この1月末をもって、新日ジュニアのエースであるKUSHIDAが、

約8年在籍した新日本プロレスを退団し、世界へと旅立つこととなった。

 

KUSHIDAのラストマッチ2連戦として用意されたのは最高の舞台。

1・28後楽園ホールでは棚橋弘至と”エース”タッグを結成して、

ジェイ・ホワイト&外道と対戦し、ハイフライフロー(14分05秒)で棚橋が快勝。

 

翌29日、後楽園ホール大会のメインイベントが正真正銘の壮行試合。

現IWGPヘビー級王者の棚橋とKUSHIDAが初の一騎打ちで相まみえた。

 

 

 

これは、1・28試合後の両選手の様子。

ある意味、師弟関係にある両選手なのだが、

決して並んでコメントを発することはなかった。

 

当然だろう。

明日、一騎打ちを控えているのだから。

 

振り返ると8年前、ここ後楽園ホールに『僕をプロレスラーとして一人前にする』と

(棚橋が)言って来てくれました。あのときの恩、感謝は忘れません。

その8年前、棚橋さんが何歳だったかというと、35歳。

いまのKUSHIDAの歳なんですよね。

ここから8年間、KUSHIDAがプロレスラーとして命を授かったからには、

プロレスラーとしての命をすべて使いきりたい。そう思っています

 

 

それを受けるカタチで棚橋はこう言った。

 

俺はいつも見送る側だから、見送られるほうの気持ちは正直わかりません。

爽やかに送り出す? そんな気持ちサラサラないと思うよ。

だから明日は……ぶっ潰します!

 

今から8年前、正確に言うなら2011年3月31日、『SAMASH.15』の後楽園ホール大会。

すでに、4月1日付けで新日本プロレス移籍が決まっていたKUSHIDAを、

わざわざ棚橋が会場まで迎えにやってきた。

 

KUSHIDAは新日本プロレスがもらっていきます。

クッシー、TAJIRIさんのように世界に通用する選手になれよ。

そして新日本プロレスでトップになれよ。

それがTAJIRI選手への恩返しだから

 

SMASHのリング上から、タナは責任をもってクッシーを預かると宣言。

こうして、過去に例のない円満移籍が実現したのだ。

 

あれから8年弱、念願の新日本入団を果たしたKUSHIDAであるが、

その後の道のりは決して平坦なものではなかった。

 

移籍と同時に作成したKUSHIDAの新コスチューム。

トレードマークでもあるハーフタイツには新日本のエンブレムである

ライオンマーク”が大きく描かれていた。

 

2011年といえば、ようやく新日本が軌道に乗り始めたばかりのころ。

このコスチュームに反発心を抱くファンも数多くいた。

 

インディーから来たやつがライオンマークを付けるんじゃねーよ!

 

反発心を言葉に換えるなら、そうなるのだろう。

声援よりも心ない野次のほうが多かったと記憶している。

 

だけど、KUSHIDA青年はつねに前向き。

弱音を吐くどころか、前しか見ていなかった。

そういう意味では、新闘魂三銃士と呼ばれていたころ、

ファンに受け入れてもらえなかった棚橋の立場とどこか似ている。

 

 

これは、私が初めてKUSHIDAとまともに会話をしたときの記念写真。

2011年9月2日、サムライTV『金曜Sアリーナ』で共演したときのもの。

クッシーの童顔はさらに若々しいし、モッキーも若い!

ワタクシ金沢もまだギリ40代だったから、前髪もすこし多い(笑)。

 

このとき、番組外でクッシーから聞いた言葉をいまも鮮明に憶えている。

 

僕、週刊ゴングの熱烈な愛読者だったんです。

とくに金沢編集長のときが直撃世代なもので

 

ああ、そうなのかあ。

ひとつ、謎が解けたように思った。

クッシーは会場などで会えば、礼儀正しくきちんと挨拶してくる。

そして、彼の瞳はいつもキラキラと輝いていた。

 

ファンの人みたいな目をしているなあ

 

当時よく私はそう思ったのだ。

自分が編集長時代のゴングをむさぼるように読みながら、

プロレスラーを目指していた若者がいる。

 

それを聞いて嬉しくもあり照れくさくもあり、

また同時に身の引き締まる思いを感じた。

 

なんとなく、今回のコラムは長くなってしまいそうだ(笑)。

 

