当ブログで触れるのが遅くなってしまい申しわけない。

11・16後楽園ホールで開催された金原弘光デビュー20周年興行

『UーSPIRITS』は期待以上の面白さで、予想以上の明るい空気に包まれた。


それを演出してくれたのは、熟成したプロレスファンたち。

主役の金原は大会前、「青春時代に帰ってください」と言い、

大会後には、「UWFはボクの青春でした」と語っている。


その言葉通り、Uに夢を見て、その虜になったファンもいれば、

Uから先を追い求めたファン……

それこそUに裏切られた思いで

総合格闘技にのめり込んでいった元プロレスファンもいたことだろう。


さらには、何でも受け入れる、何でも見てやろう精神を持つ懐の深いファン

(※たとえば、ハチミツ二郎さんタイプ=やっぱりご本人は来場)もいる。


それら、あらゆるファンが我が青春の『U』の名のもとに結集した感じ。

こうして私らしく理屈をこねてみたけれど、つまり理屈はいらない。

その証拠に、オープニングの全選手入場式の際、

主役・金原に負けないほどの大歓声で迎えられた男が天山だった。


後楽園ホールは、本当に心地よいカオス状態に包まれていた。


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写真にあるように、サムライTVの解説は山崎一夫さん。

ある意味、Uの生き字引。

本人は「最近の選手はよく知らないから、横に座って助けてくださいよ」と

笑っていたものの、この人以上の適任者はいない。


また、試合前のバックステージで意外な人物と出くわした。

ノアの丸藤正道である。

11・27有明コロシアム大会で7ヵ月ぶりの復帰戦を行なうが、現在は欠場中。

かといって、この大会と丸藤にはまったく接点が見当たらない。


「自分の試合がなくて、こういう興行を観に来るのは気楽でいいですねえ」


そう言って、例の人懐っこい笑みを浮かべていた。

そのときは、来場の意味が分からなかったが、あとになって気が付いた。

ホール入口に佐野巧真からのお祝いの花が飾られていたからだ。


佐野といえば、新日本育ちにして、SWS、Uインター、キングダムで活躍し、

その後、ノア所属として今も第一線で奮闘している。

本来であれば、この同窓会に必要不可欠な選手。


ただし、ノアは『グローバル・リーグ戦2011』のシリーズ中であり、

佐野もリーグ戦にエントリーしている。

16日はオフとなるが、翌17日の旭川大会では、

Ⅴ候補の佐々木健介との大切な公式戦が組まれている。


おそらく、ホームを優先させるため、断腸の思いながら

金原のオファーに応えることができなかったのだと思う。

そこで、副社長でもある丸藤が直接会場に足を運んで義理を通したのではないか?

本人から聞いたわけではないが、丸藤ならそうするだろう。

このあたりに三沢光晴譲りというか、丸藤の人間性が現れているような気がする。


もう一人、バックステージで印象深かったのが望月成晃の様子。

ドラゴンゲートの王者という立場でありながら、

ファン時代からの憧れだったUへの初参戦。

しかも、対戦相手は一夜限りの復活を果たす垣原賢人。

百戦錬磨の男には珍しく緊張の面持ちに見えた。


「さすがのモッチ―も緊張気味ですかね?」


「やっぱり客席の空気が掴めないんで…

『オマエは北尾道場だろ!』とか言われたら、どうしましょうか?」


ジョーク交りながら、やはりソワソワした感じ。

もちろん、それも杞憂に終わった。

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望月はカッキ―復帰戦の大役を見事に務め、王者らしく勝利を収めている。

一方、現役時代さながらにスピ―ド感溢れるファイトを披露した垣原は、

試合後、完全復帰宣言をしている。


話は前後するが、オープニングマッチに登場したのが中野龍雄(現・たつあき)。

彼の試合を観るのは何年ぶりだろうか?

