一昨日の26日、江東区のスカパー!東京メディアセンターで

サムライTVの人気番組『Versus』の収録を行なった。


今回は、大物同士の顔合わせ。

新日本プロレス相談役の坂口征二さんと、

全日本プロレス前社長の武藤敬司(現・会長)。

私が、台本の作成と進行役を務めている。


金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba


2人の共通点といえば、プロ級といわれる麻雀の腕前と、

柔道出身であることだが、

何より20歳以上も年齢差がありながら、

非常に仲がいいこと。


今でも、武藤が新日本マットに特別参戦したときなど、

武藤の控室に坂口相談役の姿があるほど。

レスラーとしての直接対決となると、

「1回、タッグでやったぐらいしか記憶にない」

と武藤は言うし、坂口氏に至っては「ぜんぜん記憶にない」そうだ。


「試合したのは多分、年末のタッグリーグ戦ぐらいだよ。

オレが高田さん(延彦)と組んで、坂口さんは木村さん(健吾)

なんかと組んで対戦したんじゃないかな?」


そこで記録を調べてみると、

確かに1987年11月~12月に開催された

『87ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦』で対戦していた。

ただし、坂口氏のパートナーはスコット・ホール(レイザー・ラモン)。


結果の方は、武藤&高田の勝利に終わっている。


「もう内容なんかまったく覚えていない。

ただ、坂口さんの腕を取ったときに

足みたいな腕だなあと思ったことだけは印象に残ってますね


そう言って、武藤は笑っていた。

武藤がデビュー1年で海外遠征に出発し、

90年春、日本マットに定着するまで日本と海外を往復していただけに、

リング上での接点は薄かったのだ。


それでいながら、両者の交流が絶えなかったのは、

やはり麻雀が取り持つ縁というしかない(笑)。


だいたいからして、私が事前の打ち合わせのため、

武藤の控室に出向いたところ、

大声でまくし立てる武藤の声が廊下まで響いてきた。


なんの話かと思えば、麻雀の話。

前日、麻雀大会のテレビ収録があり、

並いる腕自慢の芸能人たち、

プロ雀師たち計32人に交って、

武藤は3位につけていたものの、

最後の最後に逆転を食らいランキングを落としてしまったという。


その話を、吉野家の牛丼弁当をかき込みながら、

興奮気味に広報担当のSさんへ話して聞かせていた。

あららっ、いきなり麻雀かい?


このお2人の麻雀対決となると、私にも思い出がある。

遡ること7年前、05年2月半ばのこと。

同年2月末にスカパー!でPPV放送された

『武藤敬司20周年記念特番 identity~武藤敬司であることの理由~』

の収録を行なった。


試合映像はほとんどなく、武藤の実家を訪ねたり、母校を訪ねてみたり、

そういった企画ものだけでPPV番組(1時間30分)が制作されるほど、

やはり武藤人気は抜群だった。


そこで、番組の目玉として収録されたのが、

武藤、坂口氏、ライターの長谷川博一氏、私による座談会。

それも単なる座談会ではなく、雀荘を借り切って、

本当に麻雀を打ちながらトークを展開するというもの。


当初、私は雀荘でやるとしか聞いていなかった。

収録前日になって、担当のYさんから決定事項を聞かされた。


「本当に麻雀をやった方がリアルだし、

勝ち負けで一喜一憂する武藤さんも撮りたいんです」


生まれてこの方、麻雀というゲーム(?)に触れたこともない私。


「僕、麻雀がまったく分からないんですけど……」


そう告げると、スカパー!のYさんはあっさりとこう言った。

ちなみに、YさんはZERO-ONE(現ZERO1)のPPV放送、

全日本プロレスのPPV放送などの担当だったから、

お互いによく知る仲である。


「ああ、大丈夫ですよ。

明日、予定より15分ぐらい早く来てもらえますか?

ちゃんとレクチャーしますので。

あと、座談会なんですが、金沢さんが進行役になって

うまく話を回してもらえますか?」


収録場所は、水道橋駅近くの雀荘。

本番前に、麻雀のルールから始まり、

配牌を教えてもらった。


どの牌を切るかは、私の後方にだけカメラを置いて、

モニター画像に映し出し、左耳につけたインカムで指示を送るという。

だから、麻雀対談の絵は絶対に私の右方向からしか撮らなかった。


こちらは、もう必死である。

「えーと、右から3番目を捨ててください!」と言われれば、

その通りにやる。


そのうえ、他の3人の邪魔にならないように迅速に行ないつつ、

話のテーマを振っていかなければいけない。


「これって、本当に大丈夫ですか?」


「ああ、ぜ~んぜん大丈夫、大丈夫!