KUSHIDAが、新日ジュニア戦線で初めて結果を出したのは、

2014年7月4日、後楽園ホール大会。

IWGPジュニアヘビー級選手権で飯伏幸太を破り、初戴冠。

第68代IWGPジュニア王者となったとき。

 

ところが、心からは喜べない勝利だった。

試合序盤、KUSHIDAのハンドスプリングキックを

もろに食った飯伏が脳震とうを起こしてしまったからだ。

 

勝つには勝ったが、手負いのライバルに勝っても喜べない。

その後、飯伏は長期欠場を経て復帰と同時にヘビー級転向。

KUSHIDAは初防衛戦で田口隆祐にベルトを明け渡している。

 

あの日のバックステージ。

大会終了後、控室前の黒幕の奥からライガーの声が響いてきた。

聞き耳を立てていたわけではないのだが、ライガーの大声がハッキリと聞こえてきた。

 

ダメだよ!クッシー。

試合内容に納得いかないのはわかる。

だけど、ジュニアの最高峰のタイトルマッチだぜ。

あれだけのお客さんが一生懸命応援してくれたんだから。

悔しくても、ベルトを持って喜ばないと。

笑顔でお客さんに応えてあげないと!

 

そう、ライガーの訓示は正論なのだ。

だけど、私にはクッシーの意地のほうが痛いほどに伝わってきた。

相手がライバルの飯伏だからこそ、人気で先を行かれてきた飯伏だからこそ、

キッチリと名勝負を展開したうえでベルトを奪取したかった。

 

それから1年、ついにKUSHIDA時代の足音が聞こえてきた。

2015年6月7日、代々木大会。

第22回『ベスト・オブ・ザ・スーパーJr.』優勝決定戦で、

カイリ・オライリー(現NXT)を破って初優勝を達成したのだ。

 

 

30分を超える大激闘。

ジュニア戦士が見せつけた歴史的なストロングスタイルの攻防。

 

どこから来たかが重要じゃくて、これからどこに行くかが重要なんです。

なにをしてきたか、なにをやってきたかじゃなくて、これからなにをするかが大事なんです

 

観客ばかりか取材陣までをウルっとさせた、このマイクアピール。

新日本生え抜きではないKUSHIDAが、新日本ジュニアを背負う覚悟を示したのだ。

 

ついに、KUSHIDAは新日ジュニアの象徴となった。

 

スーパージュニアの優勝戦を90年代のように、

日本武道館、大阪府立体育会館、あるいは両国国技館でやりたい。

その景色をみなさんと一緒に観ていきたい

 

そういった言葉がたびたび出てくるようになった。

この2019年、KUSHIDAの目標はついに現実のものとなる。

スーパージュニア第26回大会の優勝決定戦の舞台は、6・5両国国技館と決定。

その舞台に不在ではあるものの、やはりKUSHIDAの思いが手繰り寄せた両国といっていい。

 

2016年7月~8月開催の第6回『スーパーJカップ』

IWGPジュニア王者としてエントリーしたKUSHIDAが制した。

 

2017年6月に開催されたスーパージュニア第24回大会では、

新たなライバルとなったウィル・オスプレイを破って2度目の優勝。

フィニッシャーは米国遠征で開発してきたバックトゥザフューチャー

このとき、KUSHIDAはROH世界TV王座も保持していた。

 

 

まさに、クッシーの世界への旅が本格化してきたころである。

なんだ、なんだ、KUSHIDAプロレスアルバムと化してきたぞ(笑)。

だけど、もうすこしお付き合い願いたい。

 

私のなかで、ある意味KUSHIDAが頂点を極めた闘いは、

昨年の5・4福岡国際センターで行なわれたIWGPジュニアヘビー級選手権。

第80代王者オスプレイにKUSHIDAが挑んだ試合だった。

 

タイムは、23分46秒。

新兵器のストームブレイカーでオスプレイがⅤ3に成功している。

ただし、試合内容が凄まじかった。

現代ジュニアの粋を極めたような名勝負に解説席のライガーが唸った。

 

僕がいままで見てきたジュニアの試合のなかでイチバンでした。

本当に最高の試合だった!

 

マスク越しながら、あのライガーの目がすこし潤んでいるようにも見えた。

世界の獣神サンダー・ライガーにここまで言わせたのだから本望だろう。

 

そのころから、個人的にKUSHIDAを見る私の目も変わってきた。

もはや、やるべきことはすべてやり尽くしたのではないだろうか?

今後、クッシーはなにをモチベーションに新日ジュニア戦線で闘っていくのだろうか?

