今月半ばから、やたらと忙しかった。

私には珍しく(笑)、取材でずいぶんと会場に出向いた。

 

15日、プロレスリング・マスターズ(後楽園ホール)

17日、DDT旗揚げ22周年記念大会(両国国技館)

19日、ジャイアント馬場没20周年追善興行(両国国技館)

21日、新日本・飯塚高史引退記念大会(後楽園ホール)

22日、ROH&新日本合同興行(後楽園ホール)

23日、ROH&新日本合同興行(後楽園ホール)

24日、プロレスリングNOAH(後楽園ホール)

 

おっ、よく働いたなあ!

感心、感心。

 

で、ブログの更新がしばらく途絶えてしまった。

本当なら、書きたいことが山ほどあったのだけれども…。

 

これだけビッグマッチを取材してきたわけだが、

あえて飯塚高史引退記念試合に絞ってみたい。

 

1986年11月2日、山口・豊浦町大会でデビュー(vs野上彰)した飯塚。

キャリア32年3カ月をもって、2・21後楽園ホールでレスラー生活に終止符を打った。

 

オカダ・カズチカが言っていたように、新日本正統派の権化だったような男には、

ザ・新日本プロレス」というフレーズがよく似合っていた。

それが、突然のヒールターン。

あの生真面目で温厚な男が、

2008年5月2日、後楽園ホール大会から突如大変身。

 

友情タッグとしてコンビを組んでいた天山を裏切り(4・27大阪)、GBH入りした飯塚は

丸坊主に髭を蓄え三角巾で腕をつって因縁の天山を相手に狂乱ファイトを展開した。

 

以降、10年以上にわたり、”怨念坊主スタイル”を貫き通した。

最後の最後に、真人間の飯塚として送り出したい。

そう考えた天山は、友情タッグTシャッツを2枚手に入れて飯塚に迫った。

 

これは、プロレスストーリーではない。

本当に天山はそう願っていたし、

だからこそ私も協力させてもらったのだが、

マスコミ、関係者、ファンとあらゆる伝手を活用して

なんとか”友情タッグTシャッツ”を2枚手に入れることができたのだ。

 

飯塚高史に関しては、個人的にやはり思い入れのある男。

私も1986年に『週刊ファイト』記者としてデビューしている。

だから、私にとって業界同期にあたるレスラーは、

佐々木健介、松田納(エル・サムライ)、飯塚孝之(当時)の3選手。

 

私なりに飯塚の性格はよく知っているつもりだ。

プライベートでは生真面目で温厚、そして心優しい。

ただし、ことリング上となるクソがつくほどに真面目で頑固一徹。

絶対に自分を曲げようとしない。

 

彼が真面目な人間だったからこそ、

あそこまで徹底したヒールに成りきれたのだろう。

日本プロレス史上最高のクレイジーファイター

のキャラを作る上げることができたのだと思う。

 

 

それでも、最後の引退試合だから、何かが起こるかも?

そういう淡い期待感を持ちつつも、

やはりこのままで押し通してほしいという、

両極端の思いを抱きながら私は放送席に着かせてもらった。

 

放送席には、もちろんあのメンバーが並んだ。

天山を裏切ったとき解説席で呆然としていたワタクシ金沢、

飯塚、どうした!?」と叫んで思わず立ち上がった山崎一夫さん。

 

そして、2010年8月8日、愛知県体育館。

実況中に突然、飯塚の襲撃を受けて

シャツをビリビリに引き裂かれた野上慎平アナウンサー

 

それ以降、野上アナは実況中であろうとなかろうと、

毎回、飯塚の襲撃に遭ってきた。

最後に襲われたのは、2017年の1・27後楽園ホール大会。

 

鈴木軍がノアを主戦場としていた2年間を除くと、

4年半もの長きにわたり飯塚の恐怖と闘ってきたのだ。

この放送に臨む1ヵ月前に野上アナは私にこう言った。

 

もし飯塚さんと話すような機会があったなら、こう伝えてください。

私はすべてを受け止める覚悟で全力で臨みますから!と

 

いやいや、野上アナ同様に、怨念坊主に変身してからの飯塚とは、

私だって一度もまともな会話を交わした記憶はないのだ。

 

引退試合はメインイベントの6人タッグマッチ。

オカダ・カズチカ&天山広吉&矢野通vs飯塚高史&鈴木みのる&タイチ

 

飯塚は例によって南側の客席を荒らしまわりながら入場。

そして、躊躇なくキター!

