あれからもう1週間以上が経ってしまった…。

タイガー服部レフェリーの引退記念大会(2・19後楽園ホール)につづいて、

中西学の引退記念大会(2・22後楽園ホール)が開催された。

 

両大会とも、ワタクシ金沢は新日本プロレスワールドの

放送席で解説についている。

引退興行となれば、やはり私の出番でもある。

 

 

両大会は後楽園ホール4連戦の初日と4日目に行なわれている。

うーむ、けっこう燃え尽きた感。

 

と同時に、新型コロナウイルスの集団感染を危惧して、

3月からの新日本プロレスの試合が11大会中止された。

 

なんか気が抜けてしまったというか、

こっちも商売あがったり。

この1週間余、とくに何もせずにボーっと過ごしてしまった。

 

本来なら、服部さんとの思いで話も書かなければいけないのだが…。

まあ、とにかくまずは中西のことを書いておこうと思う。

 

 

これは引退試合の前日、2・21後楽園ホールでの風景。

第三世代カルテットでBULLET CLUBと対戦し、

中西がアルゼンチンバックブリーカーで試合を決めた。

結果的に、中西にとっては最後の自力勝利となった。

 

 

それにしてもファイナルが近づくにつれて、

第三世代の結束力が目に見えて強くなっていく。

それを見るにつけ、彼らの残した功績の偉大さも再確認させられる。

 

新日本プロレス冬の時代を支えたのが棚橋弘至ならば、

総合格闘技ブームのなか、新日本混沌の時代を支えたのは第三世代である。

 

21日の試合前、なぜか居ても立ってもいられない気持ちになった私は、

中西以外の永田、天山、小島にこう話しかけた…というか、お願いした。

 

「とにかくニシオ君に怪我だけはさせないでね!

引退試合に欠場なんてシャレじゃ済まないから」

 

小島はすこし困り顔で頷き、永田は「任せてください!」と笑った。

第三世代に対しては、やはり特別な思い入れがある。

 

今さら自慢でもなんでもないのだが、

彼らを最初に第三世代と称したのは、

当時の『週刊ゴング』であり、

発信元は私なのである。

 

以前、武藤敬司が何度か口にしていたセリフに、

「よく第三世代とか言うけど、俺も第三世代って呼ばれていたんだから」

というのがある。

 

これは事実で、そのときの第三世代という呼称は

新日本プロレスのオフィス発だった。

 

時代はウ~ンとさかのぼり1987年11月5~8日のお話。

伊豆・式根島で6選手参加の合同キャンプが行なわれた。

実際、トレーニングもちゃんとしているのだが、

どちらかと言えばマスコミ向けの企画であり、

当時、『週刊ファイト』記者だった私もカメラマンを兼ねて同行取材した。

 

参加メンバーは、越中詩郎、武藤敬司、後藤達俊、山田恵一、

野上彰(現AKIRA)、船木優治(現・誠勝)の6選手。

 

新日本から発信された合同キャンプの名称は、

『第三世代・決起合同トレーニング』だった。

ちなみに、蝶野正洋、橋本真也は海外遠征中。

 

というわけで、まだ闘魂三銃士結成前夜という感じ。

第三世代という呼称もそれで認識されたカタチとまではいかなかった。

 

それから時は流れ、1990年代半ば以降から天山広吉を筆頭に、

小島聡、中西学、永田裕志らがトップ戦線に台頭してきた。

ジュニア勢も含めたら、同世代の金本浩二、大谷晋二郎、

ケンドー・カシン、高岩竜一も出てきた。

 

広い意味では彼らに西村修を加えた世代が第三世代。

ヘビー級に絞ると、天山、小島、中西、永田の4人が第三世代。

長州・藤波、闘魂三銃士に次ぐ世代の選手として

週刊ゴングでは便宜上、彼らをそう呼称するようにした。

 

それがいつの間にか、時代が移り変わっても第三世代は第三世代として

闘魂三銃士同様に、その呼称が市民権を得てしまったわけだ。

 

と、まあ第三世代講釈はもういいか?

