【※3月12日にこの原稿を書いたのですが、なぜか下書き保存ができない状態のままでした。

またイチから書き直してみても、コピーして貼り付けを行なってみても保存できません。

そのためコピーしておいたものをプリントアウトして再確認しつつ、

もう一度最初から書きはじめ、今ようやくアップできました。

今でも原因がよく分かりません。なにか不思議な気分です。

では、最初に書いた原文のままで――】


3年目の3月11日がやってきた。

テレビのニュース番組、報道特集、新聞を見ても、

東日本大震災の傷はまったく癒えていないことが分かる。


私もこの3年で、宮城県、福島県へ仕事で趣き、

何名かの被災者の方と知り合いになった。


こちらから掛ける言葉など見つからない。

ただただ、その時の状況や現在の境遇に関して

耳を傾け、「ハイ、ハイ」と頷くことしかできない。

だけど、私の知る限り、立ち止まっている人はいなかった。


みなさん、前を向いて、なんとか未来を信じ、家族を信頼して、

少しずつでも前進しようとしていた。


あれから3年も経つのに鮮明に残る震災の記憶。

いや、3年もではなく、まだ3年しか経過していない

というのが事実そのものなのだろう。


問題は山積みなのだ。

「2020東京五輪開催」に浮かれているよりも、

それ以前にやらなきゃいけないことが

この国にはいっぱいある。


この3・11を迎える前に、業界的にも残念なニュースが相次いだ。

実際にアメブロの不調もあったのだが、

なかなかブログを更新する気になれなかったのも、

じつはそこにイチバンの原因があるのかもしれない。


何かがつかえている、引っ掛かったままでいる。

避けて通っていいのだろうか?

