プロレスの聖地と称され、マニアファンが集結する後楽園ホール。

何年かに1人、このホールで異常人気を集める男が現れる。


それを最近の新日本プロレスにあてはめるなら、

まず矢野通がそうだった。

矢野が絶対的支持を集めたキッカケが棚橋弘至戦にある。


なぜか、典型的ベビーフェイスの棚橋が大ブーイングを浴び、

本来ブーイングを待っている側の矢野が

なにをやっても拍手・喝采を浴びるという逆転現象。


「うるせー!バカ野郎!!」


そうファンに向かって悪態をつきたいのに、

棚橋応援団の声がまったく聞こえてこないものだから、

困った矢野はホールをぐるりと見回してみる。


ようやくタナの応援ボードを掲げた女性3人組を発見すると、

そちらを指さして「うるせー!バカ野郎!!」と怒鳴る。

しかし、観客の大多数はまたも”矢野コ―ル”の大合唱。


もう、完全に開き直った矢野はRVD(ロブ・ヴァンダム)からぱくった

例の「ヤノ・ト―・ル―!」を披露。

それに合わせて観客も大合唱する。


だれがイチバンおもしろい試合を見せてくれるのか?

その時代、その時期で、ホールの観客は敏感に空気を読んでしまうのだ。

矢野の試合はたしかにおもしろくて、意外性に富んでいた。


矢野に続いて、ホール男になりかけたのが本間朋晃だった。

新日本マットに上がりたてのころは、今のタイチ以上に

「帰れ!」コールをさんざんに浴びた。

ところが、真壁刀義がGBHを追放され、

他のメンバーがCHAOSを結成。


ここで、唯一、真壁と行動を共にして、

2人だけのGBHを守ろうとした本間にファンは共感した。


その集大成として(?)、

本間コール一色の異常な試合となったのは、

一昨年12月のメインに組まれた田中将斗vs本間の

IWGPインターコンチネンタル選手権。


新日本としては賭けにも似た苦肉のマッチメイクであったのに、

会場は超満員、そして大爆発した。


試合後、本間には冗談で、

「なんか引退試合みたいだったね?

これだけ声援を浴びたらもう思い残すことはないでしょ!?」

と思わず話し掛けてしまったほど。


「もう勘弁してくださいよ!

まだオレを引退させないでくださいよー」


そう言って抗議する本間だったが、

本当に満足そうだった。

ところが、年明け早々、本間は退団を余儀なくされた。

せっかくのチャンス、大ブレークのチャンスを自らフイにしてしまったのだ。

とにかく残念!


