2021年、プロレス界のスタートを象徴するビッグイベント、

1月4&5日の東京ドーム大会2連戦が終わった。

 

この大会(1・4)をもって、ワタクシ金沢克彦の

テレビ朝日『ワールドプロレスリング』解説の仕事もひと区切り。

 

卒業となった。

 

ここで卒業という言葉を使ったのは、

同じく1・4をもって解説の仕事を終えた山崎一夫さんが

自身のツイッターで卒業と書いていたから。

 

温厚な山ちゃんらしく、粋な表現を使っていたので拝借させてもらった。

じつは私の場合、今大会をもって新日本の解説の仕事に終止符を打つことを

どう表現したらいいものかあれこれと悩み考えていたのだが、

なかなか適切な言葉が浮かんでこなかったのだ。

 

実際のところ、これは4ヵ月も前から決まっていたこと。

現在のテレビ朝日・新日本プロレス中継全般の責任者の方と

9月7日に都内で直接お会いしたときに通告があった。

 

「単刀直入に言いますと、解説陣のほうも世代交代ということで……

来年の1・4東京ドーム大会を最後にということでお願いできますでしょうか?

いままで大変お世話になりご迷惑もかけ申し訳ないのですが、

金沢さん、山崎さん、柴田さんにはそういうお願いをしているところです」

 

じつに丁重な物腰でそう言われた。

無論、私はオファーを受けて仕事をする立場にいるから、

そこに関して議論する余地などないし必要もない。

 

「わかりました。

物事に永遠というものはないわけですから、了解しました」

 

そう即答させてもらった。

 

初めてテレ朝『ワールドプロレスリング』の放送席に座ったのは、

天山広吉の凱旋試合が行なわれた1995年の1・4東京ドーム大会。

このときは、ゲスト解説としてオファーされている。

 

その後、正式にレギュラー解説者としてのオファーを受けたのが、

2002年の7月下旬だったと記憶している。

当時の松本仁司プロデューサーからのオファーだった。

 

「8月から『ワールドプロレスリング』のレギュラーということで、

ぜひ解説のほうをお願いしたいと思います。

契約書とかはありませんけど、

心の契約ということでよろしくお願いしますね」

 

そのオファーを快諾し、初めてレギュラー解説者として放送席に座ったのが

2002年8月11日、両国国技館で開催された『G1 CLIMAX』優勝決定戦、

蝶野正洋vs高山善廣の一戦だった。

 

以来、18年と5ヵ月、テレビ朝日・新日本プロレス中継の

レギュラー解説者を務めさせてもらったわけだ。

 

プロレス週刊誌(紙)の記者として活動していたのが、

約20年であり、私は2005年12月からフリーとなった。

 

だから、それ以降の活動でいうなら、

やはりテレ朝・新日本プロレス中継の仕事がメインとなり、

自分自身にとってライフワークと位置づけされるものとなった。

 

そういう状況もあって、やはり昨年9月に聞いた

卒業通告に対してはかなり複雑な思いに駆られた。

 

先述したように契約云々はなにも交わしていない。

契約しているわけではないから、リストラとか戦力外通告とかいう表現も当てはまらない。

また、心の契約という言葉はとりようによっては契約書より重い感じもする。

 

そういったさまざまな事情があっての通告だから、

言われるほうだけではなく、告げるほうも苦渋の思いだろう。

こういうとき、言われる側より言う側のほうが辛いものだ。

 

私の立場からすれば、それを理解するしかない。

とうてい納得はできなくても、言いたいことは山ほどあっても、だ。

富士山、いやチョモランマほど言いたいことがあっても(笑)、

やはり言う立場にはいないということなのである。

 

まあ、そういうなかで迎えた1・4東京ドーム最後の解説。

自分なりに全力で臨み、大会後には「燃え尽きたかな」とも思った。

 

その一方で、これだけ長くやっていると、ちょっとした変化にも気づくもの。

隣に座っているミラノ先生がふだんよりすこし遠慮気味に喋っている。

あ、これは私に花を持たせようとしてくれているんだろうな……

そのへんの微妙な空気・感覚にも気付いたりもした。

 

全試合終了後、テレ朝控室にて‟卒業セレモニー”の開催。

前日に初めて事情を聴いたというアナウンサー陣はすこし戸惑いを隠せないようでもあったが、

1・4の放送に参加したアナウンサー、スタッフが全員集合(※中継車担当スタッフ以外)。

 

山崎一夫さん、柴田惣一さん、私の3名を送り出してくれた。

こういうセレモニーは私のもっとも苦手とするところなのだが、

やはりケジメという意味も込めて嬉しくもあった。

 

 

最後は、東京ドームのフィールドに出て記念撮影。

これは、いい写真だねえ!