悶々としていた。


悶々としながら、ようやくその気になった。

何も書かないより、書いておくべきだと思った。

書いておかないと、なにか自分も前へ進めないような気がした。


先月の2月15日、ノアの仲田龍さん(享年51)が

心筋梗塞により急逝した。


ノアから正式な発表があったのは、

18日の夕刻だった。

ただ、私の場合、前日夜にその事実を知った。


出版社の知人から連絡を受け、

事の真偽を確認するために、

新聞社の知り合いにあたってみた。

そこで、「間違いないようです」との回答をもらった。


無論、ノアから正式な発表がある前に、

そういった話を公にしたり口外するわけにはいかない。

暗い気分の中で唯一思ったのは、突然知らされるより、

心の準備ができていた分だけまだよかったということ。


あまりに突然すぎたし、龍さんはまだ若い。

私のほうが1歳年長となるが、

私は12月生まれで、龍さんは翌年3月の早生まれだから、

学年は一緒。同学年である。


だけど、龍さんは高校生のころから

全日本プロレスのリングスタッフのアルバイトをしていたし、

リングアナデビューは1980年4月。


一方、大学卒業後、2年間のフリーター生活を経て、

私がこの業界に入ったのは1986年5月のこと。


つまり、同学年でありながら、

龍さんのほうが6年も先輩。

6年も違えば、大先輩にあたる。


龍さんは長い業界キャリアを通して、

全日本時代には”馬場さん命”で

仕事に邁進していたし、

ノアが旗揚げされてからは“三沢一筋”の

心意気でノアを牽引してきた。


一方の私は1991年から『週刊ゴング』の

新日本プロレス担当記者となり、

しだいに全日本の現場から遠ざかっていった。


UWFは別として、2大メジャーと呼ばれていた時代。

新日本担当記者は全日本のフロント陣から嫌われる。

ましてや私の場合、遊軍記者時代に馬場元子さん直々に

”全日本担当”を打診されながらそれをお断りした過去がある。


それでもごくたまに全日本の日本武道館大会に顔を出すと、

昔と変わらぬ笑顔で迎え入れ話し掛けてくれるのが、

三沢光晴(故人)と小橋建太(引退)の2人だった。


99年1月、私がゴングの編集長に就任したことにより、

ゴングの新日本カラ―はますます濃くなっていった。

新日本中心の誌面作りをしたときに本が売れる――

実際に数字として顕著に表れていたのだから、

私の立場からすれば当然の編集方針でもあった。


2000年、全日本が分裂し、ノアが誕生した。

それ以降、龍さんと私の関係は業界内で

”犬猿の仲”と称されるようになる。


全日本時代、そういうことはいっさいなかった。

対マスコミに関しては、元子さんがすべて仕切っていたからだ。

ノアでは龍さんがすべてを仕切るようになった。


私のゴング編集長時代、プロデューサー時代、フリ―になってから、

また、『Gリング』プロデューサーを務めていた時期と、

約10年間で龍さんとは何度か衝突している。


いつも突然、龍さんから連絡が入る。

編集部か、私の携帯電話に連絡してきて、

激しい勢いでクレームをつけてくるというパターンが多かった。


例えばその内容が龍さんの勘違いであったり、

周囲から吹き込まれた誤報であった場合などは、

事実関係をじっくり話せば龍さんも理解してくれる。


明らかにゴング(会社)側に非がある場合もあった。

そういうときには私が代表として謝罪したこともある。


ところが、事が記事の内容であったり、

私の発言であったりした場合は、

いくら話しても堂々巡りとなってしまう。


龍さんもカッとなって我慢できないから電話してきたのだろうし、

私もあらぬことでクレームをつけられると、しだいに熱くなってしまう。

もう話し合いどころか、口論へと変わっていく。

声も大きくなるし、口調もきつくなる。


こうなるとお互いに退かないし、絶対に退けない。


「あなたとは根本的に考え方が違いすぎるから、話し合いにならない。

もういい、いくら話しても無駄だと分かりましたよ!」


「龍さん、いまの言葉はそのままあなたにお返しします!」


こういうやりとりを大声で編集部でやっていると、

周囲は固まってしまう(苦笑)。

そのくせ、みんなしっかり聞き耳を立てている。

だから、この手のネタはあっという間に、

社内どころか業界中に広まっていく。


実際思い返してみると、そういう感じで龍さんと

口論になったのは3回程度だったと記憶している。

だけど、そこにオヒレハヒレが付いて話が広がるから、

龍さんと私はいつも喧嘩している”犬猿の関係”とされてしまう。


ただし、たとえ電話で口論をした直後であっても、

会場で顔を合わせたりすれ違ったりすれば、

必ず私のほうから挨拶をしていた。


きれいごとではなく、向こうが先輩なのだから当然のこと。

そこで無視したり避けたりすれば、

本当に子どもの喧嘩レベルとなってしまう。


「龍さん、どうもおつかれさまです」


「はい、どうもおつかれさまです」


私たちが接近遭遇すると周りが勝手に緊張し、

興味津々の顔つきで見守っていた。

そこで何事もなかったかのように挨拶を交わす。

龍さんもきちんと返してくれる。

べつに、これはこれでいいと思っていた。


龍さんだって、何も好きこのんでクレームをつけるわけではないだろう。

根底には、ノアのため、三沢社長の面子を守るためなど、

龍さんなりの確固たる理由と信念があるのだろう。


根本的に考え方が違うから話し合いにならない――

これもまた団体ーマスコミ間の永遠のテーマとなるもの。

それに龍さんは、私に対して決定的な4文字を

突き付けてくることだけはなかった。


「取材拒否」


団体サイドの切札でもある。

その言葉を出さなかったところに、

多少なりとも龍さんの気遣いを感じた。


これは初めて書く話なのだが、6年ほど前のこと。

TBSの宣伝部に所属するYさんから電話をもらった。

Yさんとは15年来の友人でもある。


「TBSの連続ドラマ(日曜劇場)に、

ぜひ三沢さんにゲスト出演してもらえないかと思いまして。

プロデューサーが三沢さんの大ファンなんですよ。

だけど私はノアさんとまったく接点がないもので、

金沢さんに間に入ってもらえないかなあって」


よりによってノアかあ…一瞬そう思った。

というのも、直接やり合ったわけではないのだが、

1ヵ月ほど前に”ちょっとした事件”があって、

龍さんと私の関係は過去最悪になりかねない状況にあった。


ただし、Yさんの頼みごとを断るのは嫌だった。

それを断る理由を説明するのはもっと嫌だった。

まあ、もともとの自分の性格もある。

熱しやすく冷めやすい。


感情は引きづらないほうだし、

過去にもあまりこだわらない。

子どものころからそうだった。

昨日友達と喧嘩しても、翌日には仲直りできた。


三沢社長への出演オファーとなれば、

やはり窓口は龍さんになるのだろう。


私からの電話に龍さんも最初は構えた様子だった。

だから、「これはプロレスの仕事の話ではないので…」と振ってから、

できるだけ簡潔にドラマへのゲスト出演の要件を説明してみた。

龍さんの口調から硬さが消えて、むしろ熱を帯びてきた。


「日曜劇場といったら、TBSの看板ドラマじゃないですか?

そんないい話、ウチは大歓迎ですよ」


「龍さん、ここだけの話…ゲスト出演なので拘束時間の割に

ギャラはあんまりよくないと思うんですけど、それでも大丈夫ですか?

TBSさんとの窓口は龍さんでいいんでしょうか?」


「いやあ、ギャラの問題じゃないですよ。

そうやって三沢社長にぜひと声を掛けてもらえることがありがたい。

いつでも私の携帯に連絡くださいと、担当のかたに伝えてください。

金沢さん、いい話ありがとうございます」


へぇー、こんな龍さんもいるんだなあ。

そういう驚きもあったし、やはりこの人は

ノア優先、三沢一筋で仕事しているんだなと感じた。



もちろん、それ以降も会場で会えば挨拶を交わしてきたが、

電話ながら、じっくり会話したのはこれが最後だったと思う。


ここ最近、いろいろと一般誌に書かれていたことが問題視され、

龍さんは会社の主流から外れていた。

私にとって、そんなことは関係ないしどうでもいいと言ったら、

無責任な言葉と解釈されるかもしれない。


だけど、それが正直な気持ちだった。

たとえ役員であろうとなかろうと、

私がこの仕事に就いた28年前、すでに仲田龍という人物は

名物リングアナとして活躍していたわけで、

同学年ながら大先輩であることに変わりはない。


業界の先輩たちが徐々に現場から退いていく中で、

しっかりと存在感を示している人だった。

私が本気になって口論した唯一の人物でもある。


2月22日、ディファ有明。

龍さんの遺影に挨拶するために会場へ出向いた。

最初は献花のための花を買っていこうと思ったけれど、

やっぱりやめておいた。


私が献花などしたら、きっと龍さんは気持ち悪がるだろう。

なぜなら、献花ではなく喧嘩してきた仲なのだから。


龍さん、51歳で逝くのはちょっと早すぎるけど、安らかに。

向こうで三沢さんに会ったらよろしく伝えてください。


あと、龍さんの息子さんは最近、

新日本のリングスタッフになったそうですね。


僕はまだ面識がないんだけれど、

周囲の評判はとてもいいですよ。


「仲田クンは一生懸命でとてもいい子だ」って、

みんなそう言ってますよ。


さようなら、龍さん。