。

 

天才といえども、年齢にあらがうことはできない。

それが正直な想い。

 

 

これは本番4日前のこと。

ABEMAのPPV解説を担当することを伝えるために、

あとはコメントの矛盾している部分に関して本音を確かめるため、

武藤に電話を入れてみた。

 

「コメントなんか、そのときの気分で出てくるものだからさあ。

矛盾していたって、どの言葉にも嘘はねえんだよ。

俺はプロレスにしがみついてでも生きていくしかねえんだから。

まあ、しんどいけど頑張るよ。

俺たち同年代、お互いに頑張ろうぜ!」

 

電話で話す武藤はいつもの武藤。

オフレコ話になると、大いに盛り上がったりもした。

 

そして、本番へ。

驚きは、私の予想を覆す方向に出た。

大舞台のメインイベントに立った武藤から、

あのころの武藤敬司の輝きを何度となく垣間見ることができたのだ。

 

ここでPPVの放送席。

事前のミーティングで、ABEMA制作サイドから

「リング外の話もどんどん盛り込んで、居酒屋トーク的なノリもお願いします」

と言われていた。

 

天龍さん、田上明さん、小橋建太さんも、

そのノリにしっかり応えてくれた。

 

しかし、メインの試合中まさか天龍さんから

こんなツッコミが来るとは思わなかった。

 

ちょうど武藤が入場花道ステージに潮崎を連れ出し、

場外(花道)乱戦になりかけたときだった。

 

「こういうパフォーマンスは、グレート・ムタを彷彿させますね」

 

そう私が解説したところで、いきなりキター。

 

「武藤とムタって同一人物なの?」

 

「あ、それは極めて近い関係にいるらしんですけどね」

 

「おお、さすが詳しいね?」

 

「あ、ボクぶっちゃけ本人がペイントしているところを2回見たことありますけど…」

 

「それは知らなかったな」

 

「だって天龍さんも昔、広島グリーンアリーナで長州さんとのタッグで

武藤、蝶野組と試合したときに、武藤選手の頭にペットボトルの水を掛けて

『武藤じゃ物足りねえ、ムタで来い!』って。それで武藤選手が引き揚げて

蝶野が2人相手に20分くらい1人で闘ってボロボロになって、

そこにムタが現れて大暴れしたことあったじゃないですか?」

 

「もう、リング上の話をしよう!」

 

「はい、リング上の話をしましょう」

 

一語一句は憶えていないけれど、

たしかそんなやり取りになった。

 

これ、いいのかな?と思ってフロアディレクターのほうを見やると、

ディレクター氏はストップをかけるわけでもなく爆笑していた。

 

まあ、場外乱闘中だったし、これはこれでいいのかなと。

ただ、「昔の広島グリーンアリーナ」とは新日本史に残る大会だったから

(※メインのIWGPヘビー級選手権で藤波が橋本から大逆転の王座奪取)、

1994年4・4広島大会と日付がパッと出てこなかったのだけは悔やまれる。

 

ま、放送席でのこぼれ話である。

 

ーー閑話休題ーー

 

潮崎vs武藤の激闘のなかで、私自身がもっとも印象に残っているシーンは2カ所。

もしかしたら、他の方とは見かたがまったく違うかもしれない。

 

まず、武藤がシュミット式バックブリーカーからコーナーに上がった場面。

まさか!まさか!のムーンサルトプレスを放つのか?

隣席にゲスト解説でいた杉浦貴が「エッ!?」という感じで私に目配せしてきた。

 

私が「武藤はムーンサルトはもうやらないと思います」と解説した直後でもあったからだ。

ほぼ真下から武藤の表情がイチバンよく見える位置に私の席があった。

 

 

逡巡――とはこの時に使う言葉なのだと思った。

あのときの武藤の葛藤した表情。

ある意味、千両役者だった。

 

次に印象的だったのが、プロレス界随一といっていいパワーを誇る潮崎が、

セカンドロープから武藤を高々とブッコ抜き雪崩式ファルコンアローを仕掛けた場面。

 

武藤は重い。

実際にウエートもそうだし、

腰が重いので投げるほうはかなり苦労する。

 

さすがの潮崎もバランスを崩して腰砕けのような状態で落下。

武藤は頭からマットに突き刺さり、潮崎は腰をひねった。

本当にヒヤリとする危険なシーン。

 

だが、2人とも立ちあがった。

武藤の肉体的な特長。

首が柔らかく、かつ恐ろしく強い。

彼がこの年齢までやってこられたのは、

首の強靭さにもあるのだ。

 

もう、試合前の不安などはすべて吹き飛んでいた。

 

