革命戦士こと長州力が約45年のプロレスラー人生に終止符を打つ、

長州力プロデュース興行『POWER HALL 2019』が、

6月26日(水)、東京・後楽園ホールで開催された。

 

1998年の1・4東京ドームで引退試合を行なっている長州からしてみれば、

これは「引退試合」ではなく、「靴(リングシューズ)を脱ぐ日」となる。

 

2000年7月、2年半の沈黙を破って、

大仁田厚との電流爆破マッチで復帰した長州。

これは、大仁田の執念が実を結んだこともひとつ、

そして何より周囲が長州の復帰を望んでいた。

 

大々的な引退試合(吉江、藤田、高岩、飯塚、ライガーとの五人掛けマッチ)を行ない、

多くのゲストを呼んだ引退セレモニーを行なってしまったことで、

リング復帰に際して、あの長州がナーバスとなり、

引退試合でお世話になった関係者たちに筋を通すために随分と動きまわった。

 

復帰後、長州は新日本マット退団、WJプロレス旗揚げ→崩壊、

リキプロ興行、新日本マット復帰、フリーランスとして、19年もリングに上がった。

 

現在67歳。

まさか、あれから19年もリングに上がることになるとは?

私も驚きであったが、なにより長州自身がもっとも驚いていたのではないか?

 

なぜ19年も、なぜ67歳まで……。

ここ2年ほどで、長州自身の口から終焉の日を意識させるようなムードが漂ってきた。

 

この1~2年、リングに上がるのが怖くなっている

 

トレーニングするのもしんどくなっている

 

新日本のリングではないし、歩幅が合わないこともある。

いつか大きな怪我をする前に降りたほうがいいかもしれない

 

少しのオファーが残っている。

それが終わったら、もう靴は脱ごうと思っている

 

そんなセリフをハッキリと口にしたのは、

昨年の7・10後楽園ホール大会

6人タッグで専修大レスリング部後輩の秋山準

初めて肌を合わせフォール負けを喫した直後だった。

 

思い起こせば、昨年の1・14後楽園ホール大会からスタートした

第1回『POWER HALL』から今大会(第4回)まで、

サムライTVからのオファーを受けて、私は放送席で生中継の解説を務めた。

 

初めにオファーをもらったときには驚いた。

私自身にはなにも変化はないし、変節した覚えもない。

ただし、長州が私のことを嫌っていることは明らかであったから。

 

長州が現場監督を務め、新日本を黄金期に導いた1990年代、

ワタクシ金沢は長州をもっとも数多く取材した記者だった。

周囲は私のことを”長州番”と呼んでいたし、

長州がよく口にする「『アレ』を理解できるのは金沢だけ」と言われもした(笑)。

 

それが、2000年代半ば以降、接点が激減した。

私は一回のフリー記者でありフリーの解説者。

長州は団体に所属することなく、リングに上がっていた。

おそらく最後に接点をもったのは、2011年11月のこと。

 

大阪のムーブオンアリーナに観客を入れて、

公開のトーク番組の収録を行なったとき。

長州力×アニマル浜口という最高の顔合わせだった。

 

隣りに敬愛する浜サンがいるにも関わらず、

司会進行が私ということで長州は不機嫌だった。

昔話、思い出話をすることに嫌悪感を示したのだ。

 

当時すでに長州のなかで、マスコミに対する捉え方は一回転していたように思う。

 

プロレスマスコミは東スポ(東京スポーツ紙)だけあればいい!

 

そういう1980年代の考え方に戻っていたのだ。

昔の話を深くほじくり返そうとする私のような存在は嫌悪の対象でしかなかった。

それ以降、意識して避けていたわけでもないのだが、長州との接点はほぼ皆無となった。

 

その後、長州による私への思いがストレートに誌面を飾った。

2014年9月~2016年10月、月刊サイクルで一時的に復刊した

『ゴング』の誌面である。

 

俺には昔からあいつの人間性は見えていたんだ。

どんなことを喋ろうが、テレビでどんな解説をしようが、

あいつがこの業界を理解していることはこれっぽっちもない。

東スポは見出しの最後に”?マーク”が付くような報道。

すべて”?マーク”で片づけりゃいいんだよ。

それを金沢たちは俺らがやってきたことに対して断定をするような書きかたをする。

それはとうてい許しがたいことだよ。

あいつは糞だけは垂れるが、トイレは用意してねえんだから

 

ちなみに、我が家には最新式のTOTOのウォシュレットが完備してある(スマン!)