野上アナに襲い掛かると、Yシャツをズタズタに引き裂き、

その下に着用していた青義軍Tシャッツも破り捨てた。

 

 

裸ネクタイ

ある意味、これぞ野上アナの正装。 

野上”ジャスティス”慎平が2年ぶりに復活。

 

試合は熱かった。

いつもよりリング上にいる時間も長く荒れ狂う飯塚。

ところが、なんとオカダにあの技を決めた。

後ろカニ挟みから膝十字固め

 

1989年6月、馳浩とともに旧ソ連に渡って

サンボ留学したときに修得したホンモノである。

 

2000年の1・4東京ドーム大会

橋本真也&飯塚vs小川直也&村上一成(現・和成)。

村上を仕留めた魔性のスリーパーも出た。

しかも、オカダのレインメーカーを切り返して。

 

その後、封印していたかつてのフィニッシャーの体勢へ。

ブリザードスープレックスホールド

さすがにオカダが切り崩して未遂に終わった。

 

ブリザードスープレックスホールドは、若き日の飯塚のフィニッシュ技。

秋山準が開発したエクスプロイダーとまったく同じカタチである。

飯塚の場合、そこから固めて3カウントを奪っていたのだ。

言ってみれば、エクスプロイダーの原型がブリザードスープレックスなのである。

 

 

22分が過ぎて、最後に引導を渡したのは天山だった。

ダウンした飯塚の上に”友情タッグTシャッツ”をかぶせると、

完璧なムーンサルトプレス(天山プレス)でピンフォール。

飯塚をカバーしたまま、天山は号泣していた。

 

そのまま飯塚を抱き起した天山は右手を差し出す。

頭を抱えて葛藤するかのように悶え苦しんだ飯塚がついに握手に応えた。

と、思いきや、天山のでかい頭をガブリ。

 

そこへ、この大会だけのために来日したKES(スミス&ランス)を含めた

鈴木軍の全メンバーがなだれ込んできた。

鈴木が羽交い絞めにした天山へ、訣別のイス攻撃とアイアンフィンガー・フロム・ヘル一閃。

 

ホールは何が起ころうとも、「飯塚コール」の大合唱。

観客席を飯塚が徘徊するなか、鈴木が10カウントゴングを勝手に鳴らした。

そして、飯塚の姿はいつの間にか消えていた。

リング上に残されたのは、アイアンフィンガー。

それをひとり残っていたタイチが拾い、持ち帰った。

 

阿部誠リングアナが最後に飯塚の名前をコールする。

ただし、観客はだれも席を立とうとしない。

余韻に浸っているのか、それともこの後に何かがあることを期待しているのか?

 

阿部アナがもう一度、飯塚の名前をコールして、

ようやく観客が席を立ち始めた。

 

いやはや、見事な引退試合だった。

得てしてグダグダしがちな花束贈呈などのセレモニーはいっさいナシ。

当然、引退の挨拶などない。

 

怨念坊主を貫いた飯塚の生きざまはストレートに心に突き刺さってきたし、

盟友の最後をニタリとしながら10カウントゴングを乱打し送ったのは鈴木。

 

飯塚と鈴木。

入門では飯塚が1年早く、

デビューも飯塚が1年半早い。

 

