めっちゃ遅くなり申し訳ない。

タイガー服部さんの写真をいろいろと探してみたのだけれど、

なかなか見つからなかったのだ。

 

かくなる上は…と昔の『週刊ゴング』をチェックしてみた。

服部さんがレフェリングした、自身が語る思い出の試合ベスト3。

 

ビッグバン・ベイダーvsスタン・ハンセン(1990年2月10日/東京ドーム)

アントニオ猪木vsリック・フレアー(1995年4月29日/北朝鮮・平壌メーデー・スタジアム)

橋本真也vs小川直也(1999年1月4日/東京ドーム)

 

ところが、きちんと資料整理をしていないものだから、

その大会が掲載されたゴングが見つからない😢

 

かくなる上は、やはり大川昇カメラマンの力を借りるしかないと思い、

服部さんがレフェリングしている写真を数点送ってもらった。

 

これは、大川君にとっても難儀な作業であったろう。

レフェリーという存在は意識的に撮らないかぎり、

なかなか良いショットを探すのは難しいもの。

 

とくに、服部さんのような名レフェリーになると尚更である。

選手の動き、試合を妨げないように配慮する、

観客とカメラマンの邪魔にならないポジション取りを意識する。

 

だから、服部レフェリーがしっかり写り込んでいる写真は、

反則行為に対して体を張って制止に入っているとき、

あるいは3カウントを入れるとき、タップを確認する瞬間。

そういう状況にかぎられてしまうのだ。

 

                                          ●写真/大川昇

 

これは2010~2011年にかけて抗争を展開していた

石井智宏vsタイガーマスクのワンシーンである。

当時、「タイガーハンター」を自称していた石井は、

みちのくプロレス時代から因縁のある4代目タイガーと激しくやり合っていた。

マスクに手を掛けた石井を必死に止める服部さん。

 

やはり、レフェリーという職業はそうとうに体力を消耗する。

服部さんをして、「もう体がボロボロ」と言うのも納得できるだろう。

 

せっかく大川カメラマンが探してくれたので、

ここからすこしばかりタイガー服部記念写真展。

 

                                                  ●写真/大川昇

                                                 ●写真/大川昇

                                                 ●写真/大川昇

 

どうだろう?

やっぱり、服部さんは絶妙のポジショニングをとっている。

決して、観客、カメラマンを邪魔しないように、

しっかりと試合を裁いているのだ。

 

タイガー服部という存在に関しては、

もちろんこの業界で仕事を始める前から知っていた。

 

マサ斎藤さんの明治大学での後輩にあたり、

レスリングつながりから長州力と仲がいい。

いわゆる長州グループの人という認識。

 

それでいて、フロリダでのマネージャー時代にはマサさんとタッグを組んでいた

カブキさん(当時はミスター・サト)、フロリダ修行時代の天龍源一郎とも交流が深い。

日米をまたにかけた本当の意味でのレジェンドなのである。

 

そんな服部さんと初めて会話したのは、1987年7月5日のこと。

場所は函館市内のホテル最上階にあるバーだった。

なぜ、その日付をはっきり覚えているのかというと、理由がある。

 

同年3月、全日本マットを主戦場としていたジャパンプロレスが分裂し、

長州グループは長州軍団として6月から古巣の新日本マットに復帰した。

 

そのゴタゴタの最中、体調不良を理由に群馬県の伊香保温泉で休養していた

長州力を当時、『週刊ファイト』の記者だった私が突撃取材した。

 

自分の居所がマスコミに知られていたこと、

しかも若造の新米記者が滞在中の温泉ホテルまで取材に来たこと。

長州は怒髪天に発していたが、最終的に私に約束を迫った。

 

「今日会ったことは記事にしないでくれ。

その代わり、必ずお前の単独インタビューを受けてやるから」

 

そういう話だったので、私も約束を守った。

それから間もなくのこと。

新日本が7月に開催した東北、北海道ツアーを

私はカメラマンを兼ねて同行取材した。

 

そして、その時がきた。

7・5函館大会の夜。

当時、長州のマネージャーを担当していたKさんから

ホテルの私の部屋に電話が入った。

 

いま、長州はホテル最上階のバーにいて、

取材を受けてもいいと言っているから連絡してみてほしい。

そういう内容だった。

 

電話を入れてから、私はバーに入った。

そこにいたのは、長州、マサさん、服部さんの3人だけ。

 

長州に促された私はカウンター席に座らされた。

なんと、長州とマサさんに挟まれる格好だった。

服部さんは、近くのテーブル席に1人で座っていた。

もしかしたら、私が来ることを聞いて、

服部さんはカウンター席からテーブルに移ったのかもしれない。

 

それにしても、これはかなりビビる配置でありシチュエーションだ。

当時、25歳の私はまだ記者キャリア1年ほど。

それでも、毎週2ページのインタビューページをレギュラーで担当していたから、

藤波辰爾、天龍源一郎、ジャンボ鶴田、前田日明といった大物たちにもインタビューしてきた。

 

ただし、長州力の存在感は別格。

なによりジャパンプロ解散、

全日本から新日本へUターンしたことにより、

マスコミにあれこれと憶測記事を書かれたことに激高していた。

 

もともとのマスコミ嫌いが何倍にも膨れ上がっていたから、

記者会見の場は別にして、個別でのマスコミ取材はいっさいNG。

事実上、全社に対して取材拒否状態であったのだ。

 

「お前、なに飲む?」

「はい、ビールください」

 

沈黙…。

 

「もう1本飲むか?」

「まだ仕事が残っていますから、遠慮しておきます」

 

沈黙。

するとマサさんが口を開く。

 

「酒も飲めないやつに仕事なんかできるわけないぞ」

 

そんな無茶な…。

沈黙。

気まずい。

 

天下の長州力が左隣にいて、右隣には獄門鬼のマサさん。

真ん中に挟まれた25歳のグリーンボーイ。

その絵柄と緊張感、ちょっと想像してみてほしい。

この重い空気を察した服部さんが、後ろのテーブルから話しかけてくれる。

 

「ユーはどこの出身なの?