ただ、年代的にはレジェンドに近くなってきたのに、

なぜ第三世代なのかを説明してみたかっただけなのであーる(笑)。

 

ともかく、中西学だ。

私がもっとも好きなレスラーといっていい中西の引退試合。

奇想天外、規格外、オバケ(by長州力)といわれてきた中西。

隙のない華麗で見事なプロレスを展開する現代プロレスラーの中にあって、

隙だらけだけど、頑強な肉体ですべてを弾き飛ばす中西。

 

そんな中西の試合を観ることが、

私からすると心のオアシスでもあった。

 

 

 

無論、中西が大怪我をする前の話だが、

中西を初体感した他団体のトップレスラーたちは一様に驚いていた。

 

「中西学には、あと2年ぐらいは触れたくもないですね」(田中将斗)

 

「殴ったら、殴った手のほうが痛いというのを初めて知った」(大森隆男)

 

「あれこそミスター・プロレスでしょうね。

あんな頑丈な人間は初めて味わった。

彼は50歳になっても60歳になってもあのままで衰えないんじゃないですか」(船木誠勝)

 

その他、逸話は数限りない。

中西の逆水平チョップの破壊力は、

永田いわく「おそらく世界一痛いチョップ」となる。

天龍、健介、小橋のチョップを食らってきた永田がそう言いきったのだ。

 

それを証明したのが、IWGP王者だったブロック・レスナーと

大阪府立体育会館で中西が一騎打ちを行なったとき。

中西のチョップ連打を食ったレスナーが苦痛の表情を浮かべ、

中西に背中を向けてしまったことがある。

 

そういった野人の凄さを知り尽くしているだけに、

2011年6月に中心性脊髄損傷という大怪我を負い、

2012年10月、奇跡の復活を遂げたものの

全盛期の動きができない中西を見るのは辛くもあったのだ。

 

そういったプラスもマイナスもすべてのキャリアを背負い、

いろいろな選手、ファンの想いも背負い受け止めつつ、

中西は最後のリングに立った。

 

中西&天山&小島&永田vsオカダ&棚橋&飯伏&後藤。

 

ゲスト解説についた長州力はまずこう言った。

「このカードをきれるんだから新日本は凄いですよ」

かつて現場監督として90年代の黄金期をリードしてきた長州をして、

いま現在の新日本の層の厚さには驚いてしまうのだろう。

 

試合は文句なし。

ひさびさに、野次元殺法が大爆発した。

 

「中西学はまだまだあんなもんじゃない。

明日、俺がもっと覚醒させてやるから」

 

盟友である永田の宣言通りになった。

 

 

 

暴れた、暴れた、大暴れ。

それを食らいまくる棚橋。

中西さんをしっかり肌で味わっておきたい。

そんなタナの想いもこちらに伝わってくる。

 

 

 

最後は、GTR、カミゴェ、レインメーカー、ハイフライフロー。

現トップのフィニッシャー4連発に大の字となって沈んだ中西。

それにしても、オカダが全力のレインメーカーを叩き込んでくれたのが嬉しくもあった。

 

 

 

 

坂口さん、馳先生、長州、藤波が駆け付けた

セレモニーにもジーンときた。

大先輩に囲まれて恐縮しまくる中西。

 

 

 

10カウントゴングがあって、1,2,3、ホォー!

試合直後からタナはすでに涙、涙、涙…。

 

リングを降りた中西は真っ先に放送席に挨拶に来てくれた。

試合以外では気配りと優しさをもつ、繊細な生き物なのだ。

 

 

 

放送席でみんなが中西の優しさを口にするなか、

師匠である長州はこう言った。

 

「みんな解説の人が中西は優しい優しいって言うけど、

その優しさっていうのがイメージ付けられてしまって、

どうしてもリング上で怒りというのを表現できないというか、

そこに馳先生も歯がゆさを感じていたというか、

あえて苦言として言わせてもらいましたけど」

 

たしかに、その通りなのだ。

誰よりも中西の”素材”を評価していた長州だから、

中西には厳しく当たったし、同様に馳浩も中西を特別厳しく指導した。

 

ただ、人間の本性まで変えることはできない。

それが中西学の持って生まれた性格なのだから。

 

行動はトンパチなのに、心優しく、嘘がつけなくて繊細。

会話をすれば話があっちこっち飛びまくるのに、

突然に天才的なジョークやダジャレが飛び出す。

 

 

やっぱり奇想天外な生き物。

だいたい、最後の記念撮影でこんな顔しなくてもいいじゃんか(笑)。

でも、そんな中西学…いやニシオ君のことが私は大好きなのだ!