自覚はないのだが、自分自身疲れきっていたのかもしれない。

6日、サムライTV『速報!バトル☆メン』に出演し、

マイカーで帰宅途中、急に全身がだるくなって熱っぽさを感じた。


帰宅して、体温を計ってみると38.5度。

べつに喉が痛いわけでもないし、

咳や鼻水がでるわけでもない。


だけど、こんな高熱に見舞われるのは久しぶり。

38.5度という体温計の数字を見た途端、心が折れた。

それから2日間、オデコを冷やしてとにかく眠った。

そして昨日の夕方、起きてみると嘘のように熱が引いていた。


こりゃあ、バチが当たったかなあ?

やっぱり、あのとき騒ぎすぎたから、お灸をすえられたのかな?


「もう人が気持ちよく寝ているのに…うるさいよ!

ホントにGKは(笑)」


きっと、そうに違いない。

声の主は、竹内さんである。


すでに皆さん、ご存知だろうが、

私の恩師であり、ゴング創設者として、

ゴングファミリーのお父さんでもある竹内宏介さんが、

3日、午後8時24分、入院先の病院で息を引き取られた。

享年65。


仕事に向かう途中、脳梗塞で倒れてから5年半にも及ぶ闘い。

その間、つねに竹内さんの横には素敵な奥様がいて、

素直で可愛いお孫さんたちの姿があった。


容態の変化をメールで知らせてくれたのは、大川昇カメラマン。

私が新日本の福岡大会に行っていると思っていたらしい。

だが、そのとき自宅にいた私は、

慌てて病院に駆けつけたが、間に合わなかった。


その代わりというか、地下の霊安室に一時移された竹内さんには、

イチバン最初にご挨拶をさせてもらうことができた。


病院には、ゴング軍団が駆けつけていた。

毎日のように竹内さんを見舞っていた大川昇カメラマンと奥様。

清水勉さん、小佐野景浩さん、吉川義冶くん、田中幸彦さん。

さらに、大日本印刷のゴング担当だった須藤幹夫さん夫妻。


その後、竹内さんは自宅に戻ることになった。

自宅でご家族と葬儀屋さんが葬儀等の詳細な打ち合わせすることになり、

私たち(清水、小佐野、田中、大川夫妻、吉川、金沢)もお邪魔した。


私たちのやるべきことは、

とにかく訃報を関係者に知らせること、

親しかった方々に献花のお願いをすること、

お通夜、告別式に参列してくれる方の人数をほぼ把握すること。


なんだか、10数年前にタイムスリップしたかのようだった。

まるで編集会議という感じ。

こういったときに抜群のチームワークを見せるのが、

ゴング軍団だった。


深夜2時過ぎに、一息ついた。

現状でやれることはほぼやった。

そうなると、自然に昔話が始まる。

しかも、たいていが笑い話。


この手の話になると、もう私の口は止まらない。

ときどき、爆笑になってしまう。


竹内さんの奥様がお茶を淹れに来てくれると、

「すいません! 金沢さんが非常識なもので…」

と、なぜか大川夫人が私を叱る。


「あら、いいんですよ。

こうやって、ゴングの人たちに囲まれて、

きっと主人は喜んでますから。

ねえ、お父さん!」


あくまで、優しい竹内さんの奥様。

また、私が口を挟みたくなる。


「きっと、竹内さんは嘆いてるだろうなあ。

しょうもない弟子を持ったなあ…

ゆっくり寝かせてもくれないよって」


「それは金沢さんのことだけだって」


大川カメラマンが突っ込むと、

また笑いが起こる。

だけど、竹内さんは明るい人だったから、

私が馬鹿話をすると顔をしかめつつも、

その目はいつも笑っていた。


でも、あのときは本当にうるさいと思っていたのかなあ?

竹内さん、バチあたりだったら、ゴメンナサイ!


4日のお通夜、

5日の告別式、

多くの方に来ていただいた。

式場から溢れんばかりのお花を頂いた。


我々、ゴング軍団、竹内ファミリーは、

竹内さんを送り出すとともに、

参列してくれた方々を迎える立場でもある。


ウチの嫁さんも自ら受付をやると言い出して、

2日間、受付係を務めてくれた。


この1年弱の間に、続けざまに両親を亡くした嫁さんだから、

人の心の痛みというものを分かっているのだろう。


本当に来ていただいた方々、

1人1人に感謝の気持ちでいっぱい。


オシャレな竹内さんは、

「還暦になったらこれを着てリングに上がるんだ」

と言っていた、格好いい紋付き袴姿で旅立った。


こんな格好いい師匠にめぐり会えて、

こんなにみんなから愛される恩師に出会えて、

私は本当に幸せ者…いま涙が止まらない。


お通夜でも告別式でも、

骨を拾わせていただくときも泣かなかったのに、

いま、涙が出てきて止まらない。


1998年12月24日…編集部近くの喫茶店で

竹内さんに編集長就任を告げられたときの言葉。


「金沢クン、編集長という仕事はね、

なった瞬間からカウントダウンが始まるものなんだよ!

だけど、大丈夫、金沢クンならやれる!」


2004年2月、週刊ゴングの版元である

日本スポーツ出版社が経営不振から身売りに動いていたころ、

東京ドームホテルのカフェではこう言われた。


「会社がかなり厳しい状況にきている。

いま身売りを含めて動いているところだから。

ただね、もしゴングに終わりが来るのなら、

そのときは金沢編集長で終わってほしい。

それが俺からの最後のお願いだから。

金沢クンでゴングが終わるなら、俺も本望なんだ」


こんなに切なくも有難い言葉をいただくとは思わなかった。

だけど、私はそのときの約束を守れなかった。


身売り先の新経営陣が信頼できないと思ったから、

身売りと同時に編集長を辞任したし、

その約1年後には退社して、新体制ゴングとは訣別した。


そのときも、イチバン最初に竹内さんに報告した。


「金沢克彦がそう決断したなら、それは正しい!

俺は金沢クンを応援するからね」


いつだって、竹内さんは私の味方でいてくれたし、

いつも背中を押してくれた。


宣伝するつもりではないが、

奇しくも明日(10日)発売となる文庫本

『子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争』の中には、

竹内さんが私の背中を押してくれるエピソードが

かなり出てくる。


当時、新米編集長だった私に、

いかに多大な影響を与えてくれた人だったか、

読んでもらえば分かると思う。


だけど、もう竹内さんには頼ることができない。

ゴング軍団、竹内ファミリーは、

みんな独り立ちしなくてはならない。


でも、私は大丈夫!

この胸の中に竹内宏介という男がしっかりと生きているから。

迷ったときには自分の胸に問いかけてみればいい。


「金沢クンがそう判断したなら、それは正しい!

大丈夫、なにかあったら、俺が責任を持つから」


竹内さんは必ずそう答えてくれると思うのだ。


金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba