昨日(27日)午後、桜庭和志が主宰する総合格闘技ジム・フィットネス

『ラフター7』に初めてお邪魔した。


JR大森駅から徒歩7~8分ほど。

環境のいい場所にあり、程よい広さで明るく小奇麗なジム。

目的の人物は、柴田勝頼である。


「柴田選手の、この10年を総括するような読み物を書いてもらえませんか?」

先だって、某誌からそういうオファーを受けたのである。


ここ数年、私の取材フィールドがプロレス中心に固まりつつある中でも、

柴田のことはいつもどこかで気にかけていた。

やはり彼は新日本プロレス出身であり、総合のリングに立とうが、

常にプライドを持ってプロレスラーを名乗ってきたからだ。


ただし、私自身が格闘技の取材から遠ざかっているため、

直接会話をする機会はほとんどなかった。


だから彼の試合をテレビ観戦して、心が揺り動かされたときなどは

衝動的にメールを送ってみたりもした。

もちろん、柴田もきちんと返信してくれる。


昔からそうなのだが、彼は決して饒舌な人間ではない。

自分の直感と感性を信じて、馬鹿正直に生きていくタイプ。

それだけに、メールの返信の内容にも心がこもっている。

たとえ短い文面でも、そこに彼の生きざまを感じるのだ。


2010年1月16日、彼の父である柴田勝久さんが亡くなった。

私も新米記者の時代から、柴田勝久レフェリーには随分と可愛がってもらった。

お悔やみのメールを柴田に送ったところ、こんな返信をもらった。


「親父はメールのやりとりがとても好きだったんです。

だから、親父あてにメールを送ってやってください。

きっと喜んでくれると思いますよ」


そう記したうえで、勝久さんのメールアドレスが添えられていた。

おそらく私は、柴田勝頼という男の、こういう感性に惹かれるのだ。


また、話が横道にそれてしまったが、

柴田の10年を読み物とするには、

やはり彼の生の声が必要だ。


10年前の柴田はこうしていた、こんなことを言っていた…

それでは単に過去の記録であって何の意味もなさない。


今の柴田が、大晦日のイベントでドロップキックを放った柴田勝頼が

10年前を振り返るからこそ、その時代の真実が見えてくるし、

彼の本心が浮き彫りとされる。


今回、ラフター7のリングで柴田と向かい合った1時間半は、

決して10年間を埋めるための作業ではなかった。


32歳の彼が、これからプロレスラーとして

全盛期へ向かうための確認作業であったように思う。


「柴田選手、ちょうど10年前に何があったのか覚えていますか?」


「えっ、まったく覚えていません……」


「ヒントは、札幌ですよ」


「あ、猪木さんにビンタをもらうためにリングに上がりましたね!」


そんな会話から始まった柴田との確認作業。

まだ原稿を書く前に、本に掲載される前に書くのもなんだが、

語弊を恐れずに言うなら、やはり彼は誰よりも新日本プロレスなのだ。

そして、プロレスラーなのである。


金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」Powered by Ameba


まあ、それはともかくとして、柴田といえばこのポーズ。

アントニオ猪木の元祖(?)闘魂ファイティングポーズである。

記念に、ちょっとワンショット。


しかし、よくよく見ると、私の右手は”永田裕志化”している感も(笑)。

それでは、最近ほとんんどプロレス事情には疎いという柴田からの、

こんなメッセージで締めてみたい。


「最近ほとんどプロレス雑誌も見なくなって、テレビも観ないんですよ。

だけど、棚橋が活躍しているという声は自然と聞こえてくる。

それなのに、後藤の話はぜんぜん聞こえてこないんですよね。

後藤、闘いに優しさは無用だぞ、しっかりしろ!と」


同じ高校のレスリング部の同期で、

ともにプロレスラーを目指し、汗を流した柴田と後藤洋央紀。

友人だからこそのエールと受け止めておこう。


では、雑誌の発売日が決まったら、また報告します!