先週の13日、私はなんと50歳の誕生日を迎えた。

自分が50になるなんて……まったく自覚がないのだけれど、

1961年12月13日生まれだから、紛れもなく50歳。


ちなみに、私と生年月日がまったく同じの大物格闘家がいる。

あのモーリス・スミスだ。

80年代最強のキックボクサーと称されていたモーリスは、

鈴木みのるの運命を変えた男でもある。


目標であり、宿敵であったモーリスを追い続けることによって、

鈴木はプロレスラー、格闘家、そして人間として成長してきた。


もしかしたら、それも何かの因果で、

鈴木と私の腐れ縁が生まれたのかもしれない(笑)。


なんとなく、人生の折り返し点というか、

区切りというか、不思議な気持ちで迎えた誕生日。

まあ、実際のところ、そんな感慨に浸る暇もないほど忙しかった。


当日、私はスタン・ハンセンさん(以下、敬称略)と5時間ほど

一緒の時間を過ごしていた。


ご存知のとおり、翌14日、後楽園ホールで開催された

小島聡20周年記念興行『RUSH!!』~やっちゃうぞバカヤロー~の

特別ゲストとして来日していたハンセン。


さすがに超大物レジェンドとあって、メディアから引っ張りだこの状態。

13日には、小島聡、天龍源一郎を相手に続けざまに対談を行なった。

サムライTVの人気番組『Versus』の収録である。


この対談の台本&進行を務めたのが私。

正直、ハンセンに会えるのは嬉しいのだが、

対談の進行役となると、また話は別である。


まず、私は挨拶程度の英語しか話せないから通訳が重要になってくるし、

現役時代のハンセンはどちらかと言えば、マスコミ嫌いだった。

彼がマスコミを敬遠しがちだった理由は簡単。

自分の言葉が日本語ではどのように伝わっているのか、

そこが分からないからナーバスになっていたのだ。


しかし、現役を離れて11年弱、ハンセンは本当にフレンドリーに接してくれた。

今年62歳になったが、体型は現役時代と変わらないように見えるし、

すこぶる血色もいい。


対談用にメガネを取って、テンガロンハットを被った瞬間に、

今すぐリングに上がっても不思議でないような感覚にとらわれた。

唯一、現役時代と変わった点は、終始笑顔が絶えないこと。


久しぶりの日本が楽しくて楽しくてしょうがない…

そんなふうに見えた。

やはり旧友たちに会えることが、彼にとっては一番の喜びであるようだ。


まずは、小島との対談。

対談数日前から、小島とはメールのやり取りをしていた。


9年前の2002年6月、新日本から全日本へ移籍して5ヵ月、

小島はグレート・ムタとともに初めて米国マットに立った。

ニュージャージ州アトランティックシティの独立団体(IWS)で

初試合(vsタタンカ)を行なったのだ。


米マットでの記念すべき第1戦を勝利で飾った小島。

フィニッシュはもちろん、ラリアット。

この大会を観戦に来ていたのが、ハンセンだった。


大会翌日、小島の直訴が実り、ハンセンはリングに上がった。

「自分にラリアットを教えてほしいと言ってきた人間は初めてだ」

そう言ったハンセンは、若手選手を実験台に、

ウエスタン・ラリアットの打ち方を小島に直接指導した。


両者の接点は、ほぼそれだけ。

だから、小島と事前に連絡を取り合って、

対談の内容を2人で考えてみたのだ。


「もしかしたら、ボクのことをよく覚えてないんじゃないかなあ(苦笑)。

ラリアットを教えてもらったことも忘れられてるかもしれないし……」


本番直前になっても、小島は不安そうだった。

リング上の直接対決はなくても、ファン時代から憧れの存在。

小島にとっては、雲の上の大スターである。

だから、ラリアット談議のほかは、すべてファン目線で話を聞いてみよう。

小島とはそういう打ち合わせをしておいた。


ちなみに、通訳を務めてくれたのは、週刊プロレスの新井宏記者。

こういう場合、プロレスの分からない人物が通訳に付くと、

とんでもなく噛み合わず、間の空いたトークとなってしまう。


そういう意味で、今回、新井記者には本当に感謝している。

彼の機転の利いた通訳ぶりはお見事だった。

番組が成立しえたのは、新井記者の力量によるところが大きいのだ。


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小島の不安は杞憂に終わった。

ハンセンは、その当時のことをハッキリと覚えていたし、

それ以降の小島の試合もしっかりチェックしていたのだ。


「キミは浜口ジムの出身だから、基本も心構えもできている」


予備知識など与えていないのに、

小島がアニマル浜口ジム出身だということまで理解していた。

本当に、ハンセンの記憶がクリアなのには驚いた。

その答えにもインテリジェンスを感じる。


もう、ブルロープを振り回す必要がないから、

プライベートに近い本来の姿を見せてくれたのだろう。


印象的だった言葉がいくつかある。

小島が、ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ、テリ―・ゴディ、

テッド・デビアスらの名前をあげて、誰がベストパートナーだったかを尋ねたとき。


それ以前に、ハンセン自身のベストバウト、対戦した中でベストな選手を聞いたときは、

猪木、坂口、アンドレ、馬場、鶴田、天龍、長州、三沢、小橋、川田、ベイダ―など、

どれにも順番はつけられないほどエキサイティングだったと言っている。

ただ、パートナーに関しては即答した。


「それはブロディだよ。唯一無二の最高のパートナーだった」


若手時代から、米国ミッドサウス地区で苦楽を共にしてきたハンセン&ブロディ。

まだ食えない時代には、2人で無銭飲食まがいのこともしたという。

そのエピソードを本人の口から聞きたくて、小島に強引に振ってもらった。


「えー、そんな話、聞けませんよー!」と言いつつも、

小島が思い切って振ってみる。


「若くてまだ食えない頃、ブロディさんと食い逃げしたことがあるって本当ですか?」


それを聞いたハンセンは「覚えてないなあ!」と、トボケてから爆笑。


「いいことばかりじゃなくて、まだ若いころにはよくないこともしてしまったね。

日本に来てからは、最初は他のガイジンと同じでファーストフードばかり食べていた。

だけど、日本食を試してみて焼き鳥とか美味くてねえ。

ブロディと『あの店がおいしい』とか情報交換して一緒に行ったよ。

しゃぶしゃぶとか焼き鳥も好きだし、一番好きなのが典型的な和食。

納豆とか卵が好きで、体も日本スタイルになってしまった」


小島が、レスラーとしてのメンタルな部分に迫った。


「プロレスラーになって一番楽しかったこと、そして辛かったことは?」


「楽しかったのは、リングに上がって試合をすることそのものだよ。

メガネをはずしてリングに上がって、スタン・ハンセンになる瞬間だろうね。

反対に、辛いのは怪我をしたときと、遠征で家族と離れてしまうことだね」


「まったく同じです!

ボクもキャリア20年、41歳になります。

ハンセンさんは45歳になっても三冠ヘビーを巻いていましたね。

51歳で引退を決意したときには、どう決断したんですか?」


「自分に限界が来るとしたら、それは自分のキャリアを考えたとき、

フィジカルよりメンタルな部分が壊れたときだと思っていた。

だけど、実際にはフィジカルのほうで限界を感じたんだ。

天龍と対戦したあとに伸びてしまって、スティーブ・ウイリアムスに

控室まで運んでもらったときに、それもよく覚えていなくて……そのあとかな」


「自分も身体はボロボロなんですけど、

これからもプロレスラーとして頑張っていくためのアドバイスをください」


「ユーは他の誰でもない、キミ自身なんだよ。

自分の体、コンディションは自分が一番よく知っている。

キミはグッドシェープだし、それを守っていけば大丈夫だよ」


最後に、小島には英語でハンセンに御礼とメッセージを言ってもらった。

「それは私に日本語で話せというぐらいの難題だな」と微笑するハンセンに向けて、

精一杯の感謝の気持ちを伝えた小島。


最後は、ウエスタン・ラリアットの共演ポーズ。

小島にとっては、緊張と至福の90分間だった。


そして、翌14日の20周年記念試合(小島聡&カズ・ハヤシvs天山広吉&FUNAKI)。

サムライTV中継のゲスト解説を務めるハンセンの目前で、

小島は見事なウエスタン・ラリアットを決め、20周年興行の有終の美を飾った。                                

 