大学はどこ?

ファイトの井上さんは元気にしてるの?」

 

「井上は2人おりまして、編集長の井上さんと、

海外事情に詳しいフランク井上さんですけど…」

 

「ああ、フランクだけじゃなくて、

編集長も井上さんだったね」

 

いやあ、救われた。

服部さんがいろいろと話しかけてくれなかったら、

いったいどうなっていたことやら。

 

結局、その状態で1時間ほど。

 

「オレは先に引き揚げるから、

30分後にオレの部屋に来てくれ。

そこでインタビューしよう」

 

そういった長州の言葉でお開き。

単独インタビューも無事に終えることができた。

とにかく服部さんに感謝。

それが初遭遇の記憶である。

 

服部さんは日本人的なところとアメリカンなところが

ちょうどよくミックスされたような人物。

 

長州、マサさんとずっと行動をともにしてきた義理堅さ。

相手がはるかに年下であろうとも、

偉ぶることなく真正面から接してくれること。

 

2014年の『G1 CLIMAX24』開催中にこんなこともあった。

この年の『G1』で公式戦ベストマッチとして大きな話題を呼んだのが、

AJスタイルズvs鈴木みのる戦だった。

 

まったくタイプの違う両雄が対戦したとき化学反応が起こった。

オールドスクールとニュースクールが見事にトゥギャザーし、

後楽園ホールが大爆発したのだ。

 

当時、復刊『ゴング』第0号の制作に携わっていた私は、

この奇跡の名勝負をマニアックに特集したいと考えていた。

旧知の鈴木への取材は電話でもできるのだが、

AJの場合はそうはいかない。

 

そこで新日本から許可をもらい、

1週間後の8・8横浜大会の試合前に

AJへの緊急インタビューを行なうことになった。

 

ところが当日、通訳をしてくれるはずの新日本のNさんが

交通渋滞に巻き込まれて到着が遅れてしまった。

AJとは午後5時に会場内で取材をする約束になっている。

 

うーむ、困った。

私の拙すぎる英語力ではまともなインタビューなど不可能。

だけど、やるしかないかと腹を括ったところに服部さんが通りかかった。

 

ワケを話して通訳をお願いすると、

「オレ、英語も日本語も下手くそだけど、いいの?」

と笑いながら快く引き受けてくれた。

 

このときも感謝。

 

また、ヒールマネージャーとして

米マットを闊歩していた経験をもつ服部さんだけに、

怖いもの知らずというかトンパチな面も持ち合わせている。

 

服部さん自身が、レフェリー人生で最高の試合と言ったのが

平壌での猪木vsフレアー戦。

私も同行取材しているのだが、

現地ではつねに日本語のできるガイドがピッタリと付いてきた。

 

そして、オフの日にはクルマであらかじめ決められた観光コースをまわる。

平壌自慢の場所へ連れていかれるのだが、

そこは文化会館であったり、最新設備を持った産婦人科病院であったりと、

けっこう予想外の場所が多かった。

 

そのなかでも興味深かったのが、

驚くほど地下の深くを走っている地下鉄の見学。

これだけ深い場所に地下鉄があるというのは、

一説には有事の際にシェルターの役割を果たすためとも言われていた。

 

地下鉄見学といっても、我々はその乗り場までしか行けない。

なぜか、乗車は厳禁だと現地のガイドは頑なに言うのだ。

 

ところが、服部さんは切符を買って

勝手に地下鉄に乗ってしまった。

 

「せっかくここまで来たのに乗らなきゃ意味ないじゃない!」

 

それが服部さんの言い分。

たしかに、そうだよなあ(笑)。

結局、選手団、イベント関係者、マスコミ勢のなかで、

その地下鉄に乗車した人間は服部さんを含めた2人くらいだったと記憶している。

 

日本人で北朝鮮・平壌の地下鉄に乗った人間なんてそうそういないだろう。

さすが、世界のタイガー服部だと感心したしだいである(笑)。

 

まあ、思い出は尽きないのだが、

服部さんはそのフランクな性格もあって、

本当にみんなから好かれていた。

 

日本人、外国人を問わずレスラーたち、

新日本のスタッフ、マスコミ……。

 

親父と息子以上にトシの離れたオカダ・カズチカが、

服部さんとイチバン仲良しだったのもわかるような気がする。

 

ダンディーで気さくな服部さん。

そんな格好いいオジサンも気がつくと

格好いいおじいちゃんの年齢に近づいてきた。

 

そこでレフェリー引退を決意したのだった。

 

2月19日、後楽園ホール。

タイガー服部レフェリー引退記念大会。

 

 

当日、セミファイナルとメインイベントを裁いた服部さん。

最後まで凛としてカッコよかったなあ!

 

引退セレモニーには、カブキさん、馳先生、武藤敬司、

そして親友である長州力が駆け付けてきた。

 

 

私が座っていた解説席の横には、

服部さんファミリーが陣取っていて、

みなさん笑顔で服部さん最後の勇姿を見守っていた。

 

送別の10カウントゴング。

そのあと、マサさんのテーマ曲が流れたとき、

私の涙腺はちょっとヤバかった。

 

服部さん、お世話になりました。

いやいや、これからもよろしくお願いします。

 

後ろからポンと肩を叩いて、

「ユー、どう、最近は?」と、

また声を掛けてくださいね。