 

 

やっぱり一回転している。

「ゴング」なんかいらない。

活字プロレスなんてものはあり得ない。

いや、存在すべきではない!

 

当時熱心な依頼を受け、それなりの覚悟を持って引き受けた

復刊『ゴング』の編集長という仕事。

その誌面における私への名指しの批判。

私は、それが「何でもアリだからこそおもしろい」と思ったから

編集部サイドに「どうぞ原文のまま載せてください」と言った。

 

まあ、目を通せば腹立たしい思いも湧いてくる。

それに反論しようと思えば、反論もできる。

だけど、その反論こそ無意味なものだと、

長州が連ねた言葉の行間に書いてあるのが見えてくる。

 

いやいや、いまになって私も一回転しているのだ。

 

プロレス記者として一番になりたい!

 

漠然とそういう思いを抱きつつ、『週刊ファイト』の記者となった

30年以上も前の一介の若造記者のころの気持ちに……。

 

誰よりも怖く、近づきがたく、みんなが避けて通った存在である

長州力に平気で近づいて行って、怒鳴られまくっていたころに。

 

いまも感謝しかない。

私の業界への入口は長州だった。

しかも、イチバン尖がっていたころの長州。

その長州を知っているから、いまの自分がある。

まだ自分は諦めることなくやれている。

 

長州力には、感謝の気持ちしかない。

素直な自分に立ち返ったとき、

それが私の答えであり結論であった。

 

さて、そんな状況でオファーをいただいた。

直接オファーをくれたサムライTV、

そして何より他の誰でもなくストレートに私を解説者に指名してくれた

主催者であるリデットエンターテインメント担当のTさん。

 

正直、過去の3大会は仕事としてこなしていた。

仕事として、長州力の試合を解説してきた。

 

 

ただし、ことラストマッチ、ファイナルとなれば、

やはり感情がこみ上げてくるし、伝えるべきことが山ほど思いつく。

 

だいたい、ふだん放送席に着くにあたり、

例えばメインイベントならメインのその1試合で、

いつも私は10個近く話したい事項を用意してくる。

ただし、試合はミズモノだし、最近の試合展開はスピーディだから、

攻防の局面はクルクルと変わるもの。

 

10個用意しているなら、2個披露できれば御の字である。

今回ファイナルマッチとしてマッチメイクされた6人タッグマッチ。

長州力&越中詩郎&石井智宏vs藤波辰爾&武藤敬司&真壁刀義

6人が6人、それぞれに因縁があるし、運命の糸で結ばれている。

しがらみのない新鮮は顔合わせは、武藤vs石井だけとなるだろう。

 

45年に及ぶあまりに長い歴史。

すべての関係性はほぼ頭のなかの引き出しに入っている。

 

そんななか、あえて調べてみた。

単純だけど、もっとも大切な資料となるかもしれない。

藤波vs長州、45年の”名勝負数え唄”シングル全戦績である。

 

全32戦。

長州の9勝17敗2分4ノーコンテスト(※うち1試合不成立)。

1試合不成立とは、もちろん”雪の札幌テロ事件(1984年2月3日、札幌中島体育センター)”だ。

 

通算で、長州が大きく負け越してしているのは、

1982年10月の、「かませ犬」事件前に6連敗しているから。

1978年5月~1982年3月、6戦してすべて藤波の丸め込み技で敗れている。

 

 

さて、メインイベントのファイナルマッチには

最高の舞台が整っていた。

当日の第1試合から馳浩衆議院議員が本部席に座り、

各団体の精鋭たちが集った闘いを観戦している。

 

メイン開始前にアナウンサーが入れ替わった。

過去の全大会を実況してきた塩野潤二アナウンサーから、

長州の実況でお馴染みの辻よしなりアナウンサーが着席。

 

ゲスト解説には天龍源一郎が登場。

サンダーストーム」の入場テーマが鳴ると

館内は大歓声のお祭り騒ぎ。

 

メイン開始前に、場内マイクを使って、

3者でメインへの想いを語った。

 

ハッキリ言って、着席するまでまったく会話などしていない。

辻さんとは挨拶を交わしただけで、天龍とは顔も合わせていない。

すべてぶっつけ本番の進行だった。

 

 

どういう反応が返ってくるのか楽しみだったから、

あえて私は口に出してみた。

 

ちなみに、天龍さんのシングル長州戦の戦績ですが、

8戦して天龍さんの5勝3敗です!