GKに不可能の3文字はありませんから(笑)」


もう、Yさんは気楽なもの。

私はといえば、その呑気な笑顔と答えを聞いた瞬間、

「オレは聖徳太子じゃねぇーつうの!!」

と思いっきり心の中で突っ込みを入れていた。

※聖徳太子には、同時に7人の声を漏らさず聞き分けたという伝説がある。

 (8人、10人という説もある)


まあ、ともかく無事に切り抜けた。

恐らく私だけが緊張感たっぷり、冷や汗ものの1時間弱だったと思う。

武藤はといえば、本当に一局ごとに一喜一憂。

大先輩の坂口さんにも、麻雀だけは別とばかり平気で文句を言っていた。


また、話が横道にそれて長くなった。

でも、麻雀といえば、条件反射的に

いつもあのときの緊張感を思い出してしまうのだ。


ところで、今回ビッグネーム対談を組んだのには理由がある。

この4月からサムライTVでは、創立40周年を迎える新日本、全日本

両団体の創成期から順に名勝負を毎週オンエアする新番組がスタート。


その番組の煽りも兼ねている。


事前の打ち合わせでは、お2人ともNGワードなし。

だから、自分が推薦する新日本、全日本の

心に残る名勝負だけを宿題として考えてもらった。


新日本に関して、坂口氏はやはりアントニオ猪木との激闘をあげた。


「5試合ぐらいやったのかな?

イチバン印象深いのは、蔵前で30分やって時間切れ。

そのあと10分延長して、また時間切れ…

再延長したけど根負けしてリングアウトで負けた試合かな?

広島で30分やって引き分けだったのも覚えているね」


「へ―、会長、猪木さんに勝ったことあるんですか?」


「一回、勝ってるんじゃないか(笑)」


実際のところ、猪木vs坂口のシングルマッチは、

9戦して猪木の5勝1敗3分けという記録が残っている。

ただし、猪木戦になると坂口氏の目の色が変わり、

その強さが一層際立った。


ちなみに、猪木vs坂口の初対決が、坂口氏のいう広島大会。

1974年4・26広島の『第1回ワールドリーグ公式戦』で引き分けている。


そういう事実を目の当たりにしているからこそ、当時のマスコミ間では

「坂口最強説」を推す声が多かったようだ。


それにしても、相変わらず武藤は坂口相談役を

「会長」と呼ぶ。

実は昨年、社長職を退いた武藤こそ会長なのだが、

若いころのイメージが浸透していて、自然とそうなってしまう。


闘魂三銃士世代から見れば、

猪木が「社長」であり、坂口が「会長」。

その見方、呼び方が染み付いているのだ。


もっと時代が進んで、永田や中西世代になると、

今度は猪木を「会長」と呼び、坂口を「社長」と呼ぶ癖がついてしまっている。


そこらへんは、私のことを未だに「編集長」と呼ぶ

選手、関係者がいるのと似ている。


では、武藤のあげた名勝負は?


「テレビで異種格闘技戦は興奮して見てましたよ。

ザ・モンスターマンとかカッコよかったねえ!