 

ちょうどKUSHIDAのあとを猛追してきた新スターの高橋ヒロムが、

7・7米国カウパレス大会(ドラゴン・リー戦)で首に大怪我を負ってベルト返上。

 

新王者決定トーナメントに出場したKUSHIDAは、1回戦でBUSHI

王座決定戦でマーティー・スカルを破ってIWGPジュニア王座6度目の戴冠。

約1年ぶりにIWGPを巻いた。

 

 

ベルトがあってもなくても、新日ジュニアの絶対エース。

それをよけいに印象付けられてしまった結果でもある。

 

この前後で、KUSHIDAとの間でこぼれ話というか、

ちょっとしたエピソードがある。

 

新日本プロレスオフィシャルスマホサイトで、

ワタクシ金沢は不定期連載のコラムコーナーを持っている。

2017年5月からスタートした企画で、

新日本のビッグマッチを取材してそのたびに総括レポートを綴る

号外!”GK”金沢克彦の新日本プロレス通信』という有料のコラム。

 

そこで昨年の9・28神戸大会のコラムのなかで、

KUSHIDAvsBUSHIのトーナメント1回戦についても触れた。

 

たとえ1年、ベルトから遠ざかっていようとも、

アメリカ、イギリス、メキシコと世界中を飛びまわるKUSHIDAに休息などない。

彼は、プロレスラーという職業を突き詰めるかのように闘いつづける。

 

KUSHIDAと書いて、貪欲と読む。

 

たしか、そう書いたのだが、そのフレーズをKUSHIDAは大いに気に入ってくれたようだった。

10・8両国大会で1年ぶりにIWGPジュニアを巻いたKUSHIDA。

 

大会終了後、会場を出ようとしたときにKUSHIDAとバッタリ出くわした。

 

金沢さん、あの文章ありがとうございました。

KUSHIDAと書いて、貪欲と読む!でしたよね

 

ああ、あれこそクッシーにイチバン相応しいと思ったから。

クッシーがああいう表現方法を好きなことも知っているしね

 

クッシーからすれば我が意を得たりの表現だったのだろうし、

そこにクッシーが反応してくれたことで私自身も我が意を得たりなのである。

 

特別な試合が近づいてきた。

セミファイナルが始まる直前に控室前に降りてみた。

 

 

KUSHIDAがいた。

インタビュースペースのベンチの上で

うつ伏せになって精神を集中させていた。

 

黙って隠し撮りみたいな真似はすこし気が引けたので、

はぁー、俺のほうが緊張してきたよ」と声を掛けた。

 

声の主がだれなのかわかったのかどうか…

顔をまったくあげることなくKUSHIDAはひとこと。

 

がんばります!

 

 

そして、その刻がきた。

8年前、KUSHIDAを新日本に連れてきた棚橋が、

今度はKUSHIDAを送り出すために対峙する。

 

正真正銘、シングル初対決。

夢のような時間が過ぎていった。

 

髙田道場で連日のように桜庭和志のスパーリングパートナーとして腕を磨き、

単身メキシコに渡ってプロレスラーとなったKUASHIDA。

その後、TAJIRIに師事してプロレスラーとしての基本を学んだ。

そして、憧れの新日本に入団し野毛道場で新日本の闘いを身につけた。

 

 

新日本道場は綿々と次世代の選手を育て、スターを輩出していく。

KUSHIDAを心の師と仰ぐSHOが、この日試合が組まれていないにも関わらず、

会場後方から私服姿で試合に熱視線を送っていた。

 

24分34秒。

ハイフライフローではなく、

テキサスクローバーホールドで決着。

棚橋は「ぶっ潰す!」の公約を守った。

 

試合後、KUSHIDAの表情にはほとんど笑顔もなかったし、

涙なんかこれっぽっちも浮かんでいなかった。

 

 

すべて終わったという感じよりは、明日からやべえぞと。

明日からまた走りださないと、これはやばいことになるぞと。

期待感、不安も数パーセントありますけど、ワクワク早く走りださなきゃと

そういう気持ちでいっぱいです

 

相変わらず、クッシーの瞳はキラキラと輝いていた。

 

終わりの始まり?

いや、KUSHIDAにかぎっては終わりはない。

引退するときが一応の終わりであって、

彼はずうっと走りつづける運命のもとに生まれたのだ。

 

 

KUSHIDAと書いて、旅人と読む。

クッシーと書いて、挑戦者と読む――。