それでも、本間は今も逞しくマット界で生き残っているから、

あのときの経験を無駄にすることなく、生かしてほしいと願うばかり。


さあ、ここまでが前置きだ。

新・後楽園ホール男。

もう解説不要だろう。


石井智宏である。


身長170㎝、体重100kg。

背丈はジュニアに混じっても小さい部類に入るものの、

トレーニングで体をパンパンに膨らませて、

ウェートは堂々たるヘビー級。


現マット界では、ヘビー級で闘いながらも、

100kg未満のレスラーが数多い。


今のマット界の流れが、そちらへ向いているからだ。

絞りに絞って筋肉の浮き出たバキバキボディと、

試合もスピードとキレを重視する傾向にあるから

自然とヘビー級の選手もウェートダウンしていく傾向にあるのだ。


そのなかで、石井だけは真逆を行く。

以前はジュニアのフィールドで闘っていた時期もあるが、

もともとヘビーへのこだわりが強い。

というより、無差別級志向といったほうがいいのかもしれない。


かといって、石井は突然ブレークしたわけではない。

他の会場でもそうだが、とくに後楽園ホールでは

特定の選手と何度か肌を合わせ、そのたびに

凄まじい内容の勝負を見せつけてきた。


「格の違う名勝負数え唄」こと永田裕志とのシバキ合いに始まり、

タイガ―マスク戦、井上亘戦、後藤洋央紀戦、真壁刀義戦…

そして記憶に新しい田中将斗戦とすべて名勝負数え唄の域まで高めてきた。


決定的だったのは、2・3後楽園ホールのメインイベント。

田中vs石井のNEVER無差別級選手権であるが、

そこにつながる伏線ともいうべき試合が数試合あった。


昨年から遡ってみると、

石井の実力が再認識されたのが12・2名古屋大会。

中邑真輔&石井vs桜庭和志&柴田勝頼戦だった。


これは、1・4東京ドームの中邑vs桜庭一騎打ちの前哨戦

として組まれたものだが、予想通りというか予想以上に石井が見せた。


桜庭を相手に前へ前へと出て、絶対退こうとしない

観客がもっとも沸いたのは、

桜庭のスリーパーにグッと顎を引き堪えた石井が

前方へ桜庭を投げ捨てた瞬間だった。


最後は、サクラバロックにタップしたものの、

名古屋大会の主役をかっさらったのは石井。


じつは、このシーンをテレビ朝日『ワールドプロレスリング』の

放送席で解説しながら観ていた私は「あっ!」と思った。


「これ、オレも食らったことがある!」


その言葉が喉まで出かかったのだが、

あまりに説明が長くなるし、

素人が食ったといったところで興醒めしてしまう。


だけど、あのときのことは鮮烈に印象に残っているのだ。

私の記憶では2004年の1月だったように思う。


1・4東京ドーム大会を終えた永田裕志と、

いつもの飲み会のメンバーで新年会を開いた。

そこへ、WJ所属の石井も呼んだ。


周知のとおり、WJは興行不振から次々と主力選手が離脱し、

団体存亡の危機に瀕していた。

石井を励ましてやろう!

私の提案に永田も同調してくれた。


遡ると、1998年にWARが全選手の解雇を発表し、

団体ではなく興行会社へと移行してからも、

石井は天龍源一郎の付人を務め続けていた。


その当時、天龍は再び新日本のリングに照準を絞った。

一匹狼から越中詩郎率いる平成維震軍と合体。

維震”天越”同盟として、越中とのタッグでIWGPタッグ王座にも就いている。


石井は付人として、新日本の巡業に同行した。

試合は組んでもらえなかったものの、

新日本の合同練習などに参加することは天龍が許可してくれた。


練習好きの石井にとっては、最高の環境。

試合前の合同練習、個人練習は充実していた。

同年代の大谷晋二郎、高岩竜一とはすぐに親しくなったし、

ケンドー・カシンはたびたび石井をスパーリング・パートナーに指名してくれた。


元レスリング全日本王者で学生選手権3連覇の実績を誇る

石澤常光(カシン)はムチャクチャ強かった。

かつて経験したことのない強い男とのスパーリング。

楽しくてたまらなかった。


もちろん、同年に海外遠征から凱旋した永田とも面識ができた。

充実した日々。

だが、同時に向上心は止めようもない。


試合がしたい!

石井は覚悟を決めて、フリ―になることを天龍に告げた。

天龍は、黙って頷いてくれた。


そこからイバラの道が待っていた。

名もない、実績もないフリ―のジュニア戦士。

石井は、当時、どインディーと呼ばれたリングにいくつか上がった。


そこでも、天龍の教えと、新日本で練習した自分を貫いた。

ゴングと同時に全力でロックアップする。

これは大ファンだった長州流を勝手に踏襲したもの。


あるとき、インディーの先輩選手から忠告を受けたこともある。


「石井クン、インディーではそういうのは必要ないんだよ」


何かが違う。

でも、食っていかなければいけない。

気が付くと、みちのくプロレスに定着していた。

伝説のヒールユニット、FEC(ファー・イースト・コネクション)の

主力メンバーとして、自分の居場所を見つけたのだ。


ディック東郷がいて、日高郁人がいて、外道がいた。

プロレス職人たちの集合体に合流できたことが財産となった。


ようやく自分の居場所を見つけた石井に、

またも運命の転機が訪れる。

2002年9月のこと。


同年5月末日を持って新日本プロレスを退団した長州力が、

9月にサイパンでキャンプを張ることになった。

長州にはまだまだやり残したことがあった。


団体などはまったく考えてはいない段階だった。

リングに上がるなら、小規模なプロモーション組織でいいと思ったし、

そのへんの動きはすべて永島勝司氏に任せていた。


当時、『週刊ゴング』編集長だった私が、

永島氏からの電話を受けたのは8月下旬だった。


「金沢に頼みがあるんだよ!

来月半ばから長州がそろそろ動きだす。

動き出すといっても、なにか決まっているわけじゃくて、

原点のサイパンでトレーニングを始めるから。

そこで、運転手兼練習パートナーが欲しいんだよ。

金沢のツテで、いい選手がいたら紹介してもらえないかな?

