日本、米国のメジャーマットで活躍し一世を風靡した”怪物”レスラー、

皇帝戦士”ことビッグバン・ベイダーが18日、肺炎のため死去した。

 

本名=レオン・ホワイト。

享年=63。

 

若すぎる死だったが、ここ数年健康状態に問題があることは自ら明かしていた。

2016年11月、心臓に疾患(うっ血性心不全)が見つかり、余命2年と医師に告げられたという。

 

その一方で、昨年4月に来日し、かつてのライバルにして友人でもある

藤波辰爾の『デビュー45周年記念メモリアル』シリーズに参戦した。

 

そのクライマックスとなる4・20後楽園ホール大会では、

武藤敬司&ベイダー&AKIRAvs藤波辰爾&長州力&越中詩郎という

夢のレジェンド6人タッグマッチに登場した。

 

いざ、試合がスタートするとベイダーの動きはよかった。

なかでも、長州とのラリアット相打ち→両者ダウンの場面は、

かつての壮絶な闘いを彷彿させるような名シーン。

 

ベイダー、健在なり!

そう思わせるに充分なファイトぶりだった。

 

ところが、試合直後にアクシデント発生。

45周年セレモニーのゲストとして来場した前田日明らとも

笑顔で握手していたベイダーが、真打ちともいうべき

アントニオ猪木がリングインした瞬間に突然倒れてしまったのだ。

 

混乱するリング上で慌ててAKIRAが水をかけたりしながら介抱すると、

なんとか自力で立ち上がったベイダーは高岩に支えられながらも歩いて引き揚げていった。

 

本当に、冷や汗もの。

だが、回復したベイダーはその後の2大会にも出場し帰国した。

あれが、日本のファンに披露した最後の雄姿。

もしかしたら、ベイダー自身もそれがわかっていたのかもしれない。

 

ベイダーは、新日本プロレスのリングで成り上がり、

世界的なスターとなったメイド・イン・ジャパンの外国人レスラー。

 

その初来日は、いい意味でもわるい意味でもインパクト満点だった。

1987年12月27日、両国国技館で開催された新日本の年内ラスト興行

‘87イヤーエンド・イン国技館』にビートたけし率いるTPG(たけしプロレス軍団)

がスカウトした刺客として、マサ斎藤とともに登場。

 

マサ斎藤の挑発を猪木が受けて立ったために、

当日になってカードが二転三転。

結局、猪木が長州力、ベイダーと2連戦を決行する事態となって、

国技館の観客が暴動を起こすという大事件にまで発展した。

 

当時、カリスマ猪木の神通力も衰え始めたことを如実に示す暴動事件。

結果的に、長州に反則勝ちを収めたものの、

猪木はベイダーのアバランシュホールドに3分弱でピンフォール負け。

 

そのころ、『週刊ファイト』記者として取材にあたっていた私は、

本部席の田中秀和リングアナの隣席に座って一部始終を目撃したが、

あの「ヤバイ」空気はいまでも忘れられない。

 

カード変更に激高したファンによって、

リング上に絶え間なくモノが投げ入れられる。

さすがに試合途中で、私も国技館の通路まで避難したほどだった。

 

 

ただし、この時点で、スキャンダル要素ばかりがクローズアップされたために、

ビッグバン・ベイダーが何たるかは、まだファンに浸透していなかった。

 

ベイダーが本格的に、新日本マットの外国人エースとして、

縦横無尽に暴れはじめたのは翌1988年からだった。

 

TPGが送りこんだ刺客という劇画チックな登場の仕方から

当初イロモノ扱いされていたベイダーの実力はホンモノだった。

 

もともと、コロラド大学のアメリカンフットボール部のスター選手だったレオン・ホワイトは、

1978年、NFLのドラフト3巡目でロサンゼルス・ラムズに入団。

1980年に度重なる膝の怪我で解雇されるまでアメフトのスター選手だった。

 

アメフト引退後は、ボクシングの道も志していたが、

最終的に、ブラッド・レイガンズの「レイガンズ道場」に入門。

 

AWA地区で、ブル・パワーのリングネームで頭角を現した。

そのホワイトに目を付けたのが、レイガンズの親友でもあるマサ斎藤。

本来であれば、TPG云々抜きにでもトップを狙える逸材であったわけだ。

 

それにしても、当時の新日本のベイダー売り出しは画期的だったと思う。

まず、リングネームのビッグバン・ベイダー。

皇帝戦士のニックネーム通りにベイダーという名は、

映画『スターウォーズ』のダークヒーローであるダース・ベイダーから拝借したもの。

 

