ダイナマイト・キッドが亡くなった。

彼の誕生日にあたる12月5日に母国のイギリスで永眠した。

本名=トーマス・ビリントン

享年60。

 

そうか、キッドは私よりちょうど3歳年長だったのだなあ。

初めて、そのことに気がついた。

 

 

人呼んで、カミソリ・ファイター。

古舘アナいわく、「全身、これ鋭利な刃物」。

 

だからキッドはいつもこんな感じだった。

試合後には鼻血を吹き出しているイメージ。

勝っても負けても、五体満足でいるような姿を滅多に見ることはなかった。

 

命懸けのプロレス。

ファン時代にもなんとなくそれがテレビ画面から伝わってきたし、

この仕事についてからもその印象は変わることがなかった。

 

初来日したのは、1979年7月の国際プロレス

まだ20歳だったキッドはマントを羽織って”星の王子様”のような美少年だった。

 

ただし、英国のビリーライレージム(ヘビの穴)の流れを汲むレスリングを学び、

カナダ・カルガリーのスタンピードレスリングで日本スタイルに近いレスリングを実践し、

すでにトップスターに君臨していた実力はホンモノだった。

 

カルガリーは言わずと知れた名門ハート一家のホームであり、

そこの親分は”シューター”と恐れられた故スチュ・ハート

のちにスチュ・ハートは佐々木健介にストラングル・ホールドを伝授したことでも知られている。

 

キッドの運命が大きく変わったのは1979年8月だった。

カルガリーに遠征してきたWWFジュニアヘビー級王者の藤波辰巳(※当時)と

自身の保持する英連邦ジュニアヘビー級王座を懸けたダブルタイトルマッチで対戦。

 

20分33秒、両者リングアウトで引き分けた。

 

対戦した藤波はもちろんのこと、

遠征に随行していた新間寿営業本部長もキッドに一目ぼれ。

すぐさま、試合後に新日本へのブッキングを要請。

 

ところが、その後キッドはトラブルに巻き込まれる。

同年12月27日、プロレスの殿堂・米国ニューヨークのM.S.G

藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王座への挑戦が決定したものの、

新日本と国プロのキッド争奪戦の煽りを食ってM.S.G出場は幻に終わってしまった。

(※その後、1982年8月30日、M.S.G初登場が実現しタイガーマスクと対戦)。

 

結局、キッドは新日本マットを戦場に選び、

翌1980年1月に新日本初参戦。

以降、レギュラー選手となる。

 

2・5名古屋大会でキッドはすぐさま藤波に挑戦し惜敗しているが、

私が鮮烈に記憶しているのは、そのタイトル戦の前に行なわれた

スキップ・ヤングとの挑戦者決定戦(1・25岡山武道館)。

 

キッドの豪快なダイビング・ヘッドバットが決まって勝負あり。

ところが、ピンフォールを奪ったキッドもしばらく立ち上がれない。

ようやく立ち上がり勝ち名乗りを受けたキッドの額から鮮血が流れ出ていた。

 

敗れたヤングが大の字となりピクリとも動けない。

キッドはその血を拭うこともなく、ゲスト解説についていた藤波を挑発した。

 

これぞ、キッドの凄み。

私がキッドの大ファンとなったのは、

じつはこの試合をテレビ観戦した瞬間だった。

 

日本登場初期のライバルである藤波のWWFジュニア王座に

キッドは計3回挑戦しているが王座奪取はならなかった。

やはり、藤波のキャリアの牙城を崩せなかったというのが正直なところだろう。

 

また、当時の記録を見てみると、ハンセンやブッチャーらとタッグを結成し、

猪木、坂口、長州らともガンガン対戦しているのがおもしろい。

 

そこに、あの男が現れた。

1981年4月23日、蔵前国技館

タイガーマスク、デビュー戦。

 

タイガーマスクvsダイナマイト・キッド。

もはや、解説不要だろう。

今も、そしてこれからも永遠に色あせることのない闘い。

 

その幕開けだった。

キッドがいたから初代タイガーは何倍にも輝いた。

タイガーがいたからキッドの凄みは何倍にも増した。

 

とくに、キッドの受け身は壮絶だった。

現代ジュニアの闘いのルーツを探れば、

すべての闘いは、ここにあると言ってもいいのかもしれない。

 

髙田伸彦(※当時)も天山広吉棚橋弘至もキッドに憧れていた。

クリス・べノワ(ペガサス・キッド)はキッドを神と崇めていた。

 

攻守ともに危険すぎると言われる現IWGP王者のケニー・オメガのスタイル。

そのルーツも辿っていけば、キッドに行きつくのかもしれない。

 

”ストーン・ピットブル”こと石井智宏の出で立ち、全身全霊の試合スタイルには、

全盛期のキッドがもろに被って見えてくる。

 

 

まだ、ファンだったころに買ったこの一冊。

週刊プロレス増刊号のキッド特集を発見。

あらためて、私はキッドが好きだったのだなあと思う(笑)。

 

タイガーマスクの電撃引退を受けて、タイガーとの2年抗争に終止符。

その後、従兄弟のデイビーボーイ・スミスが初来日。

 