もちろん、ギャラはちゃんと払うから」


いやあ、これは厄介な頼みごとだなあと思った。

対象はフリ―に絞られるし、ましてや長州との

マンツーマンに耐えられる人間でなくてはならない。


「分かりました! 出来る限り探してみますよ」

と答えたものの、その意に沿える選手など難しいというのが本音。


まさに、苦肉の策だった。

ゴングのプロレス名鑑を持ちだして、

たまたま編集部に来ていた小佐野景浩企画室長に手伝ってもらい、

2人で名鑑のページをめくりながら選手を品定めしていた。


「あっ、いた!」


本当に偶然にも、私と小佐野さんは、

同時に1人の男の顔写真を指さしていた。

石井智宏だった。


ただし、フリ―とはいえ石井はFECの主力メンバーであり、

みちプロはシリーズがスタートすると巡業が2週間以上も続く。

2人でみちプロの日程を調べてみると、

これも偶然に9月半ばから末までスケジュールはオフだった。


当時、石井のことは知っていたが、電話番号は知らなかったので、

まず小佐野さんに電話してもらい、要件を伝えてもらった。

それから、改めて私が石井に電話をして、

その趣旨を伝えてみた。


「分かりました! やらせてもらいます」


意外なほどの即答だった。

石井は、少年時代、天龍vs長州戦をテレビで観て、

プロレスラーになることを決意した男。


天龍源一郎には充分に可愛がってもらった。

今度は、長州力に触れてみたい――。


ストレートで貪欲で、怖いもの知らずの男。

格闘技のバックボーンもなければ、体も小さいから、

雑用係としてWARに拾ってもらった男。

なにも持たざる者だから、失うものもない男だから、

石井智宏は強かった。


永島氏から連絡を受けた長州は、

「ああ、源ちゃんに付いていた子だな? 

なんとなく覚えているよ」

と返答したという。


サイパンに飛ぶ前日、石井は長州の自宅に泊まらせてもらった。


「智宏、オマエ練習は好きか?」


「ハイ、練習は大好きです!」


この一言がすべてを決めた。

会ったその日から、石井は「トモヒロ」と下の名前で呼ばれた。

練習好きなのも分かってもらえた。


9月17日朝、2人はサイパンへ飛んだ。

3週間の長期合宿。

私は大川昇カメラマンとともに同日の午後の便でサイパンに向かい、

4日間、長州を密着取材した。


練習時の長州はいつにも増してピリピリしていた。

一方で、練習を終えると、笑顔が絶えなかった。


「金沢、本当にさ、ゴングはとんでもない男を紹介してくれたよな?

