あれから1週間も過ぎてしまったが、

曙vs大仁田厚の電流爆破マッチ(横浜大花火大会!)の話を書いてみたい。


8月26日、横浜文化体育館。

正式な試合形式は…

『ノ―ロープ有刺鉄線バリケードマット

ダブルヘル・メガトン電流爆破デスマッチ』という。


これは、長すぎて覚えきれない。


「おい、真鍋!

お前はオレと長州の電流爆破マッチが見たいか!?」


そう大仁田に迫られた真鍋由アナウンサーが、

「私は、長州力対大仁田厚のノ―ロ―プ有刺鉄線電流爆破デスマッチが見たいです」

と、まったく噛まずに回答したときは、さすがアナウンサーと感心したもの。


しかし、いくら真鍋さんといえども、

今回のデスマッチ名ばかりはカンぺなしでは言えないだろう(笑)。


とにかく、それぐらい何だかスゴイことになっていたのだ。

そう人ごとのように書けるのも今だからの話。

正直に言うと、会場について放送席の位置を確認したとき、

私はかなりビビった。


過去、大仁田の電流爆破マッチに関しては、

テリー・ファンク戦、ハヤブサ戦、蝶野戦、ムタ戦、長州戦と

リングサイドの記者席で取材してきたが、

その爆風は相当なものだし、

熱さも感じるし、爆破の際には破片も飛んでくる。


なにより、あの爆発音が半端ではない。

今回の会場である横浜文化体育館は、

密閉された感じだし、あらゆる意味で危険な予感がヒシヒシ。


ただし、逃げられない。

なぜなら、スカパー!のPPV生中継があって、

私は解説を務めるから。


リングがあって、片面にバリケードマットを敷くため、

場外フェンスが設置されている。

フェンスは、カメラマンがそれ以上近づかないようにという

配慮のためでもあるのだろう。


放送席は、そこから約4mほど距離を置いたところに設置されており、

リングサイド席の最前列もほぼ同じぐらいの位置にある。

放送中に逃げるわけにもいかないし、マイッタなあ…

会場入りして初めて現実味を感じ始めた。



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これは、試合開始早々に解説しながらデジカメで撮影したもの。

