稀代のヒールレスラー、上田馬之助さん(本名/上田裕司)が21日に亡くなった。

享年71。


悲報を知らせてくれたのは、スポーツニッポン新聞社の丸井乙生記者。

正確にいうと、丸井さんは『上田馬之助、死去』のニュースが入ってきたため、

さらに詳しい情報を得ようと、私に電話をくれたのだ。


ところが、前日飲み過ぎた私は、二日酔いで寝ていたために

その事実すら知らなかった。

役立たずというか、なんとも間抜けな話である。


周知の通り、馬之助さんは、日本人が日本のプロレス団体に牙を剥くという図式を

最初に作り上げたレスラーである。

当初は、髪をヘア・ダイで一部金髪に染め”まだら狼”と呼ばれていたが、

新日本マットを主戦場に、タイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビを結成した頃には、

完全な金髪となり、”金狼”の呼び名が定着した。


これが1970年代後半のお話。

今でこそ、男女を問わず金髪に染めている日本人など珍しくはないが、

当時、日本人が金髪に染めるという大胆な発想はなかった。


さすがに芸能界でも、そういうタレントはいなかったのだから、

実は馬之助さんこそ、その先駆者であり、流行の先端をいく人物だったような気もする。


また、プロレスがテレビのゴールデンタイムに根付いていた時代だから、

馬之助さんの知名度は抜群だった。

1983年1月には、こんな本も出版している。


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発行元は、学習研究社。

表紙の絵は一目瞭然、いしかわじゅん氏のイラスト。

この当時は、まだ限られたトップ中のトップ選手しか単行本など出せないご時世だった。

それを考えると、やはり快挙。

ついでに、私がこの単行本を押し入れの奥から見つけ出してきたことも快挙!?


さらに驚いたのは、この本が出た後、

なぎら健壱さんが同名のコミックソング『男は馬之助』を作詞作曲し、

レコード発売したこと。

歌は、なぎらさんとコント赤信号。


なぎらさんのコミックソングといえば、『悲惨な戦い』が有名なのだが、

この『男は馬之助』も隠れた名作と言われている。


また、1983年から約3年ほど、美保純さんとの共演で

”トライデント・シュガ―レスガム”のCMにも長期出演している。


1986年に、私が業界で仕事を始めるようになったとき、

すでに馬之助さんはヒールの大スター。

ただし、プロレスラーとしては峠を越えた感も否めなかった。


そんな馬之助さんと接する機会が二度だけあった。

古い話なので、申しわけないが年月日は覚えていない。

ただ、私が『週刊ファイト』記者時代のエピソードなので、

おそらく、1987年~1989年にかけてのこと。


ある日、デスクである井上譲二さんから自宅に電話が入った。


「上田馬之助と山本さん(ターザン山本=当時、『週刊プロレス』編集長)が、

神田の”山の上ホテル”のレストランで食事するというから、行って取材してくれないか?

山本さんには話してあるから、すぐに行ってほしい」


なにか、よく訳もわからないまま、私は速攻で山の上ホテルへ駆けつけた。

レストランを覗いてみると、ランチタイムということもあり、ほぼ満席。

その中に、向かい合って食事している馬之助さんと山本氏を発見した。


2人に近づいていくと、もう取材は終わったから食事をしているという。

初対面の馬之助さんは、私にこう言った。


「ここらの席は一杯だから、空いている席を見つけて好きなものを食べてよ。

ボクの話はぜんぶ山本さんに伝えてあるから、山本さんから聞いてもらえますか?」


そこで、まだ訳がわからないまま、席に座ってランチのステーキを食べた。

食事代は、すべて馬之助さんが払ってくれた。

レストランを出ると、馬之助さんが黒塗りの外車で、

私たちをベースボール・マガジン社まで送ってくれた。


驚いたのは、車に自動車電話が装備されていたこと。

当時、そんなものは見たこともなかった。

運転しながら、その電話で誰かと会話している馬之助さんが、

おそろしくカッコよく見えた。


乗車中、馬之助さんと山本氏の会話を聞いていて、

取材の中身がようやく見えてきた。


当時、フロリダ州ペンサコ―ラに自宅を構えていた馬之助さんは、

地元のインディー団体であるWOWの世界王者になっていた。

そこで、WOWをそのまま日本に持ち込み、

興行をやろうというプランを持っていたのだ。


その後、ベースボール・マガジン社の会議室で山本氏と向かい合った。


「金沢クン、ボクを上田馬之助だと思ってなんでも質問してよー!」


なんだかよく分からない事態になってきたが、

私が質問すると、山本氏は上田馬之助になりきって

ペラペラと”WOW構想”を語ってくれた。


その後、馬之助さんと再会したのは、確か新日本の大会だったと思う。

場所は、千葉公園体育館。

このときは、単独インタビューの約束をしていた。


午後4時、まだ誰も選手が到着していない体育館で、

馬之助さんと待ち合わせした。

馬之助さんが時間キッカリにやってきて、

どこでインタビューをしようか?と相談している途中、

体育館の職員の人が話しかけてきた。


「寒いので、事務所の中で取材したらどうですか?

その前に、すいませんが、上田さんのサインをいただけないでしょうか?」


すると、馬之助さんはこう答えた。


「じゃあ、お言葉に甘えて。

あと、墨と筆はありますか?」


その職員の方が、慌てて探し物を始める。

しばらくして、色紙とともに、墨汁と筆が用意された。

噂には聞いていた。

上田馬之助は達筆で、常にサインは筆で書くということ。


本当だった。

筆のサインも丁寧で、綺麗で、お見事!


「サインというのは、色紙に心を込めて書くものだからね。

マジックでサラサラっと書くなんて、そんなこと私には出来ないんですよ」


馬之助さんは、そういう人だった。

若造の私と話していても、しっかりと答えてくれたし、

決して偉そうな態度など、とることもなかった。


ヒールをやる人間は善人ばかり……

業界のジンクスが正しいことを認識させられた。


そういえば、新聞、雑誌に掲載される馬之助さんの決めポーズはいつも同じだった。

テレビカメラに向かっても、同じポーズをとる。

人さし指を突き立て、眉間にシワを寄せ思いっきり顔を歪ませるのだ。


馬之助さんが、鏡とにらめっこしながら練習した表情である。

これが精一杯のヒール面。

善人の馬之助さんだから、このワンパターンの表情しか作れなかったのかもしれない。


この業界にいて、馬之助さんに関する悪口というのは聞いたことがない。

22日の早朝、岡山在住の片山明さんからもメールがきた。

昨年5月、単行本『元・新日本プロレス』の取材のため、岡山市内で会って以来、

片山さんとは、ずっとメール交換をしている。


「新人のころに可愛がっていただいたのに、とても残念です」


やはり馬之助さんは、誰に対しても同じ態度で接していたのだろう。


”金狼”上田馬之助。

間違いなく、ニッポン1のヒールであり、プロフェッショナルだった。