ただし、2人は紛れもなくライバル関係にあった。

1988年の6・23横浜文化体育館での鈴木のデビュー戦の相手が飯塚(※飯塚の勝利)で、

1989年の3・16横浜文化体育館での鈴木の新日本所属ラストマッチの相手も飯塚(※鈴木の勝利)。

同年4月、UWFへ移籍してからも鈴木実(当時)は、ずうっと飯塚を意識していた。

飯塚は飯塚で、後輩でありながら自分の闘志に火を点けてくれた鈴木の退団に寂しさを隠し切れなかった。

 

飯塚と鈴木にしかわからない2人のライバルストーリー。

 

そうしてもうひとり、飯塚によってプロレス実況の厳しさを身をもって知らされたのが野上アナ。

裸ネクタイで涙ながらに飯塚の最後、幕切れを野上アナは語った。

そこには、たっぷりと感情がこもり、情熱がほとばしっていた。

 

プロレスはプロレス。

ボクシングでも野球でもサッカーでもない。

アントニオ猪木だって、武藤敬司だって、

プロレスに答えはない!」と言いきった。

 

我々がプロレスを語るなんておこがましいのだ。

だから、私たちはプロレスラーを語り、プロレスラーを描く

野上慎平は、見事にプロレスラー飯塚高史を語った。

 

みんながそれを知っている。

野上アナの熱意が伝わっている。

だからこそ、最後は「野上コール」の大合唱で大会は幕引きとなったのだ。

 

本当に、リングサイドで最高の引退試合を見せつけてもらった。

今回、書き残した部分、飯塚と鈴木の隠れたライバルストーリーに関しては、

あらためて、べつのネット媒体に寄稿することになっている。

 

公開されたら、お知らせしますので、また読んでみてくださいね。

 

【GKスナップショット】

 

2・15プロレスリング・マスターズ

 

2・17DDT旗揚げ22周年記念大会

 

 

 

2・19ジャイアント馬場没20周年追善興行

 

 

2・24プロレスリングNOAH

 

 

【おまけ】

 

遅ればせながら新刊のご紹介。

 

「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?」(双葉社)

 

 

絶賛発売中!

内容は以下の通り。

 

「みんなで真剣に本気でプロレスに関わった。
観た! 感じた! 語った! 狂喜乱舞した! 」
(第二代編集長 ターザン山本)

『週刊プロレス』、全盛期には公称40万部を誇る怪物雑誌として
多大なる影響力を持っていた。スキャンダラスな誌面、取材拒否など事件の数々……
今だからこそ語れる『週プロ』の真実を当時の記者たちはもちろん、
プロレスラーや団体関係者、鎬を削っていたライバル誌の記者たちの証言をもとに、
インターネットが発達した現在では二度とないであろう活字プロレスという“熱狂"を検証します。

眠らない編集部が発信し続け、「業界」を震撼させた“活字"の正体とは
さまざまな形で『週プロ』に関わった21名の証言

杉山頴男(初代編集長)/ターザン山本(第二代編集長)/濱部良典(第三代編集長)/
市瀬英俊(元記者)/安西伸一(元記者)/小島和宏(元記者)/
佐久間一彦(第七代編集長)×鈴木健.txt(元記者)/鶴田倉朗(元記者)/
谷川貞治(元格闘技通信編集長・元K-1プロデューサー)/金沢克彦(元週刊ゴング編集長)/
永島勝司(元新日本プロレス取締役)/大仁田厚/宮戸優光、他

 

・単行本(ソフトカバー): 288ページ

・出版社: 双葉社 (2019/2/20)

・定価:1500円+税

 

というわけで、ライバル誌であった『週刊ゴング』に16年在籍し、

1999年1月~2004年10月まで編集長を務めていたワタクシ金沢もインタビューを受けました。

 

なにも飾ることなく、すべて真っ正直に答えています。

とくに、対ターザン山本氏に関しては(笑)。

週刊プロレスの歴史、また競合誌であったゴングのこともわかる一冊。

 

おススメですクラッカー