ここで、片山明選手(※以下、敬称略。引退表明はしていない)を

知らないみなさんのために、彼の略歴を紹介しておきたい。

1985年1月に入門テストに合格し、新日本へ入団。

その後、3月に大矢健一(現・剛功)、4月に松田納(現エル・サムライ)、

5月に飯塚孝之(現・高史)が入門してきた。


デビューのほうは、大矢、片山、松田、飯塚の順番。

だから、この4人が同期入門となるのだが、

当時の新日本はタテの関係がいまより厳しかったこともあり、

片山と大矢が同期、松田と飯塚が同期という見かたをされていた。


彼らのすぐ上の先輩にあたるのが、闘魂三銃士(橋本真也、武藤敬司、

蝶野正洋)、船木優治(現・誠勝)、野上彰(現AKIRA)、

そのさらに1年上には素顔の獣神サンダ―・ライガ―がいた。


また後輩となると、まる1年後に鈴木実(現みのる)が入門しており、

同時期に浅井嘉浩(現ウルティモ・ドラゴン)が通いの練習生として

新日本道場で同じ釜の飯を食っている。


片山は170㎝、90㎏強という体格。

小柄だったが、鍛え上げた肉体を持っていた。

いまの選手に例えるなら石井智宏を少し細く筋肉質にした感じのボディ。


得意技は相手に頭から突っ込んでいく片山ロケット。

いわゆるトぺだった。

これもいまに例えるなら本間朋晃が最近多用する

“こけしロケット”とほぼ同様の技だ。


不器用だったけれど、小さな身体で全力ファイト。

そんな片山だったから、若手時代から怪我が絶えなかった。

両肘、左肩、顔、膝と大怪我で何カ所も全身にメスを入れた。

当時からトレーナーやリングドクターの帯同などのシステムが
もっとしっかりしていれば、
これだけ片山が怪我に悩まされることも、

身体にメスを入れる必要もなかったと思う。


だが、欠場すればその分だけ周りに置いていかれると焦った片山は、

怪我をひた隠しにしたり、だましだましで

必死にリングに上がるほうが選択した。


それにも限界を感じたのが1990年の初め。

前年末に道場で練習中に左膝の内側靭帯を断裂した。

それでも試合に出続けた片山だったが、

3月の契約更改時にケジメをつけた。


退団して、しっかり怪我を治したい。

膝が完治すればメキシコにでも渡って再起したい――

漠然とそう考えていたのだ。


なにより、たび重なる欠場で新日本のお荷物になることが耐えられなかった。
片山は人柄がいいから、当時の幹部選手たちにも

可愛がられていたし、温情をかけられていた。

それが逆に辛かったし、自分自身の重荷となったのだ。


それから3カ月後に運命の転機が訪れた。

新興勢力SWSから誘いを受け、

左膝が治ってからリング復帰という条件のもと、SWSに入団。


11月に復帰してからは、ジュニア戦線で水を得た魚のごとく暴れまわった。

連日爆発する片山ロケットはSWSの名物となった。

ところが、92年1月の大阪大会でアクシデントに見舞われる。


第1試合のタッグマッチでトップロープ超えのトぺスイシ―ダを放った際に、

場外マットへ前額部から垂直に突っ込んでしまった。


第4頸椎脱臼骨折。


命に関わる重傷を負った末に、結局、車椅子生活を余儀なくされた。

ICU(集中治療室)に入ってすぐにSWSの選手、関係者が多数駆け付けた。


3日後にはライガ―が訪ねてきた。

橋本真也もやってきた。


事実上、片山は選手生命を断たれた。

それ以降、岡山県内のリハビリテ―ションセンターの近くに自宅を構え、

看護師の資格を持つ京子夫人と二人三脚の暮らしをしてきた片山。


気持ちはプロレスラーのままだったから、

無理と分かっていても復帰を信じて努力した。

95年、新日本の別部隊である平成維震軍興行が岡山にやってきた。

そのときのメンバーである越中詩郎や蝶野正洋が、

なんと巡行バスで片山の自宅まで激励にやってきた。


それが新日本プロレス関係者との直接にして最後の接点。

選手で現在まで付き合いが続いているのは同期の大矢と

先輩の佐野直喜(現・巧真)、引退したジョージ高野だけである。

ライガーとはメールのやりとりを続けてきた。


(つづく)