智宏はペーパードライバーだって言うんだから(笑)」


これは、本当だった。

私が電話で問いかけた際に、

「運転はできます!」と言いきった石井。


だが、実際はペーパードライバーだったために、

友人の車を借りて、それから運転の練習を始めたという。

ましてや、サイパンは左ハンドルの右側通行だし、

交差点での信号、標識もじつに分かりづらく、

日本人観光客の事故が多い場所として知られている。


石井の危なっかしい運転でジムに到着するたびに、

「いやあ、生きた心地がしないな」と苦笑する長州。


車で出発するときには、もう長州にひとつの口癖ができていた。


「よーし、慎重に行くぞー!」


いろいろ、ありながらも素直で真っ直ぐな石井を、

長州は本当に気にいったようだった。

この合宿中に石井は自分で自分の道を決めた。


「長州さんの弟子にしてください!」


そう直訴したのである。

ちなみに、このときの私のロングインタビューの中で、

長州の口から初めて、

「オレは業界の”ど真ん中”を行ってやる!」

という名セリフが飛びだしている。


石井の運命を変えたサイパン合宿。

結果的に、2人を結びつけたのは私だった。

ただし、そのことに関して、石井に貸しもなければ、

感謝しろ!などという気も毛頭ない。


なぜなら、石井智宏だから、その偶然の機会を

自分のものとして、道を切り拓いていくことができたのだ。

これは偶然でありながら、必然だったと思っている。


ただし、長州に対しては、この件に関してだけは胸を張りたい。

最近、長州とはすっかり疎遠になっているが、

ゴング時代、私が長州にビジネス面でお世話になったことは間違いない。


長州番と呼ばれたこと、なぜか長州が私の取材しか受けなかったこと、

ゴングといえば長州力――そこまでのイメージが出来上がり、

長州インタビューが掲載された本は確実に売れたこと。


やはり、振り返ってみれば感謝の気持ちしかない。

その中で唯一、長州に向かって胸を張れるのが、

長州に石井を紹介したこと。

その石井が、結果的に長州イズムを受け継ぐ

最後の男に成長したことなのだ。


とてつもなく、長い石井ストーリーになってきた。

話を永田との新年会に戻してみたい。

一件目は渋谷センター街の仲本工事さんの店『名なし』で、

二次会は当時行きつけだった駒沢通りのスナックに行った。


そこで、仕事の話となった。

私から永田に振った格好である。


「このままWJがダメになってしまったら、

トモをぜひ新日本で使ってやってほしいんだよ」


「オレにはなんにもそういう政治的な力はないですけど、

石井君の実力はよく知っているつもりです。

そういうときが来れば、推薦させてもらいますから。

石井君ならウチのジュニアで充分やれる力がある!」


「いや、そうじゃない!

こいつはヘビー級だよ、

ヘビー級でこそ持ち味が出るんだから」


「金沢さん、お言葉ですけどね、

ウチのヘビー級を舐めてもらっちゃ困るよ。

そんな生やさしいもんじゃないから。

ウチのヘビー級は最低ラインでいくと真壁ぐらいやれないと!」


「石井は、真壁より上だよ!

こいつは絶対にやれるから」


酔っていたこともあるが、

永田と私の主張がぶつかり合った。


ここで、ダシに使われた真壁には今となっては大変申し訳ない。

ただ、当時の真壁の立場はいくら頑張っていても

泣かず飛ばずだったことも事実なのだ。


それにしても、勝手に自分の行く末を論じられたら、

それこそたまったものではない。

黙って飲んでいた石井が、突然店から飛び出して行った。


そのあとを、慌てて私が追った。

石井は店の前でうずくまっていた。

外はもう白々としていて夜が明け始めていた。


「どうしたの? 大丈夫か?」


私が石井の顔をのぞき込むと、彼は泣いていた。

やがて、それは号泣に変わった。


「オレは長州さんについていく、

長州さんについていくんだ!

何があってもずっと長州さんについていくんです!」


「気持ちはわかるよ。

気持ちはわかるけど現実を見なきゃダメだろ?

WJが潰れたら、キミは1人でも生きていかなきゃいけない。

長州さんが一生面倒を見てくれるわけじゃない!

もうトモは1人でやっていけるんだから」


それでも、「オレは長州さんについて行く!」の

一点張り。


「なんで、わからないんだ!?」


そう言って、こともあろうに私は石井の背後からスリーパーホールドを決めた。

思い切り絞め上げた。

じつは、スリーパーという技は腕が細い方が入ってしまう。

酔っていたから加減も何も分からない。

完全なチョークスリーパーになっていたようだった。


悶絶しながら立ち上がった石井は、

そのまま前傾姿勢になって私を前に放り投げた。

私は成すすべもなく、アスファルトの上で受身をとる破目になった。


「イッテェ―なあ!

テメー、よくも素人をアスファルトに投げやがったな!!」


「いや、だってもろにチョーク入ってたんですよ!