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ハンセンはもちろんのこと、師匠のアニマル浜口さん、

小島にとって高い壁として立ちはだかった川田利明、

さらにサプライズゲストとして、完全に袂を分けたと思われていた武藤敬司まで登場。

そのリング上には、小島聡の20年分の歴史がギッシリと詰まっていた。

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さて、小島に続いて登場してもらったのは天龍源一郎。

この両雄、生まれ年はハンセンの方が1年早いのだが、

日本流にいうと、天龍は早生まれのため同学年に当たる。


そのことは、両者ともちゃんと知っていた。

今回、初めて明かされたのは、

天龍の米国マット修行時代から2人が顔見知りであったこと。

ジョージア地区では、偶然にも同じアパートに住んでいたこともあるという。


「スタンの部屋に招待されたときに、こうボロアパートだから部屋の中が薄暗くてね。

それで、薄暗いって英語でなんて言うのか分からないから、『ダークライト』と言ったんだよ。

そうしたらもう、スタンはその話だけで3時間ぐらい笑いっぱなしで。

『ダークライト』って一体どういう英語なんだって(笑)。

それから、新日本から全日本プロレスに彼が移ってきて、

最初にオレの顔を見たときに、『ダークライト』って言ったんだよ(笑)」


その話を聞いて、ハンセンは爆笑。

もう天龍が遠慮なし、

単刀直入に突っ込んでくるものだから、

笑いながらもタジタジとなる。


「スタン、なんで新日本から全日本に移ったの?」


「ミスター・ババは全日本にチェンジを求めていた。

それまではドリー・ファンクやハ―リー・レイスのような、

いわゆるNWAチャンピオンスタイルが主流だった。

だけど、馬場さんは『キミのアグレッシブなスタイルが欲しい。そのままでやってくれ』と」


「へぇー、馬場さんがそんなこと言ったの?

