4月11日、都内のホテルで開催された

『佐々木健介引退記念パーティー』に出席した。

会場には400人以上の出席者が詰めかけたが、

私からすると正直、「これぐらいの規模なんだ!?」

と少しばかりの驚きもあった。


というのも、芸能界で活躍する佐々木夫妻であれば、

もっと大勢の著名人を集められるだろうし、

下世話な話になるが、よくある”金集め”パーティーの類なら、

一般の方、ファンの方まで招待してしまえば、

それこそ1000人規模の会場でやれると思うのだ。


ところが、このパーティーは本当に身内感覚。

佐々木夫妻がお世話になったプロレスラー、

プロレス関係者、芸能人、後援者など…

本当の意味で健介&北斗と親交のある

人たちだけが招待された格好だった。


                 

                   

発起人は中嶋勝彦。

健介オフィス(ダイヤモンドリング)の一番弟子で、

自分がダイヤモンドリングを守ると誓った最後の弟子でもある。


招待状の文面には、

「10カウントゴングを聞かせず、師匠をリングから降ろすわけにはいきません。

最後の10カウントゴングを聞かせることが一番弟子である私の努めだと思います」

と、勝彦の力強く、覚悟と愛情に溢れた言葉が並んでいた。


例によって、パーティー嫌いの私だけれど、

プロレスラー健介の最後の10カウントゴングとなると、

しっかり目と耳に焼き付けなくていけない。


健介とは業界同期。

語りきれないほど、思い出がいっぱいある。


ジャパンプロ時代、新日本時代は、健介も私も若かった。

だから、「打倒!闘魂三銃士」を誓い、

ひたすら突き進む健介を判官びいきの気持ちも手伝ってか、

誌面を通して応援していた。


ところが、本当の意味で、佐々木健介という真っ直ぐな男、

北斗晶という強く逞しい女と私の間に確固たる絆が出来上がったのは、

健介がWJを退団し、フリ―になってからだったと思う。


彼らと私の関係は、完全にビジネスを超えていた。

というより、ビジネス云々を挟む余地がないほどに共同体となっていた。

当時、『週刊ゴング』の編集長という立場にいながら、

それをひとまず横に置いておき、

友人として佐々木夫妻と付き合っていた。


いやいや、友人などという言葉は甘っちょろい。

おそらく、あの当時、私も健介ファミリーの一員だったのかもしれない。

2人とは毎日のように、電話、メールで話し合った。

話し合いというよりも、話し込みである。


健介も北斗も私のことを全面的に信頼し、

なんでも打ち明けてくれた。

相手が自分を100%信頼してくれている、

隠しごとなく何でも相談してくれる――

その気持ちに対し、100%で応えなければ男じゃない!

そんな感覚だった。


健介が引退したいまだから、この話も時効だろう。

03年12月、WJを退団しフリーとして活動していくにあたり、

健介は心の師ともいうべき天龍源一郎のもとを訪ねた。


「健介がいちばん信頼をおける人間は誰なんだ?

それはお母ちゃん(北斗)だろ!

だから、お母ちゃんと2人でなんでも相談し合って頑張ればいいんだよ」


天龍からもらった、このアドバイスに関しては

過去、健介自身もマスコミ誌(紙)面上で何度か口にしている。

ところが、天龍の言葉には続きがあったと言う。


「あと、マスコミの中で味方になってくれる人間を1人見つけることだ。

なんでも相談できる信頼できるやつ…そういう記者はいないのかい?」


そのとき、健介は躊躇なく答えたという。


「います! ゴングの金沢さん」


もともと健介は口下手だから、このことを私に話してはいない。

このエピソードを教えてくれたのは北斗だった。


「金沢さん、健さんをよろしくお願いします」


この健介の気持ち、北斗の言葉、天龍のアドバイスに

応えなければ男じゃない!