 

最後に、ワタクシ金沢がこの18年5ヵ月にわたり、

プロレス中継の解説者としてこだわりつづけてきたことを、

この機会に書いてみたいと思う。

 

もちろん、新日本プロレス以外の団体の

テレビ解説を担当するときも同じこだわりを持ってやってきたし、

今後もその部分は絶対に曲げないと思うのだ。

 

まず大前提として、解説者はすべての面で実況アナウンサーより

プロレスに関する知識を持っていなくてはならない。

これは解説を担当するのだから当たり前のこと。

 

過去の対戦成績、試合が組まれるに至った経緯、

当日までの前哨戦の状況、双方のコメント。

これらを把握しておくと同時に、得意技も再確認しておく。

 

現代プロレスにおいては、わずか1週間で得意技、

新技の名称が変わっていることもあるからだ。

 

また、場数の少ない新人の実況アナウンサーの場合、

技の名前や事実関係をつい間違えてしまうこともある。

 

そういうときに、さりげなく解説で訂正してあげることも必要となる。

 

実況アナウンサーのみなさんは、自分の担当試合に関して

その資料をビッシリとノートに書き込んで準備してくる。

 

現代プロレスでは、本当に留意すべき箇所が多いのだ。

ハッキリ言って、ひと昔前の比ではないほど

実況アナウンサーが負うべき責任は重く、知識も必要となってくる。

そして解説者にはそれ以上が求められるし、そうでなくてはならない。

 

ところが、いまはアナウンサーにとうてい及ばない知識

しか持っていない解説者がなんと多いことか?

 

もう、話にならないのである。

ただし、ここまではまだ準備段階であり、

本番前の話なのである。

 

ここで、プロレス中継そのものについて考えてほしい。

たとえば、サッカー解説はサッカー経験者にしかできないし、

プロ野球の解説はプロ野球経験者にしかできない。

 

ボクシング、柔道、相撲などの格闘技も同様だろう。

ただし、プロレスだけは昔から元プレイヤーだけではなく、

プロレス記者も解説席に座っている。

 

そこがプロレスという特異なジャンルを象徴していると思う。

ただ勝ち負けだけを競っているわけでない。

観客はプロレスの試合、プロレスラーを通して、

人生の縮図や生き様、人間同士の絆や憎悪といった感情まで感じ取って、

ときには立ちあがって熱狂し、ときには涙を流すほどに心を揺さぶられるのだ。

 

そこの部分を伝えるのが、マスコミ関係の解説者の役目。

私は19年前からそう考えて解説席に座ってきた。

 

目の前で起こっていること、試合の攻防に関して感想を言うだけなら、

ふつうのファンにだってできること。

 

細かい技術論は元プレイヤーや現役プレイヤーに任せておけばよい。

私が伝えるべきものはプロレスの試合ではなくプロレスラーの生き方なのだ。

これは、プロレスの記事を書くときも、テレビ解説をするときも同じで、

それが私のライターとして、また解説者としてのポリシーでもあった。

 

プロレスを語るのではなく、プロレスラーを語りたい。

プロレスを伝えるのではなく、プロレスラーの生きざまを伝えたい。

いま現在に歴史を重ねて見ることによって、闘いをよりドラマチックに伝えていきたい。

それが、ワタクシ金沢克彦流の解説なのである。

 

はたして、その意図がみなさんに伝わっていたかどうかはわからない。

だけど、私にはそれを伝えるべくつねに全身全霊で取り組んできたという自負はある。

 

そういったものを言葉にして伝えようとする解説者が、

私以外にも是非とも出てきてほしいと思う。

 

そうじゃないと、「新日本プロレス中継にはGKが足りない!」

といわれるようになるかもしれない。

また、私の出番が必要となるかもしれないではないか。

 

まあ、最後なので思うがまま勝手に書かせてもらった。

歴代のテレビ朝日・新日プロレス中継スタッフのみなさん、

実況アナウンサーのみなさん、本当にありがとうございます。

 

本当に楽しくて、有意義な時間を共有させてもらいました。

いつか、また会えるときが来ることを信じて……

アディオス❕❕