 

なぜか、ホールがどっと盛り上がる。

天龍は「ほぉー!?」という感じで笑みを浮かべた。

じつは、この戦績の話が最後に意味を持った。

「さすが!天龍」というべき一言につながったのだ。

 

先発は当然いつものように長州。

そうくれば藤波が対峙する。

 

なんと長州が掟破りのドラゴンスクリューからサソリ固めの体勢へ。

このあたりが長州の隠し技というかセンスのよさ。

 

そういえば1994年末に1・4ドームでの凱旋試合を控えた

天山広吉と金本浩二を引き連れて長州はサイパン合宿を行なった。

同行取材したのはテレビ朝日とゴングだけ。

 

そこで単独インタビューをしたとき、長州が突然こう切り出した。

 

レスラーには素材と素質ってものがあるんだよな?

三銃士なんかは両方持ってるからトップにいけるんだよ。

中西とかはまさしく素材だし、山本(天山)は素質だね。

じゃあ、俺はどっちだと思う?

 

長州さんはオリンピック代表じゃないですか。

これは、最高の素材ってことになるんじゃないですかね?

 

ば~か(笑)。

俺は素質だよ。

俺の持ってる素質って凄いんだよ!

 

言われてみれば、たしかにそうだった。

長州というレスラーは、じつはなんでもできる。

プランチャだってドロップキックだってキレイに決められる。

ただ、自分に似合わないからやらない。

 

こんな話を振られたこともある。

 

俺がプロレスラーとしてイチバン自信を持っている技はなんだと思う?

 

これは僕の好みもあるんですけど、アマレス流の飛行機投げと、

ブレーンバスターがひと際目立つと思いますね

 

ふ~ん。

たしかに、その二つも自信ある技だな。

だけどね、イチバン自信があるのはボディスラムだよ。

俺のボディスラムは他には負けないって自信あるからな

 

単純な技にこそ、破壊力と説得力を持たせる。

ストンピングもそのひとつとなるだろう。

それが長州力のスタイルなのである。

 

みんなね、これから6人が6人自分の見せ場を競い合いますよ

 

ゲスト解説の天龍が言った通り、

新旧トップの6選手は激しく競い合う。

1年4カ月ぶりの復帰戦。

両膝に人工関節の入っている武藤だが、

その動きは欠場前とは別人の様相。

 

長州はといえば、真壁への攻撃が厳しい。

ひさしぶりに披露したバックエルボーが真壁の顎に入った。

 

いまのは長州選手、狙ってやりましたね!

 

天龍の解説が鋭い。

なるほど、アクシデント的に入ったわけではないのだ。

それを証明するかのように、渾身のリキラリアットも真壁の首から顎を貫いた。

サソリ固めも腰を落としてガッチリと締めあげる。

 

後楽園ホールに「大マカベコール」の合唱が起こる。

これは真壁への応援というより、まだ終わってほしくない、

いつまでも観ていたいという観客の思いだろう。

 

そこで、大逆襲に出たのは、だれよりも師匠・長州との闘いを望んでいた真壁。

すでに長州は真壁の全身に長州力を刻み込んでいる。

それを受けてのお返しである。

 

なんと、キングコング・ニードロップ4連発

4連発での決着というのは初めて見た。

1発目は完全にキックアウトした。

2発目、3発目もキックアウトしたが、

肩が上がっていたかどうかは微妙。

それでも服部レフェリーは「カウント2」を主張した。

 

こういうケースに対処するためのタイガー服部だったのではないか?

肩が上がっていたかどうかは微妙でも、長州にまだ戦意あり!