遠隔操作で白煙を噴き上げる入場コスチュームの甲冑も新鮮だったし、

入場テーマ曲となった『アイズ・オブ・ザ・ワールド』(リッチー・ブラックモアズ・レインボー)

もベイダーのイメージにピッタリ。

 

ただ、いまでもわからないのが、「ビッグバン」のスペルである。

当時、「ビッグバン」という単語は、世に出始めたばかりの言葉。

 

ビッグバン=BIG BANG

宇宙を創設した大爆発のこと。

 

当然、ベイダーのビッグバンもそちらを意味するものと思われていた。

ところが、ビッグバン・ベイダーの場合はスペルが違った。

 

ビッグバン=BIG VAN

いまでも、そこだけは謎だ。

スペルを間違えたのか、それともあえてそうしたのか?

 

いずれにしろ、ビッグバン・ベイダーというキャラクターは、

新日本が創り出した昭和最後の大傑作だったと思う。

 

ちなみに、ビッグバン・ベイダーは新日本が商標登録済みであったため、

新日本マット以外で活動するときには、

ベイダーか、スーパー・ベイダー(※UWFインターのみ)のリングネームを使用していた。

 

まあ、かなり理屈が長くなってしまったのだが(笑)、

1988年から早くもIWGPヘビー級戦線に躍り出たベイダーの勢いは凄まじいばかり。

 

 

猪木超えへ向けて”飛龍革命”をスタートさせた藤波辰爾の

最大のライバルとしてシノギを削りあっている。

 

この当時から、両者の間には友情、絆が生まれた。

ガチガチのボッコボコスタイルを貫くベイダーとの対戦は、

だれもが敬遠したかったろうし、できれば避けて通りたい相手。

 

闘魂三銃士結成当初、飛ぶ鳥を落とす勢いで凱旋してきた蝶野にしても、

1989年の4・24東京ドームで初対戦した際に、記憶を飛ばされ大の字にさせられた。

 

あんな性格の悪いやつ、正直もうやりたくないですよ!

 

蝶野をしてそう言わせるほどに、ベイダーの戦法は度を超えていた。

橋本真也にいたっては、対ベイダー戦はつねに命懸けの覚悟。

 

 

ベイダー戦の当日、自宅を出る橋本が、

今日は病院に泊まることになるかもしないから

と、かずみ夫人に告げて出かけていったことは有名な話である。

 

ところが、藤波とベイダーはなぜか不思議なほどに手が合った。

おそらく、ベイダーは自分とまったくタイプの違うテクニシャンであり、

受けの天才でもある藤波を大いにリスペクトしていたのだろう。

 

 

その一方で、自分と似たタイプ。

つまり相手をとことん潰しにいくパワーファイターの橋本や長州力には、

尋常ならざるモチベーションで試合に挑んでいたのではないだろうか?

 

そのベイダー伝説の集大成ともいえるのが、

”不沈艦”スタン・ハンセンとの2連戦。

 

新日本トップ外国人vs全日本トップ外国人という図式のもと、

1990年に行なわれたベイダーvsハンセン戦はあまりに壮絶だった。

 

2・10東京ドームでの初対戦では、IWGPヘビー級王者のベイダーが

ハンセンの挑戦を受けるカタチで行なわれ両者リングアウト。

 

この試合で、ハンセンのストレートパンチがベイダーの右目を直撃。

みるみる腫れあがったベイダーの右目は眼球がこぼれ落ちてしまうほどの大ダメージを受けた。

 

 

再戦は、6・12福岡国際センターにて。

この試合にもIWGP王座が懸けられたが、

ドーム以上の死闘の末、両者反則に終わっている。

 

伝説のアンドレvsハンセンを超えるような2連戦だった。

なぜ外国人同士で一線を超えるような闘いが展開されたかといえば、

あとになって理由がわかった。

 

ベイダーがAWA地区でデビューしたばかりのグリーンボーイ時代。

AWA世界ヘビー級王者に君臨していたのはハンセンだった。

グリーンながらもベイダーはハンセンのベルトに挑戦した経験もある。

 

その当時、アメフトに見切りをつけてプロレス界で生きていこうと決心したベイダー。

そのベイダーに親身になっていろいろとアドバイスをしてくれたのが、

同じくアメフト出身のハンセンだった。

 