さすがに爆破前である。

爆破の瞬間、デジカメのシャッターを押しながら、

おまけに解説もしていたら大したものである(笑)。


結論から言うと、ヘッドセットをしていたせいで、

それが耳栓代わりになったのか、

逃げ出したくなるほどの状況ではなかった。


もちろん、爆破の瞬間は「ウワ―!」と声にならない声、

解説にならない言葉を発していたと思う。


試合は、同体で爆破に持ち込んだ曙が、

その勢いのまますくい投げで大仁田を投げてから

ボディプレスで圧殺して3カウント。

キッチリ、決着がついた。


ところが、その後、ダウンした大仁田の前で

曙が雲竜型の土俵入りの構えを見せたところ、

大仁田が大量の火を放った。

火炎が曙の顔をなめつくすように覆う。

ちょっとゾッとしたシーンである。


終わってみれば、やはり大仁田厚の世界という空気に包まれる。

これが本当に不思議なのだ。

そういえば、あの長州力も電流爆破マッチで大仁田に完勝しながら、

試合後の共同インタビューで「オレの完敗だよ!」と言った。


つまり、電流爆破マッチのリングに上がった(上げられた)時点で、

大仁田の勝利なのだ。

そこは大仁田の庭であり、

結局どんな大物でも大仁田劇場の助演男優とされてしまうのだ。


「あいつは危険なんだ。

あいつの中では最初から勝ち負けはどうでもいいんだから。

負けたって、大仁田の存在を消すことはできない。

勝ち負けが関係ないなら、新日本プロレスが崩れてしまうだろう」


大仁田の新日本参戦に反対を唱え続けてきた

アントニオ猪木の言葉である。

猪木は単に大仁田を気嫌いしていたわけではなく、

エンターテイナーとしての大仁田の能力を痛感していたからこそ、

それを危険と判断したわけである。


もちろん、長州もそれを分かってはいたが、

興行的観点に立ったときの逆転の発想(どんでん返し)と、

毒をもって毒を制すという自分自身の感性に賭けて、

大仁田を新日本マットに上げ、復帰戦の相手に選んだ。


振り返ってみると、大仁田が自らの死に場所として選んだ

横浜アリーナでの長州戦(2000年7月30日)から12年も経過している。

それなのに、未だに大仁田厚は大仁田厚。

邪道は邪道。


電流爆破マッチという自分の庭を持って、

体が動く限り、大仁田は永遠に生き続けるのだろう。


ところで、これも会場に行ってから知ったこと。

PPV中継のゲスト解説に越中詩郎が入るというのだ。

越中は電流爆破マッチの経験者。

伝説のWJ旗揚げ戦(03年3・1横浜アリーナ)で、

大仁田と電流爆破マッチを行ない、反則勝ちを収めている。


まあ、電流爆破デスマッチに

反則勝ちも反則負けもあるかよ!

そう突っ込みを入れたくもなるところだが…(笑)。


試合前、担当ディレクター、高橋大輔アナウンサーと

3人で打ち合わせに入ったところで、

越中が楽屋に入ってきた。


ノアの6・13後楽園ホール大会で

”三沢光晴メモリアルマッチ”に出場した際、

越中は左足首脱臼骨折をいう重傷を負った。

それ以降、欠場中で今は復帰へ向けリハビリを続けているという。


左足にはボルトが8本入っているというが、

まったく普通に歩いているので驚いた。


「ああ、金沢クン、太ったねえ!

なんだよ、レスラーみたいだな」


越中の第一声がこの言葉だった。

やっぱり、久しぶりに会うと、そう見えてしまうのか(苦笑)。


「確かに、田中将斗より体重は重いかもしれませんねえ」


「ほら、やっぱりレスラー並みだ。

オレより太いんじゃない?」


いきなり、こんな軽口を交わしているものの、

越中と面と向かって会話するのは、2年ぶりかもしれない。

単行本『元・新日本プロレス』の取材のため、

目黒の喫茶店に入り、3時間ぐらい会話した、

あのとき以来ではないだろうか?


その後、越中には電流爆破マッチの恐ろしを

これでもか!と教えられた。


「オレは1発目の爆破音で右耳の鼓膜が破れたんだよ。

それで三半器官がおかしくなって平衡感覚がなくなって。

破片も飛んでくるし、あんなの目に入ったら大変だよ。

レフェリーなんかゴーグルつけてるから、まだいいけどさ。

有刺鉄線も体重浴びせちゃうと逃げられなくなる。

Tシャッツなんか着ても意味ないしね。

終わって背中を見たらザクザクに切れていたからねえ」


経験者の弁だから説得力がありすぎる。


「まあ、放送席はヘッドホン付けてるし、

金沢クンはメガネかけてるから大丈夫じゃないかな」


さんざん人をビビらせておいてから、

大丈夫じゃないかなと言われても説得力はない(苦笑)。

越中とはいろいろな雑談も交わした。


「左足の手術で1ヵ月ぐらい入院したんだけどね。

イチバン嬉しかったのは高岩が見舞いに来てくれたことかな?