武藤敬司と潮崎豪。

もし、同世代であったならおそらく交わらなかったかもしれないし、

対戦しても噛み合わなかったのではないかと思われる両選手が、

真っ向勝負でぶつかり合っていた。

 

愚直なほどに真っすぐで誠実な性格と人間性をもつ潮崎。

絶対的な自信を失いかけながらも、その年齢と闘う武藤。

その両者がリングで相まみえたとき、奇跡の名勝負が生まれた。

 

 

武藤本人が「あんな低いフランケンシュタイナーだったけどさあ」と

翌日の私の電話に自嘲気味に語った大逆転のフランケンシュタイナー。

 

58歳の等身大のフランケンシュタイナー。

その低いフランケンシュタイナーもまた武藤の生きざまを象徴していた。

 

だから、多くの人たちが心を打たれた。

カッコよさ、華麗さを追求してきた男が、

必死にもがいてカムバックする姿が

あの一発逆転のフランケンシュタイナーだったから、

よけいに心に響いたのだ。

 

敗れた潮崎も本当に立派に闘い抜いた。

武藤自身も認めていた通り、いまの武藤に勝ったところで

潮崎にはそれほどメリットはなかったと思う。

それでも全力で叩きにいった姿が眩しく立派だった。

 

58歳の狂い咲き。

今回のブログのタイトルにした‟狂い咲き”は、

20年前、私が『週刊ゴング』の巻頭特集で武藤のことを評したもの。

 

2001年のことだ。

2000年の暮れ、半年間のWCW遠征から帰国した武藤(ムタ)は、

様変わりした新日本マットを見て目標を失いかけていた。

 

そう、新日本マットでは小川直也が暴れていたり、

総合格闘技で圧倒的な実績を残した藤田和之が

総合と新日本をまたにかけて活躍しIWGPの頂点にも立った。

 

武藤は全日本プロレスに活路を見いだした。

純プロレスを貫く全日本マットは水に合った。

天龍との再会、川田利明との初対戦はいずれも名勝負となった。

 

新日本所属ながら、三冠ヘビーのベルトを巻いて

日本武道館の花道を入場する武藤に全日本ファンは喝采を送った。

ほとんどの選手が新団体ノアに流れ、手薄になった全日本の選手層。

そこに出現した武藤の存在は、まさに全日本の救世主だった。

 

日本武道館のメインの花道を入場する快感。

あの当時、武藤は思った。

 

「俺はアントニオ猪木になった!」

 

それほど2001年という年は武藤にとって大きかった。

三冠ヘビー、世界タッグ、IWGPタッグを同時に巻き、

史上初の6冠王者にも輝いた。

 

その年、武藤は『プロレス大賞』のMVPに選出された。

当時、私も選考委員を務めていたのだが、

実際のところ選考会において、MVPの選出は難航した。

 

たしか、武藤と秋山準がMVPを争ったと記憶している。

選考会でディベートになったとき、私はこう主張した。

 

「実際に武藤の膝は両方ともボロボロですよ。

今年、MVPを獲れなければもうこの先は無理だと思います!」

 

なぜか、この話がどこからか武藤に伝わってしまったらしい。

 

「選考会で金沢さんが俺のコンディションのことを強く言ったらしいね。

なんか、お情けでもらったみたいで、俺あんまり嬉しくねぇーよ」

 

武藤には、そう言われた。

ただし、本当にふだんの歩行にも支障をきたすほど、

武藤の膝はひどい状態にあることを私は目の当たりにしていたのだ。

 

そういった部分も含めて、2001年のMVPを獲得した

武藤をテーマにした週刊ゴングの巻頭原稿の大見出しには、

『これが最後の狂い咲きか!?』と銘打った。

 

武藤は、この表現にもじつに敏感になり、

事あるごとに「狂い咲き」という言葉をコメントで使うようになった。

 

たとえば、2004年のチャンピオン・カーニバルで佐々木健介を破って

2年ぶりの優勝を果たした試合後の共同インタビュー。

武藤は、私の顔をチラリと見てからこう言い放った。

 

「オレはまだまだ狂い咲いてやるからな!」

 

あ、まだ根に持っているのかあ。

思わず苦笑いしてしまった。

 

思い起こせば、1998年~2003年にかけての約6年ほど、

私と武藤はマスコミとレスラーという立場を超えた関係性を築いていた。

仕事でもプライベートでもあまりに濃密な時間を共有していたのだ。

 

だから、当時の武藤物語はいくらでも書けてしまう。

ところが、私がゴングを退社した2005年あたりから15年ほど疎遠になってきた。

 

もしかしたら、私のなかでもまた新たな武藤物語が始まるのかもしれない。

58歳の狂い咲き――。

それを現実のものとして間近で目撃したからである。