スーパー・ストロング・マシンが
通算40年におよぶレスラー生活にピリオドを打った。
6・19後楽園ホール。
『スーパー・ストロング・マシン引退記念試合』。
ぎっしり埋まった後楽園ホールだが、
おそらく半数近い人たちが、S・S・マシンとはどういうレスラーなのか、
どんなレスラー人生を歩んできたのか、
リアルタイムでの認識はないと思う。
最後に、リング上で試合を行なったのは、
2014年4月2日、井上亘引退記念試合(後楽園ホール)だった。
以降、満身創痍の身体のリハビリに努めてきたものの、
リング復帰のコンディションを取り戻すまでには至らず、
この日、ケジメとして『引退セレモニー』を行なうことになった。
奇しくも、4年前の井上亘引退記念試合のときと同様に、
今回もテレビ解説を務めさせてもらった。
業界キャリア30年以上の私でも、
本当なら事前にマシン本人に聞いてみたかった。
「本当に、ボクなんかでいいんですか?」
40年のキャリアを誇り、
私より5歳も年長だけど、
きっとマシンならあの野太い声でこう言ってくれたと思うのだ。
「金沢さん、ありがとうございます。
マシンの最後をしっかり看取ってください。
よろしくお願いします!」
マシンとは、そういう人物なのだ。
昔からそうだった。
30年以上前、まだ新米記者だった私に対しても、
さん付けのうえ、いつも丁寧語で話しかけてくれた。
ヒロ斎藤&高野俊二とのカルガリー・ハリケーンズとして、
全日本プロレスで活躍していた時代だ。
たまたま地方のホテルの廊下で出くわすと、
突然、相撲の仕切りのポーズをして突進してきたり…
この若造記者を和ませ大いに笑わせてくれた。
根が温厚で優しい。
本人は……自分は二番手のプロレスラー、
そういうレスラーがいてこそトップが光る。
たしか、引退セレモニーを控えいろいろな媒体で、
そう語っていたと思う。
ただし、私の感覚からいくと、
マシンはトップレスラーだった。
ただ、マシンが全盛で活躍していた1980年代半ば~1990年代半ば、
プロレスラーたちは「我も!我も!」でトップを目指していた。
言ってみれば、強烈な個性と我儘な精神を持ち合せていなければ、
本当のトップには立てなかった。
他人を蹴落としてトップに上がる。
それが当たり前の精神だった。
マシンには、それができなかっただけだと思う。
あまりに常識人だったし優しすぎたから。
だから、リング上で起こること、
リング外で起こること、
例えどんな理不尽なことも、
すべて現実として受け容れてきた。
かつての恩人であるジャンボ鶴田さんと初シングルで対戦した試合。
解説についていたジャイアント馬場さんは、こう言った。
「マシンはね、なんでもできる器用な選手なんですよ。
だけど、ここ1発っていうものが足りないんです」
私が思うに、馬場さんの言う「ここ1発」とは、
大技のことではなく我儘なほどの個性、主張だと思った。
ここ数年でいうと、
1・4東京ドーム大会恒例の第0試合がある。
レジェンドたちも参戦する新日本ロイヤルランボー(時間差バトルロイヤル)だ。
ヒロ斎藤、グレート・カブキ、小林邦昭と、
さまざまなレジェンドたちがリングに上がりオールドファンを喜ばせてくれた。
当然、マシンにも打診はあった。
だけど、「リングに上がれるコンディションではないから」と固辞してきた。
頑固なまでの真面目さ。
それはプライドでもあった。
それこそ、マシン特有の個性だったのではないだろうか?
「おまえは、平田だろ!」(by藤波)
「こんな、しょっぱい試合ですいません!」(by本人)
これらはプロレス史に刻まれる名言だ。
もう、この名言を二つ残しただけでマシンはトップレスラーなのである。
増殖マシン軍団。
カルガリー・ハリケーンズ。
烈風隊。
ブロンド・アウトローズ。
レイジング・スタッフ。
魔界倶楽部。
青義軍。
どれもこれも、みんな印象に残っている。
そして、マシンの入場テーマ曲。
「ハリケーンズ・バム」。
これもプロレス史に残る名曲だ。
作曲は、長州の「パワーホール」も手掛けた
異母犯抄(平沢進さん)。
個人的には、プロレス入場テーマ曲のなかで、
「パワーホール」、「ハリケーンズ・バム」、
「サンダーストーム」、「爆勝宣言」が、
ベスト4と言っていいほど私は好きなのだ。
いやいや、また悪い癖で書きはじめたら止まらない。
とにかく、当日のメインカードは10人タッグマッチ。
マシン軍団は…S・S・マシン・エース&S・S・マシン・バッファロー&S・S・マシン・ジャスティス
&S・S・マシン・ドン&S・S・マシン№69 with スーパー・ストロング・マシン。
対するは、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの
内藤哲也&EVIL&SANADA&BUSHI&高橋ヒロム。
平成の増殖マシン軍団の正体は、
リングネームからもバレバレなのだが、
そんなことはどうでもよい。
果たして、どんな見せ場を作ってくれるのか?