オレ、ほんとに死ぬかと思ったもん」


なぜか、そこで酔いも感情も覚めて、

路上に2人で座りこんで笑いだした。


そして、何事もなかったかのように店に戻って、

また、みんなで飲み始めた。


桜庭を必死に投げた石井のアクション。

瞬時に甦った記憶。

アスファルトに叩きつけらたときの痛み。


これには後日談がある。

2005年から長州が新日本の現場監督として一時復帰した。

石井も新日本マットに上がるようになった。

石井のなかでは、毎日が闘いだった。

長州の弟子だから、使ってもらっていると思われたくなかったのだ。


当時、永田もまたテーマのない闘いをリング上で強いられていた。

連日、同期のライバルである中西とのタッグ対決などを組まれていたが、

そこにテーマを見出すことができなかったのだ。


ある日、永田と石井のシングルマッチが青森の某会場で組まれた。

私はそのことさえ知らなかった。

当日深夜に永田からもらったメールで、それを知った。


「今日、石井君と初めてシングルマッチをやりました。

最高に気分のいい試合ができました。

ここ最近、テーマのなかった自分だけど、

青森の片田舎で石井君と試合をして、

今は晴れ晴れとした気持ちです。

あのとき金沢さんが駒沢で言ったセリフ、

本当だったかもしれないなあと実感しています」


これには驚いた。

永田もちゃんと覚えていたのだ。

もっと驚いたのが、それから1時間ほどして、

今度は石井からメールが届いたのだ。


「今日、初めて永田さんとシングルをやらせてもらいました。

最高に気持ちのいい試合ができました。

永田さんは、オレのすべてを受け止めてくれました。

プロレスラーになって、こんな気分になるのは初めてかもしません」


無論、2人が示し合わせているわけもない。

あの駒沢での口論から2年以上が経って、

2人はお互いを認め合ったのだ。


それ以降、両者の対戦は必ず白熱した。

だから私は「格の違う名勝負数え唄」と呼んだ。

石井は、そういう記述を目にするたびに、

「”格の違う”を早く取ってくださいよ!」と笑いながら抗議してきた。


桜庭&柴田との対戦を経て、

12・23後楽園ホールでは真壁との一騎打ち。

やはり凄まじい試合となって両者とも株を上げた。

あの当時の、我々の勝手な比較論からいけば、

真壁の成り上がりぶりもまた驚異の出来事なのである。


そして、石井智宏の存在感を決定付けたのが、

2・3後楽園ホール大会でのNEVER無差別級選手権。

田中vs石井のCHAOS同門対決だった。


23分27秒のシバキ合い。

田中のエルボーを食って、

ボクシングのKOシーンのように前のめりに崩れ落ちる石井。


起き上がれない石井を無理やり引きずり起こしてから、

必殺のスライディングDを放つ田中。

単純な攻防に見えて、すべてが理にかない、

観客を釘づけにした。


後半、石井は右腕のサポーターを外して、

田中にも「外せ!」と言い放った。

生の肘で殴り合おうという意思表示。


ここで大切なのは、根本的に石井が装着しているサポーターと

田中が右肘に装着しているエルボーパット(ガード)では意味が違うということ。


石井は昨年末に右肘を負傷した。

筋肉を痛め神経に痺れが出て、普段は90度以上に肘を曲げられない。

初めてサポーターを装着したのが、1・4東京ドームから。

本来、長州の教え通り、一切のサポーター類をつけなかった男だが、

今回ばかりは重傷だった。


だから、1・4以降、試合後には必ず右肘をアイシングしている。

無論、そのことを本人は一度も口にしたことがない。


一方、田中のパットは相手を守るための意味合いが大きい。

田中のスライディングDはあまりに強烈だから、

たびたび相手の記憶を飛ばしてしまうのだ。


対戦相手に致命傷を与えないこと、

同時に自分の肘をカバーすること、

言ってみればUWF流のレガースの役割を果たしている。


その意味合いがわかっていれば、

このサポーターを外して生肘で打ち合うという行為の

危険さがより理解できると思う。


そういえば、後日、田中も言っていた。


「やっぱり、あの試合はオレと石井ちゃんにしか

できへんかったと思うんですよ。

選手によっては、すぐ(記憶が)飛んでしまう者もいるんですけど、

オレとか石井ちゃんは滅多なことでは飛ばへんのです。

だから、自分も相手も信じてやった結果が、あの試合になった」


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この田中vs石井戦。

私の中では、1・4の中邑vs桜庭に続くベストバウト。

それに、私の言葉などよりも、もっともっと重い感想をくれた男もいる。


藤田和之だ。


昨年末の大晦日決戦(vs小川直也)から、

その方向性がなかなか定まらなかった藤田。

その藤田が、もう一度仕切り直しで

IGFのリング(2・23東京ドームシティホール)に舞い戻った裏には、

この試合に大いに思うところがあったからかもしれない。


大晦日以降、藤田とはメール交換したり、

たまに電話で話したりもしていた。

ただし、仕事の話にはほとんど触れなかった。

すべてを決めるのは藤田自身なのだから、

私はよけいなことを言いたくなかったのだ。


ただ、この田中vs石井戦だけは、藤田に観てもらいたかった。

だから、2月9日夜に藤田にメールを打った。


「今晩の『ワールドプロレスリング』で放送する田中vs石井戦はおもしろいよ!

20分超えの試合を10分ぐらいに編集してあるけど、

それでも観る価値はあると思う」


放送時間帯が遅いので、

留守録しておいて翌日観るという返信があった。


翌10日の午後、藤田からメールが届いていた。


「さすがですね!