1984年2・7蔵前国技館。

一夜でスミス、ザ・コブラを連破したキッドは

ついに念願のWWFジュニアヘビー級王座についた。

 

同年11月、キッド&スミスは新日本参戦をキャンセルして

全日本プロレス『'84世界最強タッグ決定リーグ戦』に出場。

この衝撃的な移籍に業界は騒然となった。

 

翌1985年からWWFに本格参戦したキッド&スミスは

ブリティッシュ・ブルドッグスとしてタッグ戦線で大ブレーク。

WWF世界タッグ王者に君臨している。

 

ただし、ジュニアヘビーの体格をパンパンに鍛え上げ、

スーパーヘビー級戦線に乗り込んだ代償は大きかった。

トレーニングだけでは補えない部分は、どうしても薬物(アナボリックステロイド)に頼らざるをえない。

当時の米国マットでは、ステロイドの使用は半ば常識化していたからだ。

当然のように、その副作用によって肉体も精神面も徐々にむしばまれていく。

 

1986年12月、椎間板断裂によって選手生命の危機に立たされたキッド。

1988年末にWWFを離脱して、翌89年1月、全日本プロレスに帰ってきた。

 

 

これが、そのときのパンフレット。

馬場さん、鶴田、天龍、タイガーマスク(三沢)を脇役に

ブリティッシュ・ブルドッグスが主役。

 

ちなみに、このシリーズの後楽園ホール大会で実現した

ブリティッシュ・ブルドッグスvsマレンコ兄弟(ジョー&ディーン)の異色タッグ戦は、

外国人タッグによるベストバウトとしていまも私の脳裏に刻まれている。

 

カール・ゴッチの愛弟子であるマレンコ兄弟を相手に、

まったく引けをとらないテクニックを披露したキッド&スミス。

マレンコ兄弟の土俵で闘い、勝ったところにブルドッグスのホンモノを感じた。

 

おそらく、私が生で取材したキッドの試合のなかで、

これが最後の名勝負だったように思う。

 

その後、カンナム・エキスプレス(ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット)とも名勝負を展開したが、

マニアックな私としては、やはりマレンコ兄弟との異色対決のほうが好みとなる。

 

 

これは、89年当時、私と同じ『週刊ファイト』に所属していた大川昇カメラマンが撮影したもの。

背景をみると、明らかに後楽園ホールのリング。

ちゃっかりとサインをもらっているところが、いかにも大川君らしい。

でも、いまとなってはレアで羨ましいなあ(笑)。

 

最後に、キッドを生で観たのは意外にも、みちのくプロレスのリングだった。

1996年10月、両国国技館大会にキッドが参戦。

 

あの肉体美、精悍な面構えの面影はなく、

「見たくなかった」というのが正直な印象だった。

 

1990年に袂を分けた従兄弟のスミスは、

息子のハリーを残し2002年5月、39歳の若さで逝去した。

ハリーとはもちろん、デイビーボーイ・スミスJr.のことである。

 

それから、思わぬカタチでキッドに出会えたのは、

テレビ番組の中だった。

 

2年前……2016年10月5日、NHKBSプレミアムで放送された

アナザーストーリーズ運命の分岐点『タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤』

エンディングでキッドがまさかの登場をはたしたのだ。

 

2013年11月に脳卒中で倒れたキッドは車椅子での生活を余儀なくされ、介護施設で暮らしていた。

プロレス関係者とは一線をひいてきたキッドの取材許可をとってくれたのが、

二人目の妻であるドット夫人

当初、ドット夫人はキッドが有名なプロレスラーであることさえ知らなかったという。

 

英国グレーターマンチェスター州郊外の介護施設にキッドはいた。

身体の麻痺と言語障害はあるものの、

キッドはタイガーマスクとの思いで話に関しては饒舌だった。

 

取材クルーに佐山聡が託したのは、キッドへの動画と声のメッセージ。

ノートパソコンによって、それが最後にキッドに披露された。

 

ハイ、トミー!

あれから35年が経ちましたが、信じられますか?

いまだにファンは俺たちのことを語ってくれてます。

また尊敬さえしてくれてます。

トミーが一番強いことを俺はよく知っている、

一番のハートを持っていることを俺はよく知っている

 

そう言ったあと、佐山はタイガーのマスクを被り

英語を交えて力強く激励の言葉を投げかけた。

 

ハイ、トミー!

リメンバー?

ウェイクアップ!

トミー、ウェイクアップ!

レッツ・ゲット・ファイティング!

ヘイ、トミー、がんばれ、がんばってよ!

 

最高、最強のライバルであり友からの

魂のメッセージだった。

 

日本語の部分は英語字幕が下に入っていたので、

それをドット夫人がキッドの耳元で伝えていた。

 

                                                       ©大川 昇

あれから2年余、キッドは逝った。                                 

 

35年以上も前に、現代プロレスの礎を作っていた男。

国籍、国境、団体の垣根を超えて、ストロングスタイルを実践してきた男。

プロレスに命を懸け、ストイックにリングで生き抜いてきた男。

 

最高のライバルであった初代タイガーマスクの言葉を借りるなら、

こう言うしかないだろう。

 

Tommy、Rest in peace

 

ザ・プロレスラー。

ダイナマイト・キッドよ、永遠に!