そう判断した服部さんのアドリブだったのかもしれない。

 

勝負タイムは、17分29秒

充分堪能させてもらった。

長州力を見せつけてもらった。

 

試合後、自らの頭にペットボトルの水を浴びせ掛けた長州。

そこへ藤波が手を差し伸べると、長州が満面の笑み。

リング上で長州が笑みを見せた。

しかも試合直後のことである。

 

この後、軽めのセレモニーがあると聞いている。

それもあって、他の選手たちは足早に引き揚げていく。

ところが、ひとりだけ残っている男がいた。

 

石井智宏。

その顔はクシャクシャで涙腺はもう決壊寸前だ。

なんとか涙をこらえながら長州のそばに立つ石井。

不器用な男、心優しい日本男児の気持ちが垣間見える。

 

自分がリングを降りてしまったら、もうプロレスラー長州力とお別れ。

1秒でも2秒でも長く、プロレスラーの師匠と一緒にいたい。

意を決したようにコーナーマットに頭を何度かぶつけた石井。

振り返った顔に涙はなかった。

いつものストーン・ピットブルの表情。

納得したように、石井もリングを降りた。

 

 

まず、長州の大親友であるマッチ先生こと

篠崎稔さん(篠崎デンタルクリニック院長)がリングへ。

ファイナルコールとして、長州力の名前を高らかに呼び上げた。

 

リキプロ時代、篠崎先生はその友情関係だけで、

リングアナを務めていた経験があるだけに、やはりコールも堂に入っていた。

 

右の拳を突き上げた長州が清々しい表情を浮かべマイクを持った。

滑舌よく言葉が響いてくる。

 

 

私にとってプロレスは何だったのかなと振り返りますと、

すべてが、勝っても負けても私自身はイーブンです。

ただ、今からひとつだけお願いがあります。

どうしても、勝てない人間がいました。

今日、観にきてくれた家内の英子です。

ぜひ最後に、彼女をこのリングに上げてやりたいと思います

 

リングインした英子夫人が長州としっかりハグ。

さらに、キス。

 

 

つづいて、愛弟子でもあった馳がリングへ。

笑顔の長州に対して、馳は感無量の面持ち。

 

さっき金沢さんが長州選手と俺の戦績の話をしたけど、

最後の最後で長州選手に大逆転負けですよ!

僕が引退試合で本当はやりたかったことをやられてしまったんですから

 

天龍はそう言った。

長州と英子さんの抱擁はそれほど胸を打った。

 

2011年当時、長州の家庭に関する問題が、いわゆる”文春砲”に晒されたことがある。

プロレス業界に関わる人間は、みんな暗い気持ちを味わわされた。

しかし、どうだ!

娘さん3人の尽力もあって、長州家は幸せそのもの。

長州のオフィシャルブログでも、その模様はたびたび掲載されている。

 

もう私はここまでです。もう止まります。

今からUターンして、家族のもとに帰ります。

これからリングに上がる若い選手たちを皆さんの声援で、

リングに押し上げてください。

この会場の雰囲気を作るのは、

選手ではなく、みなさんの熱い声援なので。

よろしくお願いします。

本当に長い間ありがとうございました

 

なぜ、長州は45年もリングに上がりつづけてきたのか?

なにか、この瞬間に答えがわかったような気にもさせられた。

 

2002年9月中旬、長州はサイパンにいた。

トレーニングパートナーに石井が付いてきた。

新日本を退団し、次に向けて動きだそうとしていた。

まだWJのカタチも見えない頃である。

 

プロレス界のど真ん中を行ってやる。

しかも、逆方向に進んでやるから。

全員ロックアップしてやるよ!

 

長州は私にそう言いきった。

あのギラギラした長州の顔はもう見られなかった。

やるべきことはやった。

失敗もしたし、時代を見誤った部分もある。

 

ただし、様々な経験を経て、長州は本来帰る場所を見つけた。

シューズを脱いだとき、行くべき安住の地を見つけた。

 

もう、ロックアップする必要はない。

だから、ファンに対しても素の長州らしい言葉が出てきた。

闘い終えて、ファンに初めて見せた素の顔、素の言葉。

 

バックステージでは、

偉大なる先人たちである馬場さん、猪木さんに触れた。

とくに、プロレスラーとしてずうっと目標として

追いつづけてきたアントニオ猪木のことを熱く語った。

 

いつものセッカチな部分も垣間見せて、

「ほかになにかありますか?」と席を立とうとしながらも、

いざ話し始めると思いの丈は止まらなかった。

 

長州力、67歳。

大逆転で有終の美。

1998年1月4日の引退試合より、

はるかに素晴らしいファイナルを見せてもらった。