初めて聞いたなあ…。

でも、スタンがそういうスタイルを持ちこんでから、みんな変わっていって、

それが三沢とか小橋とかに受け継がれていったんだよね」


こういう調子で遠慮なく話せるところに、この2人の信頼関係が見え隠れする。

もちろん、壮絶な闘いを重ねてきた上での絆があるからだ。


「スタンの(ブルロープの)カウベルで二回も頭を殴られたのはオレだけだよ!」

「記憶にないなあ(笑)…でも、お返しに自分もやられたことがあるからね」


このやりとりを聞いて、あの話を振ってみようと思った。

実は事前の打ち合わせの際、天龍に提案してみたところ、こう言われていた。


「オレは構わないけど、スタンがどう思うかだね。

オレはいいよ、そこは金沢クンに任せるから」


あの話とは、秋田における伝説的な”ハンセン失神事件”のこと。

1988年3月5日、秋田市体育館で事件は起こった。

当日は土曜日で、日本テレビが生中継している。

そのメインカードが天龍&阿修羅・原の龍原砲vsハンセン&テリ―・ゴディ。


4日後に開催される3・9横浜文化体育館でのダブル・タイトル戦の前哨戦でもあった。

ちなみに、3・9横浜大会では、

UN王者・天龍が、PWF王者・ハンセンを破り2冠王となっている。


さて、問題の秋田大会。

開始から10分過ぎ、龍原砲がハンセンにサンドイッチ式ジャンピングキックを放った。

原の一撃は首筋あたりにヒットしたが、

天龍の蹴りはもろにハンセンのアゴを捉えた。


蹴った直後、天龍が自分の足を押さえ苦痛の表情を浮かべるほどの破壊力。

ハンセンは大の字に伸びたままピクリとも動かない。

慌てたゴディがハンセンの手を取ってコーナーまで引きずろうとしても、まったく動かない。

とにかく、天龍と原を場外へ放り投げ、ゴディは体裁をつくろった。


時間にして、約30秒…。

ムクッと起き上がったハンセンは我に返ったようだった。

その後が凄まじかった。

場外の天龍をめがけ、一直線のトぺスイシ―ダ。

私が座っている記者席の目の前に130kgの不沈艦が飛びこんできた。


その後は、ハリケーンが通り過ぎたかのようだった。

天龍を客席に放り込み、次々とイスを投げつけ、さらに殴打。

髪を掴んで引きずりまわし、カウベルで殴りつける。


もう、こうなるとされるがままの天龍。

下手に反撃でもしようものなら、もっと凄惨な事態に発展していたかもしれない。

レフェリーもセコンドも荒れ狂うハンセンを止められない。

パートナーのゴディでも制止不可能。


百田光雄が血相を変え、「早くゴング鳴らして!」と本部席にゴングを要請した。

結果は、両チーム反則という裁定。


試合後も恐ろしかった。

我々マスコミは当然のように、天龍同盟の控室へコメントをもらいに入った。

すると、体育館の廊下で暴れまわるハンセンの声が徐々に近づいてくる。


「テンル―! テンル―!」


そう叫びながら、順番に部屋のドアを開けているのだ。

この恐怖感といったら、よくホラー映画に出てくるシーンそのまま。

トイレの個室に隠れていたら、何者かが端から一つずつドアを開けて確認していく…

まさに、その場面を思い出した。


そこへ和田京平レフェリーが飛びこんできた。


「ハンセンが天龍さんを探して、まだ暴れまわっている!

(記者団を指して)アンタたちも早く出たほうがいい」


出たほうがいいと言われたって、出たくても出られない。

いま、通路に出たらハンセン台風の直撃に遭うことは間違いないのだから。


「カギを閉めろ! 

ファ××ユーだよ!」


天龍がそう吐き捨てると、若手選手がドアのカギを閉めた。

幸いにも、ハンセン台風は天龍同盟の控室の直前まで来て、

引き返したようだ。


あとで聞くと、グレート・カブキが「こっちにはいない」と言って、

うまくハンセンを追い返してくれたらしい。


これが秋田事件の顛末。

過去、この話はハンセンの前ではタブーとされてきた。

だが、「お返しに自分もやられた」という一言は

秋田大会のことを指してものと勝手に判断した私は、

タイミングを見計らって、新井記者を通じて振ってみた。


話に耳を傾けていたハンセンの表情が徐々に険しくなっていった。

終始和やかだったムードに緊張が走る。

天龍はといえば、「オレは知らないよ」とばかり、

苦笑しながら、TVカメラの後ろにいる私を指さした。


これは、ヤバかったかな!?

一瞬、後悔しかけたが、カタイ表情ながらも

ハンセンはしっかり答えを返してくれた。


「オレは失神はしていない。

ダウンしただけだよ!

プロレスは、ビジネスであると当時にコンペティション(競争、競技)でもある。

だから、そういうことだってあり得るんだ。

それは、あのときはムカついたよ。

でもコンペテションであるからには、そういうことだって起こるんだよ。

プロレスにはそういう楽しみもあるってことだから」


「なるほどねえ。

スタンとはそうやって激しくやり合ってきたからこそ、

今こうして素直に楽しく昔話が出来るんだろうね」


天龍も納得の表情。

最後に、来年、腰の手術に臨む天龍に対し、

過去、膝に人工関節を移植するという大手術を経験したハンセンがメッセージ。


「大丈夫、必ず成功する。そう祈っているよ」


「スタンに勇気をもらったよ」


90分にも及ぶロング対談が終わってからも、

2人はしばらく語り合っていた。


私自身も伝説の不沈艦・ハンセンと一緒に過ごすこと、約5時間。

思いもかけない、充実した誕生日となった。


「サンキュー・ソーマッチ。長い長い時間、本当にありがとうございます」と御礼を言うと、

「楽しかったよ。こちらこそありがとう!」と、

ハンセンは最高の笑顔と握手で応えてくれた。


◎サムライTV『Versus♯57 スタン・ハンセンvs天龍源一郎』

 12月31日(土)、25:00~26:00放送、他。


 『Versus スタン・ハンセンvs小島聡』

 2012年1月~3月に放送予定。