やってる選手たちの充実感が伝わってきました。

もし長州さんが観ていたら、何度も大きく頷くでしょうね。

自分も素直に夢中になって、何度も頷いてしまいました」


その後、別件で藤田と電話で話したのだが、

まさにベタ褒めだった。

藤田は、田中のプロフィール、

石井のプロフィールなどにも興味を示して聞いてきた。


そういえば、藤田は1996年11月1日デビュー、

石井は同年11月2日デビューと1日違い。

改めて、同期であることにも驚かされた。


もちろん、藤田はプロ入り前から将来を嘱望された

大物ルーキーであり、石井は雑用係での採用。

その経歴からなにから、まったく違う。


新日本プロレスに入門してから退団するまでの3年半、

藤田にプロレスを指導してきたのは、

長州であり、橋本真也であり、永田であり、カシン。

さらに、アントニオ猪木。


そのすべてを踏まえて、藤田はこの試合を絶賛していた。


「ひさしぶりにプロレスを観ていて釘付けになりましたね。

何度も頷かされました。

お客さんの目も生き生きして輝いている。

最後、田中選手がマイクで言ったじゃないですか?

『これがオレと石井ちゃんの…』って。

すぐに『オレと石井の…』って言い直したけど、

あそこにもう素の感情が出ていますよね。

最高の充実感に包まれているって。

石井選手が『デビューしてからこれだけは言わないでおこうと思ったけど、

キツイ…』って言ったのも素の感情でしょ?

もう、白旗ですよね(笑)。

いいプロレスを見せてもらったし、勉強になったし、

金沢さんが観てみたら?と言ってくれた意味がよく分かりましたよ!」


自分にはこういう試合はできないかもしれないが、

こういう心意気の試合をやってみたい。

私には、そう聞こえてきた。


こういう心意気の試合をIGFで自分が実践してみたい。

そういう思いも少なからず抱いての、2・23復活劇だったのではないか?

それが勝手ながら、私流の解釈だ。


これにて、新・後楽園ホール男の座を完全にゲットした石井は、

3・11後楽園ホールで『NEW JAPAN CUP2013』(以下、NJC)に臨んだ。


それにしても、今の新日本プロレスはどうかしている(苦笑)。

1週間前の3日、後楽園ホールを超満員札止めにしたばかりで、

12日後の23日にも後楽園ホールで最終戦(優勝戦)を控えている。


まして、前日10日の日曜日は全日本プロレスが後楽園ホールで、

ノアが横浜文化体育館でそれぞれ興行を開催している。


11日は平日の月曜日。

それにも関わらず超満員(1950人)の観衆でホールは埋まった。


石井は第1試合の公式戦に登場。

相手は小島聡。

過去、シングルマッチで2度対戦して2連敗。

実績、キャリアとも両者には明らかに差がある。


それでいながら、会場は最初から出来上がっていた。

観客からすればメインイベント同様の期待感を抱いているし、

マスコミからみると、間違いなくこの一戦がメインとなる。


ラリアット合戦、エルボー合戦が果てしなく続く中、

ついに石井が打ち勝った。

ノ―モーションの顔面頭突きを打ちこんでから延髄斬り、

さらに垂直落下式ブレーンバスターでトドメ。

ついに、小島の壁を超えた。


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「次、あえて言うよ。

後藤、上がってこい!

そこから始まりだ」


名指しされた後藤は、第2試合でタマ・トンガを破って、

自身のレコードを塗り替えるⅤ4に向けて走り出した。


「次、石井か、おもしろいな。

あいつとは何度やってもおもしろいと思ってるよ。

IMPを超える試合やってやる!」


後藤の言うIMPとは、昨年5月20日、大阪・松下IMPホールで行なわれた

IWGPインターコンチネンタル選手権のこと。

これも凄まじい試合となったが、後藤が石井を仕留めている。


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私的観点からいくと、後藤vs石井の攻防は、

田中vs石井に匹敵するほどガッチリと噛み合う。

だから、紙一重だし、最後にどちらに風が吹くか、となるだろう。


いま、風は石井に吹いているように思えてならない。

しかも、石井が自力で吹かせた風はヤワな風ではない。

これは、あるかもしれない、起こり得るかもしない。


もし小島、後藤を連破すれば、

それだけでもIWGPヘビー級王座への挑戦者に相応しい実績だろう。


真壁は雑草と言われ、そこから伸し上がってきた男。

だが、石井の場合、雑草までもいかない。

雑草よりも苛烈な環境に育った男である。


コンクリートでガチガチに固められたアスファルトの隙間から

芽を吹いて、そこから強引に伸び上がってきたタンポポ。

石井智宏とは、そんな男である。


本日(17日)、尼崎大会の第5試合。

NJC公式戦2回戦、

後藤洋央紀vs石井智宏。


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智宏、お前の生きざまを見せてくれ!