そう思うのは当然のことだった。


03年12月、健介がWJを退団し、大ヒールと化して

古巣の新日本マットに出戻り参戦、その他、武藤体制・全日本、

各インディー団体でも活躍し、同年のプロレス大賞MVPに選出されるまで…

その1年間はじつに密度の濃い時間を健介&北斗とともに過ごしてきた。


あの当時の出来事を書こうと思ったら、

それこそ1冊の本を書けるぐらいの分量になるだろう。

フリーランスとしてプロレス界という

大海原に2人で飛び出していった佐々木夫妻。

山あり谷あり、喜びがあり、苦悩があり、トラブル、ハプニングあり…

今となってはいい思い出となるが、本当に2人はよく頑張ったと思う。


2人の頑張りに比べたら、私の協力など、

親戚のおじさんによるアドバイス程度のものだったのかもしれない(笑)。

その中でも、WJを退団した16歳の勝彦を健介ファミリーに迎え入れたのは、

実際のところ想定外の出来事だった。

予期せぬトラブル(?)にも見舞われた。


だいたい、健之介クン、誠之介クンを含めた

家族4人が食べていくことさえ精いっぱいの環境から

2人はスタートしたのである。


「子は親を選べない」


ここ数年、よく使われるフレーズである。

しかも、あまりいい意味で使われることがない。

例えば、家庭内でのDVであったり、

幼児に対する親の虐待行為であったり、

そういうケースに使われることが多い


ところが、中嶋勝彦と健介ファミリーの場合は真逆だった。

「子が親を選んだ!」のである。


04年になって、さらに揺れ動いていたWJ。

1月5日、後楽園ホールでプロレスデビュー戦を行なった勝彦。

相手は、今をときめく石井智宏だった。

そこへ、花束を持って激励に駆けつけたのが健介だった。

すでに、新日本の1・4東京ドームに参戦し、

永田と大流血の死闘を展開した翌日のこと。

普通なら、もうWJのリング、

会場に足を踏み入れることさえ嫌悪感を抱くところである。


だが、健介は笑顔で勝彦を激励するためにやってきた。

この行為も異例のことだろう。


それから3カ月後、勝彦はWJを退団した。

3・24豊橋の会場で、勝彦は自ら長州力に告げた。

正確にいうと、試合前の練習時に元気のない勝彦の様子を見て、

長州から声を掛けた。


「どうした?勝彦。元気がないな。なにか悩みでもあるのか?」


「長州さん、僕は佐々木健介さんについて行きたいんです!」


天下の長州力に向かって、

16歳の少年が本音を告げた。


長州は驚いた。

16歳の勝彦が自分で決断できる事とは到底、思えなかったのだ。

裏で誰かが糸を引いている…これは健介サイドの引き抜きだろう。

長州でなくても、そう考える方がむしろ自然なのかもしれない。


ところが、もっと驚いていたのは、

その話を人づてに聞かされた健介と北斗だった。

激励の花束贈呈以来、勝彦とはなにも話していない。

それなのに、勝彦のほうから健介についていきたいと言い出したのだ。


16歳の少年による勇気ある決断。

健介と北斗は何度も話し合った末に、

中嶋勝彦を受け入れることに決めた。


ところが、同時期にまた難題が持ち上がった。

佐々木家の自宅にWWE副社長である

ジョニ―・エースから留守電が入っていたのだ。


「あなたがフリ―になったと聞いた。

WWEはあなたに大いに興味を抱いている。

来月のカナダでのビッグショーで話をしたい。

来てもらえないだろうか?」


こういう内容だった。

健介がフリ―宣言をしたあと、それを心配したマサ斎藤は、

独自にWWEに働きかけていた。

ただし、それとはまったく別次元でWWEは日本マットの情報を収集し、

健介というトップレスラ―がフリ―になった情報を掴み、

直接、連絡をしてきたのだ。


健介の心は揺さぶられた。

米国マットでトップを取る――これは健介の一つの夢でもあった。

というのも、1991年秋、健介は馳浩との”馳健コンビ”で

米国WCW遠征が決定していた。


ところが、同年8月下旬、よみうりランドでのタッグマッチの際に、

健介は左足首を骨折し、全治10カ月の重傷を負って、

その夢は打ち砕かれていた。

米国メジャーで活躍する――。

健介にとって、それは唯一やり残した大仕事でもあったのだ。

健介の夢を北斗は尊重した。


「健さんがやりたいことをやればいい。

勝彦は私が責任をもって面倒を見るから、

健さんはWWEに挑戦すればいいよ」


北斗はそう言った。

健介の中では葛藤だった。

勝彦を引き受けると言った。

それなのに、自分はWWEに挑戦してもいいのだろうか?


そのとき、WWE側の真意を探るために、

私は米国在住のS氏に情報を掻き集めてもらった。

ちょうど、健想(KENZO SUZUKI)のWWEデビューが

内定していたころだった。


果たして、WWEが健介にオファーを掛けてきた真意は、

どこにあるのか?

