パーキンソン病を患いながら懸命にリハビリに取り組み、
”復活”を目指していたマサ斎藤さん(本名=斎藤昌典)が、
14日に亡くなった。
享年75。
明治大学時代、坂口征二さんと同期の桜だったマサさんは、
1964年の東京五輪にレスリング日本代表として出場。
日本プロレス、東京プロレスとアントニオ猪木と行動をともにするカタチとなったが、
その後の主戦場を米国マットに求めた。
周知のとおり、西海岸地区でNWA世界タッグ王者としてヒールのトップスターとなり、
WWF(現WWE)でも、WWF世界タッグ王者に君臨している。
AWA地区ではハルク・ホーガンの最大のライバルとして抗争を展開。
先だって、新日本プロレスがサンフランシスコのカウパレスで興行を開催しているが、
カウパレスと聞いて、すぐに思い出したのがマサさんの存在。
そう、マサさんは西海岸プロレスの殿堂カウパレスのスター選手であったのだ。
ジャイアント馬場、グレート・カブキ、キラー・カーン、グレート・ムタとならび、
日本人として米国マットで大スターとなった男がマサ斎藤だった。
日本マットでは、良き先輩であったアントニオ猪木と
友人でもある坂口氏の所属する新日本マットで活躍。
当初はあくまで中堅のポジションで、
猪木&坂口を支える立ち場を貫いていたのだが、
本隊に反旗を翻した長州力がマサさんに師事するようになってからは、
長州率いる革命軍(※のちの維新軍)の参謀格として、
ついにその実力を全開にして、トップ戦線に殴り込みをかけた。
「喧嘩をしたら、日本人、外国人問わず、だれもマサさんには敵わない」
これは、本当だった。
まあ、ここでは書けないエピソード、
武勇伝は数知れずである。
とにかく、自由奔放で豪快な人だった。
私が、マサさんと初めてプライベートで会話したのは、
1987年7月、新日本の巡業先である函館のホテルのバーだった。
当時、ジャパンプロレスを解散して、全日本マットから
新日本マットへとUターン参戦していた長州軍団。
さまざまな憶測記事や批判を浴びた長州は完全にマスコミ不信となり、
全社の取材を受けつけようとしなかった。
そのとき、たまたまあることがキッカケとなって、
長州から単独インタビューを許されたのが、
当時、『週刊ファイト』の新米記者だった私。
7月、新日本の東北→北海道ツアーに同行していた私に対し、
5日、函館で長州から「取材OK」のメッセージが入った。
長州に呼び出されて、ホテル最上階のバーに行った。
そこで飲んでいたのが、長州、マサさん、タイガー服部レフェリー。
私は、カウンター席で長州とマサさんの間に座らされた。
記者キャリア1年ほどの25歳の若造が、長州とマサさんに挟まれて座る。
ちょっと想像してもらいたい。
さすがに、ビビる状況である(笑)。
私が、ビールを1本空けたところで、
「もう1本、いくか?」と長州が聞いてきた。
「いえ、仕事がまだ残っているので遠慮しておきます」
長州は無理強いしなかったのだが、
マサさんにひとこと言われた。
「酒も飲めないやつは、仕事なんかもできるわけがない!」
よく働き、よく遊べ。
それがマサさんの生き方でありモットー。
そのときは、まあ、なんともムチャクチャな言い分だなあとしか思わなかった。
だけど、何年もあとになってから、マサさんのそのひとことは、
けっこう真理を衝いているのかもしれないなと考えるようになった。
今回、マサさんの悲報に際して、
かならずエピソードとして書かれているのが、
猪木との巌流島決戦。
1987年10月4日、観客なし、マスコミだけが見守るなか決行された
猪木vs斎藤戦は、2時間5分14秒という大死闘となった。
残念ながら、私はこの闘いをリアルタイムで見とどけることができなかった。
というのも、同日、全日本プロレスの伊勢崎大会に急きょ取材に行くことになったからだ。
当日、新日本マットから永久追放処分となっていたブルーザー・ブロディが
”Ⅹ”として全日本にカムバックするという情報が入ったため。
そして、情報通り、ブロディはメインの試合後に乱入しカムバック宣言。
もうひとつ、当日の大会でよく憶えているのは、
「巌流島はもう終わったのかしらねえ」と、
馬場元子さんがしきりとそちらを気にして聞いてきたこと。
まあ、マサさんといえば、巌流島の決闘をはじめ、
猪木との一連の闘いばかりがクローズアップされがちだが、
私個人が生で観たマサさんのベストバウトは、
1990年の2・10東京ドームで行なわれたAWA世界ヘビー級選手権。
王者のラリー・ズビスコを破り、マサさんが第40代世界王者となった試合。
この大会の目玉企画は、北尾光司のデビュー戦と新日本vs全日本の対抗戦。
鶴田&谷津vs木村&木戸、長州&G高野vs天龍&タイガー(三沢)、
ベイダーvsハンセンのIWGP戦と極上カードが並んだものの、
実質イチバン試合内容が充実していたのはマサさんの試合だった。
47歳のマサさんが、AWA王座を奪取した瞬間、
東京ドームが大爆発したことも忘れられない。
その後も、新日本の外国人招聘窓口を務め、フロント面でも活躍しつつ、
リング上では「世界最強の50代」と称されたマサさんだったが、
1999年2月14日、日本武道館でスコット・ノートンを相手に引退試合を行なった。
親友のブラッド・レイガンズとともに、新日本の最強外国人に育て上げた
超竜ノートンとラストマッチを行なったのもマサさんらしさだろう。
引退セレモニーでは、当時『週刊ゴング』編集長の私は、
とっておきのパネル写真を用意してリング上で贈呈させてもらった。
だいたい、各社が巌流島の決闘、AWA世界ベルトを巻いた勇姿などの
パネルを用意するだろうと思っていたから。
ゴングで用意した写真は、日系レスラーの大御所であり、
米国での兄貴分的存在だったキンジ渋谷と1960年代後半に長期保持していた
NWA世界タッグ王者(サンフランシスコ版)時代のもの。
そのパネルをマサさんに手渡すと、
「よく、こんなの残っていたねえ!」
と満面の笑みで握手してくれた。
そう、普段のマサさんは人当たりもいいし、
マスコミに対してもつねに協力的で優しい人だった。
そうそう、生涯3度目の結婚相手であり、マサさんの最期を看取った
倫子(みちこ)夫人との結婚披露パーティーに招待してくれたのもいい思い出だ。
よく働き、よく遊べ。
酒も飲めないやつに、仕事なんかできるわけがない。
豪傑とは、マサさんをさす言葉。
マサさんから教えられた言葉、
これからもしっかと頭に叩き込んでおきますからね!
合掌。