あと、(ウイリエム・)ルスカが負けたのはショックだった。

オレ、柔道やってたから、猪木さんじゃなくてルスカ応援していたもん。

なんで、あの腕十字で決まらないんだ!ってね」


「ああ、オレもルスカに勝ってほしかったよ」


坂口氏がポロリと漏らすと、武藤も我々スタッフも大爆笑。

なぜなら、あの試合で当然のように坂口氏は

猪木のセコンドに付いていたから。


「でもやっぱり自分がやっていた競技を応援するってありますよ」


武藤があまりフォローになっていないフォローの言葉。

ただ坂口氏の場合、特別な感情もあるだろう。


何と言っても、1965年の全日本王者であり、同年の世界選手権も銅メダル。

しかし、1968年のメキシコ五輪で柔道が競技種目から外されたため、

1966年、プロレス入りを決めた。


ルスカが、重量級&無差別級の2階級制覇を達成したのは、

1972年の西ドイツ・ミュンヘン五輪でのこと。

坂口氏とは、ほぼ同年代だから、もしメキシコ五輪で柔道競技が施行されていれば、

坂口氏とルスカがメダルを賭けて闘った可能性も十分あるのだ。


「だけど、あの異種格闘技戦をやっていなかったら、

PRIDEやK-1は生まれていなかったかもしれない」


その点では、両者の意見が一致した。


では、全日本プロレスの名勝負となると…。

武藤は、お馴染みのザ・ファンクスvsブッチャー&シークをあげた。


坂口氏は、現役でライバル団体を観ていたわけだから、

武藤のファン目線とはまた違い、ビジネス的な考え方。


「もう羨ましいぐらいのガイジン選手が揃っていてね。

ドリー・ファンクとかレイスとか向こうでもトップどころばかりで」


「でも会長、逆に新日本はガイジン選手を育てましたよね。

シンとかノートンとか海外では無名なのにスターに育てたわけだから


後半、私からのリクエストでNGワード(?)に触れてもらった。

まず、のちにSWSとして旗揚げするメガネスーパーから

勧誘を受けた武藤が移籍を決め掛けたこと。


これは1990年3月のこと。

3月17日に、米国WCWでグレート・ムタとして大ブレークした武藤が凱旋帰国。

3月23日、後楽園ホール大会が坂口氏の引退試合だった。


「アメリカまで若松さん(市政)が来てくれて、

いい条件提示してくれたんですよね。

あ、これはいいなあって(笑)。

でも、多分オレがイチバン先に引っ張られたんだと思いますよ


オレの引退試合の日に、会場でメガネスーパーに行きたいって(苦笑)。

ちょっと待てってことで、田中八郎さん(故人)にすぐ電話を入れて、断わったよ。

そうしたら、田中さんも気持ちよく分かってくれてね。

あれは武藤、マンションの鍵までもらってたんだろ?」


「いや、もらってないですって。

あの頃はオレも若かったし、

条件もいいし、野望もあったからで。

ところで、今回のブシロ―ドさんが新日本のスポンサーというか、

親会社になったのは、どこかメガネスーパーのときと似てませんか?


「田中社長もプロレス好きだったけど、

無駄な金の使い方したなあって思うんだよ。

ブシロードの木谷会長はもう好きの度合いが違う。

それにプロレスをよく分かっている。

いいオーナーに出会ったと思うよ」


もう一つのNGワード。

2002年1月、武藤の新日本退団、全日本への移籍問題。


「会長には話しておかなきゃと思って、

普通の会話している中で、チラッと言ったんですよ。

そうしたら、なんか信じてもらえなくてねえ(笑)」


「後からよ、『会長には話してありますから』って武藤が言ってたって聞いて、

なに言ってんだって(笑)…あれじゃ、信じないだろうって、アッハッハッハッハ」


その他、時代こそ違えど、

坂口氏は1990年代にちょうどまる10年、社長を務め、

武藤は昨年6月まで約9年、全日本の社長職に付いていた。


また、猪木の後を受け坂口氏が社長に就任した際、

新日本は10数億の借金を抱えていたが、

それを9年で完済しており、

1998年の年商は40億近い数字を弾き出している。


「オレが社長のときは離脱者が出なかったことがイチバンかな?

苦しいときも、みんなで頑張って返していこうって。

だけど、この間、棚橋と話していたら、

『自分は会社の慰安旅行でハワイとか行ったことないんです』って言う。

また、そういう時代、そういう業界、会社になっていかないと」


「あの当時、プロ野球でも人気のない球団より年商あったらしいですからね。

オレの場合、なんにも分からず社長ですから(苦笑)。

普通なら、課長、部長と段階踏んでいくものなのに。

経営状態なんか分かっていないでやっていたから。

まあ、台湾とかアジア進出にも手応えがあるし、

レスラーとしてもね、坂口会長は48歳で引退された。

オレは49歳になって抜いちゃったけど、

レスラーの理想の引退っていうのは会長みたいな形だと思う。

それは人望あるし、会長のように5年先を見ながらやっていかないと」


「武藤は今年50(歳)? まだまだ老けこむトシじゃない!

去年8月の『ALL TOGETHER』みたいに大事なところで出てくればいい」


この御二方の間には、他団体であるとか、

ライバル団体というものを感じさせない空気がある。


さて、最後に武藤がとっておきのネタをばらした。


「ペガサス・キッド(クリス・ベノワ)っていたじゃない?

アレは会長がパチスロの名前から取って付けたんだよ(笑)。

で、G1クライマックスだって、完全に競馬のG1レースからだからね!」


これは坂口相談役本人も認め、爆笑するのみ。

約75分の収録は終始、和気あいあいとしていた。


                    金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba



           サムライTV『Versus♯62 坂口征二vs武藤敬司』                                                                                                               

             4月10日(火)、23:00~24:00放送、他。

                      お楽しみに!