当時、WWEが日本人選手を欲していたのは間違いない。

ただし、健介をどういうポジションで使いたいのか、

そこは謎のままだった。


周知の通り、WWEという組織の特色は秘密厳守であり、

情報が外に漏れることを極端に嫌う。

そこで最終的に健介が出した結論は、

「1週間、向こうからの連絡を待つ。

こちらからは連絡を取らない。

連絡がなければ、日本に止まる」と言うもの。


1週間が過ぎて、ジョニ―・エースからの連絡は来なかった。

そこで健介の気持ちは固まった。

日本でとことんやる、責任を持って勝彦をファミリーとして受け入れるというもの。


まさに激動の2週間。

最終的に、健介&北斗は、

プロレス界初のホームステイ方式として、

中嶋勝彦を佐々木家に受け入れることを発表したのだ。


いま思い起こしても、当時の2週間は激動だった。


「勝彦は俺を慕って来てくれる。

それなのに俺はアメリカへ行っていいのだろうか?」


健介は思い悩んでいた。


「健さんの夢を叶えてやりたい。

私が日本に残って勝彦の面倒を見るから」


北斗もまた覚悟を決めていたのだ。

結果論として、健介が日本に残ったのは正解だった。

この年、プロレス大賞のMVPを獲得したことが

その象徴的な結果だったと思うのだ。


当時、健介&北斗とともに悩み、とことん考えて

無我夢中で有終の美を迎えることができたこと。

今でもミラクルだと思うし、私にとって最高に思い出深い出来事だった。


健介オフィス、健介ファミリーの土台作りをする上で、

一緒にもがき苦しんだことは私の財産であり、

それがあるから健介、北斗、勝彦との関係は永遠だと思っている。


2・11後楽園ホール。

佐々木健介の引退試合。

予感があったからこそ、北斗は直接、

私にテレビ解説のオファーをしてくれたのだと思う。


佐々木健介の引退試合。

その解説を全うできたこと、

本当に感無量である。


健介、28年間、ありがとう!

健介はいつも闘ってきた。

真っ直ぐに闘ってきたからこそ、

このパーティーには多くの人たちが集まった。





                                         

新日本勢は、台湾遠征のため参加できなかったが、

ノアから丸藤、森嶋、杉浦ら多くの選手、全日本から秋山ら数選手、

W-1からカズ・ハヤシ、DDTから高木大社長、男色ディーノ、

ZERO1から大谷、田中ら所縁の選手たち、

みちプロのグレート・サスケ、

フリーの超大物として高山善廣、藤田和之、引退した小橋建太、

さらにアントニオ猪木、マサ斎藤、馳浩、新倉史裕、貴闘力。


                  

                  

                    

                  


芸能界からは竹内力、ナンちゃん(南原清隆)、榊原郁恵、

はるな愛、小林幸子、長州子力など。




ちなみに、恩師である長州力にも招待状を送ったという。
ただ、長州という人物はパーティーどころか、

結婚披露宴にも滅多に出席しない人だけに、

ここに来ないのはむしろ自然のような気もする。


健介と長州は、どこかプライベートで会えば

分かり合えると私は思っているのだ。


最後には、中嶋勝彦が考えた粋な演出。

レーザー光線によりリングの3本ロープの空間を作り上げ、

引退の10カウントゴング。


さすがに、笑顔を貫いていた健介も涙に暮れていた。




この写真で、3本ロープ代わりのレーザー光線が

辛うじて見えるだろうか?


健介が感涙したのは、最後の10カウントゴングと

大好きな曲である『川の流れのように』を

小林幸子さんが熱唱したときだけ。

もちろん、北斗もそのときばかりは号泣状態だった。



                   



パーティー終了後、見送りの記念撮影。

もちろん、超危暴軍のモリシは酔っ払い状態。

敵・味方も、先輩・後輩も区別がつかずに記念写真に収まり、

はしゃいだり、つぶれたりを繰り返していたのだ(笑)。


私も健介ファミリーと記念撮影。

かつて、たしかにオイラも健介オフィスが軌道に乗るまで

健介ファミリーの一員だったと思うから、

これはOKだろう(笑)。



パーティー終了後の会場風景。

なんとなくツワモノどもの夢のあとという空気も…。

健介、チャコちゃん、勝っちゃん、

これからもよろしく…そして、お互いがんばろうな!