いわば、互いに気心が知れた師弟関係。

そして、ハンセンもまた新日本マットからトップの道を歩み始めた男。

そんな経緯があったからこそ、

そして2人ともプロ意識の塊だったからこそ

生まれた奇跡的な大死闘であったわけだ。

 

1990年の10・25グリーンドーム前橋では、

こんな、とんでもない顔合わせも実現している。

 

 

新旧外国人エース対決。

ベイダーvsタイガー・ジェット・シン戦。

 

同年の9・30横浜アリーナ大会

アントニオ猪木の『レスラー生活30周年記念試合』で、

初めて宿敵・猪木とタッグチームを結成し、

大ヒールから一転してベビーフェイスとなったシン。

 

余談ではあるが、私たちマスコミも半信半疑で取材にあたっていたが、

9・30以降のシンは本当にベビーに変身していた。

控室周辺で出くわしても襲ってくるどころか、笑顔で会釈してくるのだ。

 

一方、突然ベビーに転向されて、

自分がヒールにされてはベイダーだっておもしろくない。

もともと、ベイダーはヒールではないのだが、

ハッキリ言ってマスコミに対してまったく愛想がなかった。

 

そんなベイダーが突然、愛想をふりまくようになり、

この前橋大会の試合前、刷り上がったばかりの

週刊ゴング』の新刊を手渡すと、

サンキュー・ソー・マッチ」と言って深々とお辞儀してきたのだ。

 

私からすると、試合よりもそちらのほうが断然おもしろかった(笑)。

 

 

そして、極めつけはコレだろう。

1996年の1・4東京ドーム大会

メインイベントは、武藤敬司vs高田延彦の

IWGPヘビー級選手権。

 

ところが、その世紀の大一番さえ食ってしまったのが、

猪木vsベイダーの因縁の再会マッチ。

ベイダーが放った超急角度ジャーマンスープレックスによって、

猪木の首がグニャリと曲がってしまった凄絶シーンはいまでも語り草となっている。

 

その後、戦場を全日本マットに移したベイダーは、

三冠ヘビー級王座にもついたし、三沢光晴、小橋建太とも死闘を展開した。

 

もちろん、本国アメリカでもWCW世界王者となり、

WWEではハルク・ホーガンとも抗争を展開するなど世界に名を轟かせた。

 

ただし、私がイチバン記憶に残っているのは、

彼の異常なほどのプライドの高さだった。

それは、米国の国技であるアメフトのスター選手だったところからきているように感じた。

 

俺は、超一流のアスリートなんだ!

 

そんなプライドだろうか?

だから、1990年代前半、ベイダー、バンバン・ビガロ、スコット・ノートン

ガイジン3強と称されるなか、ベイダーだけがすこし浮いていたように思う。

 

もうひとつ、懐かしい極秘エピソードがある。

そんな親分風をふかすベイダーの態度に怒りを顕にしたのが、

これまた喧嘩っ早さには定評のあるスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)。

 

1992年6月26日、日本武道館。

ベイダー&ビガロが保持するIWGPタッグ選手権に、

スタイナー・ブラザーズが挑戦した一戦。

 

試合前、たまたま顔を合わせた両チームが一触即発の事態に陥った。

 

いま、ここで勝負してやろうか!

 

オマエの膝をぶっ壊して、二度と立てなくしてやるぞ!

 

ベイダーとリックが乱闘寸前となったのだ。

それを制止したのが、暴れん坊ビガロだったというのもおもしろい。

 

果たして…試合は素晴らしい名勝負となった。

私の勝手な心配をよそに4選手が全力でフェアに闘い抜いた。

結果は、スタイナーズが新王者に。

 

4選手が、握手を交わす。

みんな、プロだなあ。

喧嘩したあとの仲直りを試合を通してやってのけたのだ。

 

1970年代~1990年代。

新日本の最強外国人の双璧は、

スタン・ハンセンビッグバン・ベイダーだったと思う。

 

そして、2000年代~2010年代に入って、

AJスタイルズケニー・オメガが飛び出してきた。

 

モンスター外国人時代から、

アスリート外国人の時代へ。

 

まさに、歴史と時代の流れを象徴していると思う。

 

ビッグバン・ベイダー。

モンスターであり、喧嘩屋であり、じつはアスリートでもあった。

いやいや、これぞザ・プロレスラーといったほうが相応しいのかもしれない。

 

そんな男の全盛期のファイトをつねに間近で観られて、

私はラッキーだったと思う。

 

猛き皇帝戦士よ、永遠なれ。

合掌――。