あいつもフリ―になって、いろいろ苦労したみたいだね」


越中は第6試合からゲスト解説につくが、

その高岩は第6試合のタッグマッチ

(大谷晋二郎&橋本大地vs高岩竜一&石井智宏)に登場。


4年前に袂を分けた大谷とリングで再会した。

2008年末、高岩がZERO1を去ったとき、

もう二度と両者が交わることはないと思っていた。


しかし、時間が解決してくれた。

新日本でデビューし、初代IWGPジュニアタッグ王者となり、

橋本真也とともに旧ZEROーONEへ走った同期であり同志。

16年間、切磋琢磨してきた両者がリングで再会した。


さて、この日、私にとって、もっとも想定外の出来事は、

その第6試合の前に起こった。

ゲスト解説の越中は、まずリングに上がって

復帰へ向けての挨拶を行ない、その後、放送席に着く。

そういう段取りになっていた。


越中の入場テーマ曲『SAMURAI』が館内に鳴り響く。

越中がリングに向かって歩を進める。

その瞬間、突然涙が溢れそうになった。

高橋アナに振られても、声がこもってしまった。


先ほどまで、越中とは普通に会話していたはずなのに、

あのテーマ曲が耳に飛び込んできた途端、なにかが壊れてしまった。

私の頭の中に越中との数々の思い出、名勝負が一気に甦ったのだ。


反選手会同盟、平成維震軍…この体育館にも思い出は詰まっている。

あれはWARの興行だった。

反選手会同盟との抗争を経て、

新日本マットに初登場した天龍は、

長州、橋本、蝶野、馳と新日本主力勢を総なめにした。


それをストップしたのは藤波だったが、

1994年の1・4東京ドームで天龍は猪木にも勝利。

その狭間で、平成維震軍の大将である越中は

天龍に二度目の一騎打ちを挑んだ。


その舞台が横浜文化体育館。

あのとき、ハードスケジュールで天龍はボロボロだった。

おまけに、横浜大会開催に関してリング外でちょっとしたトラブルもあった。


試合終盤、越中のジャパニーズレッグロール・クラッチホールドが決まった。

天龍は返しきれなかった。

明らかに3カウントのタイミングだったが、

レフェリーはカウント2でストップ。


客席がザワめき、越中はレフェリーに食ってかかった。

しかし、裁定が覆ることなく、試合は天龍の辛勝に終わった。


「本当に情けないよ!

もう横浜には来たくもない」


自分が不甲斐ないと思ったのか、試合後、天龍は荒れた。

天龍もボロボロなら越中もボロボロだった。

新日本の先兵隊として、対WARに火を点けたのは反体制派の越中だった。

それから、新日本vs天龍、新日本vsWARは一大ムーブメントとなる。

越中と反選手会同盟(平成維震軍)こそ最大の功労者。


それを思うと、越中があまりに気の毒に思えた。

だから、当時の『週刊ゴング』のグラビアページで、

私はこう書いた。

天龍の怒りを買うのも覚悟の上だった。


「なぜか天龍のコメントには説得力がなかったし、一部意味不明だった。

果たして越中は、このまま時代の仇花で終わってしまうのだろうか?」


そのゴングが発売されたあと、

天龍番の小佐野さんにチラッとこう言われた。


「そういえば天龍さんが、金沢クンの書いた試合リポートを

ちょっと気にしているみたいだったねえ」


おそらく、それからそう日にちが経っていないころだったと思う。

米国ロードアイランド州プロビデンスホールで開催された

WWFの第7回『ロイヤルランブル』に天龍とグレート・カブキが日本から参戦した。

日付を確認してみると1994年1月22日となっている。


私は日本から取材で現地へ飛んでいる。

そのとき、ボストンの空港でたまたま天龍とバッタリ出くわした。

天龍は笑顔で私に近づいてくると、こう言った。


「金沢クン、ここはアメリカだからね、

ひとつ柔らかくいこうよ。

記事も柔らかくいこう、アメリカンスタイルでね」


さすが天龍というか、その言い回しで充分に気持ちが伝わってきた。


また話が大きくそれてしまったが、不思議なもので、

そういう過去の出来事が瞬時に頭を駆けめぐったのだ。

そういえば、2003年12月、約20年ぶりに三沢光晴と

シングルマッチを行なったのも、この会場だった。


過去の三沢との対戦成績=越中の40戦40勝。

それが41戦、40勝1敗となったのが、超満員のこの会場。


それも頭に浮かんでいた。

本当に、ふとしたきっかけで人間にはスイッチが入る。


あの『SAMURAI』を聞いて、涙が溢れそうになったとき、

26年の記者生活の中で越中詩郎というレスラーがこんなにも

私の心に刻まれている存在だということを改めて思い知らされた。


金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba


◎追伸 この記念撮影でもそうだし、越中ブログを見てもやっぱり同じで、

     記念撮影のとき、越中詩郎はいっさいポーズをとらない。 

     おそらくプロレスラーであるときの自分とプライベートを完全に分けて、

     スイッチのオン・オフを決めているのだろう。


     最後に、楽屋での越中語録を一つ紹介。

     「オレ、『やってやるって!!』なんて一回も言ったことないと思うんだけどなあ」

     いやいや、よく言ってましたよ(笑)。