2月22日、東京・後楽園ホールに於いて、

27年4カ月にわたるプロレスラー人生にピリオドを打つ中西学。

 

新日本プロレスの歴史上、

また私個人にとっても特殊で特異で、

じつに型破りな記憶に残るレスラー。

 

それが、中西学である。

 

1992年、バルセロナオリンピックの

レスリング・フリースタイル100㎏級に出場。

同年8月、新日本プロレスに入団。

 

デビュー戦はあっという間にやってきた。

10月に開催された『SGタッグリーグ戦』で

藤波辰爾のパートナーに大抜擢されたのだ。

 

当初、ディフェンディング王者でもある藤波&

ビッグバン・ベイダー組がエントリーされていた。

ところが、ベイダーが怪我を理由に出場をドタキャン。

 

                                 ●写真提供/新日本プロレス

 

そこで新日本サイドは中西の超スピードデビュー戦に懸けた。

本格的にプロレスの練習に取り組み始めてまだ2カ月。

本来なら絶対にあり得ない選択であり抜擢である。

 

10月13日、東大阪市立中央体育館での開幕戦。

まだ、プロとしてのコスチュームも出来上がっていなかった。

 

だからアマチュア時代のレスリングタイツにレスリングシューズ。

さらにヘッドギアを装着して、超大型ルーキーはプロのリングに立った。

 

対戦相手は、スコット・ノートン&スーパー・ストロング・マシン。

全盛期の超竜と実力派マスクマンが組んだ強者コンビである。

 

中西は弾けた。

藤波のリードに従って暴れまわった。

150㎏を超えるノートンを水車落とし、

さらにジャーマンスープレックスで投げきってみせたのだ。

 

また、中西の強烈なエルボーを食らったマシンは、

その一発で記憶が吹っ飛んだという。

 

最後は、怒りのノートンの高速パワースラムにピンフォール負け。

それでも、この試合を観た人間はみんな

新たなヒーローの誕生に心を踊らせた。

 

試合後、堪えきれずに涙を流した中西。

それでも気丈に四方に向かって深々とお辞儀をした。

 

新日本プロレス史上、最高最強のデビュー戦。

そう言いきってもいいだろう。

 

そして、中西についたキャッチフレーズは、

バルセロナ五輪の星。

 

あれから27年余。

五輪の星は、野人となり、人類68億分の1の奇跡と変遷する。

 

栄光、挫折、大怪我、奇跡の復活。

中西学のプロ生活をずっと見てきた。

 

 

プライベートでも地方巡業中、よく飲みにいって語らった。

そこにはいつも永田が一緒にいて、

なぜか犬猿の仲といわれるカシンもいた(笑)。

 

中西との思い出は公私にわたって、いっぱいある。

野人は、一旦リングを降りれば本当に優しい男。

 

5年前、『ゴング』が一時復刊したとき、

イチバン喜んでくれたのが中西。

 

3年前、私が脳腫瘍を患って入院、オペを行ない、

1カ月半かけて現場復帰したときに、

イチバン心配してくれた男も中西だった。

 

そんな男のラストインタビューを

新日本プロレスオフィシャルスマホサイトからの依頼で

今回やらせてもらうことになった。

 

インタビューを行なったのはシリーズ開幕前のこと。

台風被害を被った道場、合宿所の補修もほぼ終わっていた。

原点でもある野毛道場でのインタビュー。

 

中西学は、ヤングライオン時代を思い起こさせる

明るさ、笑顔で1時間以上も熱心に答えてくれた。

 

そこには、中西と私だけしか知らないエピソードも満載。

(※永田は知っているだろうけどね!)

インタビューは3回にわけて掲載とのことだが、

すでに第1回目がアップされているので、

ぜひ読んでみてくださいね!

 

「引退試合? なんでもやりますよ!

せやけど、できれば第三世代とは一緒に絡んでやりたい」

中西学に“GK”金沢克彦がラストインタビュー!!(第1回)

https://www.njpw.co.jp/239443

 

ホォーーー!!