故・ジャイアント馬場さんの夫人である

馬場元子さんが14日に逝去された。

 

享年78。

 

元子さんが病気で療養のため

施設に入っていることは聞いていたのだが、

肝硬変を患っているとは知らなかった。

 

突然の訃報を知って、やはりショックである。

 

文字通り、生前の馬場さんとは二人三脚。

とくに、対マスコミ関係で煩わしいことには

すべて元子さんが対応していた。

 

私も当然のように、この仕事を初めて早々に、

元子さんの洗礼を浴びている。

 

1986年5月から、新大阪新聞社『週刊ファイト』の記者として、

この業界で仕事に携わりはじめた私だが、

記者として本格的に現場で取材活動に入ったのは、

同年8月半ば、東京支社勤務となってから。

 

当時の『週刊ファイト』は、完全にアントニオ猪木寄り、

つまり新日本プロレス中心の紙面構成となっており、

巷では『週刊イノキ』とまで揶揄されていた。

 

そうは言っても、マット界は新日本、全日本が二大メジャーと呼ばれ、

新興組織としてUWF、FMWが台頭してきて、

女子プロレスでも老舗の全日本女子と

新団体ジャパン女子がシノギを削っていた。

 

ファイトは記者数が少ないため、

私は新米ながら全団体の取材をカバーする立場にいた。

 

明らかな新日本偏重主義の媒体であるファイト。

ただし、現場に行くと、そんなことを気にする素振りもなく、

全日本の選手たちはみんな優しく接してくれた。

 

元子さんも同様だった。

むしろ、まだ色のついていない新人の私を可愛がってくれたのだ。

たとえば、こんなことがあった。

 

あるとき、電話をとった東京支社の経理のおばさまから、

「金沢君、電話よ」と言われた。

 

「誰からですか?」

 

「それが名乗らないのよ。

金沢君、いますでしょうかって」

 

とりあえず、電話をとった。

 

「ハイ、金沢です」

 

「あ、金沢君、ワタシです」

 

「ワタシ? 誰だよ、ワタシって⁉」

 

「馬場です」

 

「えっ! もしかして元子さんですか?」

 

「そうよ、フッフフ」

 

「大変失礼しました!

てっきり学生時代の同期かと思いまして…。

驚きました! すみません」

 

やっちまった!

冷や汗タラ~リ。

まさか、元子さんから直々に電話が掛かってくるとは。

実際、用件はそんなにオオゴトではなかった。

べつに、広報担当の人が伝えてくれたら充分といっていい内容。

 

あれは、なんだったのかなあ?

元子さんが気まぐれでかけてきたのかな?

いまもって謎の電話なのだが、

その後の現場での対応を思い起こしても、

元子さんがワタシを気に入ってくれていたことだけは間違いないと思う。

 

まあ、とにかく元気に挨拶することだけが取り柄のワタシだったから、

そういう部分を気に入ってくれたのかな?と思う。

 

1989年11月、私が『週刊ゴング』に移籍してからも同様だった。

約2年、遊軍記者として…というよりコンビニ記者として(笑)、

相変わらず全団体の取材に走り回っていたワタシ。

 

そして、転機が訪れた。

いま思えば、その後の自分の運命を決める大きな出来事だった。

 

1990年に入って、新興団体SWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)が

旗揚げへ向けて動きはじめた。

4月、天龍源一郎が全日本を退団して、SWSへ移籍。

その他、多くの全日本所属選手たちがSWSへと動いた。

 

同年9月に、SWSはプレ旗揚げ戦を開催し、

10月に正式な旗揚げ戦を行った。

 

それに伴って、長年『週刊ゴング』の全日本担当記者だった小佐野さんが、

SWS担当へと配置転換。

当然のように、犬猿の関係となった両団体を掛け持ちで担当するなど、

不可能な話である。

 

そのとき、当時の清水編集長に元子さんから、リクエストが入った。

 

「金沢君を全日本の新しい担当にしてほしい」

 

そういう旨である。

突然、清水さんからその件を振られて私は戸惑った。

それは社命ではなく、あくまで「考えてみてくれないか?」という段階。

「少し考えさせてください」とは言ったものの、

自分のなかで翌日にはもう答えが出た。

 

正直に言うなら、ファン時代は猪木信者であり、

バリバリの新日本プロレス派だった。

ただし、実際にこの仕事に就いてみてその感覚も変化していた。

 

全日本の魅力、面白さにかなり惹かれていたのだ。

だけど、それも考えてみると、すべては天龍ありきだった。

全日本というよりも、天龍革命を推進する天龍源一郎に惹かれていたのだ。

 

天龍のいない全日本を担当する。

それは自分のなかで気が進まないこと。

だから、清水編集長には丁重にお断りした。

もちろん、それが社命であったなら受け入れるしかなかったことである。

 

その1年後、私は正式に新日本プロレス担当となった。

 

以来、全日本の現場取材に行くことじたい減ったのだが、

日本武道館大会などビッグマッチのときは、

私も助っ人で全日本取材スタッフに加わる。

 

予想した通り、元子さんは冷たかった。

取材受付の際に目も合わせてくれなくなったのだ。

それが悔しいから半ば強引に話しかけてみると、

やはり嫌味な言葉しか返ってこない。

 

私は全日本担当を断って新日本を選んだ男。

しかも、天下のジャイアント馬場さんの奥様のリクエストを蹴った格好なのだ。

 

 

そんな状態がつづくなか、1999年1月6日付けで、

私は、『週刊ゴング』編集長に就任した。

もう、担当云々のレベルではない立場となった。

 

そして、いきなりの大事件。

同年1月31日、馬場さんが亡くなったのだ。

 

それ以降、また私には優しい元子さんが帰ってきた。

呼び方も、「金沢君」から「金沢さん」へと変わった。

 

2000年6月、三沢光晴(故人)を筆頭に大多数の選手が全日本を退団し、

7月にプロレスリングNOAHが誕生した。

 

団体存続の危機に瀕した元子さん体制の全日本を救ったのは、

新日本と全日本を股にかけて大活躍する武藤敬司だった。

当時、私が公私ともに武藤と親しかったこともあり、

元子さんとの良好な関係も、元子さんが2002年10月に

社長を退任するまでつづいた。

 

いま、あらためて思うこと。

あのとき、元子さんからの依頼を素直に受けて、

全日本担当記者になっていたら、

私はどういった道を歩んでいたのだろうか?

 

「たられば」は無意味だとわかっていても、

やはり、あのときが自分の運命の分かれ道であったことは間違いないと思う。

 

いろいろな意味で馬場元子さんという存在は、

自分の記者人生において本当に大きな人だった。

 

元子さん、お世話になりました。

ありがとうございます。

 

合掌。