懐かしい戦友たちはやってくるのか?
そうしたら、いきなりキター!
「ハリケーンズ・バム」が鳴り響くなか新生マシン軍団入場につづき、
なんとトレードマークの拡声器と鞭を持った将軍KY若松が登場。
そのあとに、スーツ姿のS・S・マシンがついている。
34年の時を経て、時空を超えたかのように、
マシン&若松コンビが復活。
しかも、若松さんは当時とまったく同じ仕様のコスチューム。
超マニアックな人でも気づかなかったかもしれないが、
若松さんはちゃんと赤色に染めた地下足袋を履いていた。
この地下足袋こそ若松さんのこだわりだろうし、
それをキッチリ履いてきたところに、
若松市政さんのプロ意識と生真面目さを見せられた思い。
もう、試合はどうでもいい!?
とにかく、さしものロス・インゴをしても、
「GO、マシン!GO!」の空気は変えようもない。
場外で、内藤へのマシンラリアットも爆発。
最後は田口…いや、マシン№69が見事な魔神風車固めを決めて、
記念試合を締めくくった。
いやはや、壮観。
こんな光景をふたたび見ることになるとは!
それにしても中西…いや、マシン・ドンはひときわでかくて、
あのアンドレ・ザ・ジャイアントがマスクを被ったときのジャイアント・マシンみたい(笑)。
棚橋…いや、マシン・エースはかなりカッコいい。
これって、34年前に出現していたら猪木さんより人気が出ていたかも(笑)。
試合後のセレモニーでは、マシンゆかりの人たちがリング上へ。
若松さんにつづいて欠かせないヒロ斎藤も来た。
マシンとヒロさんは同日デビュー。
1978年8月26日、長野・飯山市体育館でともにデビューしている。
いま、気がついた。
8・26は、マシンがデビューしてちょうど1年後、
「プロレス夢のオールスター戦」が開催された
プロレス記念日ではないか?
やはり、2人ともプロレスの申し子。
そう、第14代IWGPタッグ王者のマシン&ヒロ斎藤組は、
私が知る限りにおいて日本マット史上最高のタッグチームなのだ。
マシンのデビュー戦の相手は、藤原喜明。
ヒロの相手は魁勝司(北沢幹之)さん。
ちなみに、前日の8・25長岡大会では、山本小鉄さんを相手に前田日明もデビューしている。
当時、入門は前田、ヒロのほうが先で先輩にあたるのだが、
デビューで同期、マシンが最年長ということもあり、
前田は「オッサン」、ヒロは「ニイさん」とマシンを呼んでいた。
さらに、懐かしの魔界倶楽部もリングで再会。
右端の魔界2号は、筑前りょう太。
筑前はインディーの名もない選手だったが、
その体格と運動神経を買われて魔界2号に大抜擢を受けた。
隣りはご存知、”平成のテロリスト”こと村上和成。
村上が新日本のリング上で笑顔を見せたのは初めてだろう。
さらに、魔界4号こと柴田勝頼もやってきた。
柴田はしっかりと、魔界倶楽部の星野勘太郎総裁の遺影も持参。
そう、柴田にとっては星野さんもマシンも恩人なのだ。
2005年初頭、葛藤の末、新日本を退団した柴田。
その悩める柴田に、「一度、新日本を出てみてもいいんじゃいか?」
と背中を押すようにアドバイスしたのがマシンだった。
「一人前になった柴田が必要になったとき、
また新日本はかならず柴田を呼ぶことになると思うよ」
当時のマシンの言葉は現実のものとなったのだ。
最後に、マシンから引退のメッセージと
10カウントゴング。
最後の「ハリケーンズ・バム」がホールにこだまする中、
マシンは曲を止めるように促して、もう一度マイクを持った。
「もうひとり、大事な人に深い感謝の言葉をこの場をお借りして捧げたいと思っております。
本年1月25日、午前7時12分、28年間連れ添ったわが妻・マサミが癌のため天国へ旅立ちました。
この場をお借りして天国の妻へ感謝の言葉を声を大にして捧げ、
私のあいさつを締めさせてもらいたいと思います」
そこで、マイクをリングに置いたマシンは天を見上げた。
「マサミ―! ありがとうー!!」
まいった、もう言葉が出てこない。
スーパー・ストロング・マシン終焉。
マシンマスク・ブームは世界を席巻した。
紛れもなく、名レスラーだった。
そして、いつも私に優しかった素顔の平田さん。
本当にありがとうございました。
いま、感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、それでもリング上は止まらない。
また今年も暑い熱い夏がやってくる。
『G1 CLIMAX28』エントリー選手、ブロック分け、対戦日程が決定。
飯伏幸太vsケニー・オメガ。
8月11日、因縁の日本武道館で、ついに相まみえる!