旧・無我の大阪大会で会話したのが最後と記憶しているので、

10年以上も前のことかもしれない。


無論、旧UWF時代から知っている仲だ。

驚いたのは、46歳になるというのに、コンディションがよく、キレがあること。

体型も風貌も変わっていないし、なんとバリバリの松井大二郎に快勝した。


試合後、ひとしきりコメントを終えた中野が、

私の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。


「久しぶりっすねえ! すいません、ちょっと名前が出てこなくて…」


「週刊ファイト、週刊ゴングにいた金沢ですよ」


「そう、金沢さん! すいません、あのときお見舞いに来てくれてねえ、嬉しかったすよ!」


あのときのことを、中野はまだ覚えてくれている。

平成元年だから、もう22年以上も前の話。

1989年春、その頃の中野は精彩を欠いており、試合で連敗が続いた。


新生UWFのビッグマッチ、5・4大阪球場大会から欠場した。

原因は内臓疾患と発表されていたが、実際にはウイルス性肝炎を患っていたのだ。


ちなみに、この5・4大阪大会(メインイベント=前田日明vsクリス・ドールマン)では、

船木優治(現・誠勝)、鈴木実(現・みのる)のUWF移籍第1戦が組まれている。

結果は、船木が藤原喜明(※こちらもU移籍第1戦)に敗れ、

鈴木も宮戸茂夫(現・優光)に敗れている。


本当なら、中野が鈴木の対戦相手を務めるはずだった。

大事な一戦を控えながらドクターストップとなった中野は緊急入院。

そのとき、私はプライベートで中野のお見舞いに行った。


「医者からは引退しなさい!って言われたんですよ」


本人の口から、そう聞いたときには驚いた。

「プライベートで来たんだけど、そういう病状を記事にしてもいいんですか?」

一応確認してみたところ、中野はニコッと笑ってこう言った。


「わざわざオレの見舞いに来てくれたんですから、金沢さんにお任せしますよ。

それにオレ、引退なんかしません、意地でも復帰しますからね!」


中野の気持ちは痛いほど理解できた。

なぜなら、私自身も当時、同じ病気に苦しんでいたから。

19歳の夏、手術を受けたのが原因でウイルス性肝炎を患い、

完治するまで8年もの歳月を要した。


27歳の夏、T病院の名医に出会わなかったら、

とうの昔に命をなくしていたと思う…。

中野も意地と執念で(?)で病を克服し、のちにカムバックしてきた。


ところで、引退勧告までされた中野の記事を書いた媒体は、

なんと『週刊プロレス』の増刊号(5・4大阪球場速報号)だった。

『週刊ファイト』の記者時代、私は週プロ本誌も含め

三度、同誌にペンネームで寄稿している。


というのも、当時のターザン山本編集長がファイト出身であり、

週プロとファイトは連携している部分があったので、

そういった仕事も暗黙のうちに容認されていたのだ。


そのときの記事が、あまりに中野の病状を詳細に記述していたため、

増刊号の編集担当者が驚いていたのを覚えている。

そんな昔話を思い出しているときに、出番を控えた天山が

コスチューム姿で控室から出てきた。


突然、中野が話しかける。


「ああ、天山選手! オレ、あんたの生きざま好きだよ。

そんなに新日本の試合を観てるわけじゃないけど、天山選手だけは好きだから。

生きざまが、心に響いてくるもんな!」


初対面で、いきなり業界の大先輩に褒め称えられ、

天山は恐縮しきり(笑)。

なにか思いもかけず、いいシーンを見たなあと思った。


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中野にベタ褒めされた天山は、新日本プロレス学校同窓会マッチで、

同期の西村と抜群のタッチワークを披露して、サスケに快勝した。


私見でいくと、もっとも緊張感に包まれていた試合が、

高山善廣vs高橋義生の正真正銘の初遭遇。

高橋は当然として、高山の構えはまるで総合格闘技仕様。

その距離感が、堪らない緊迫感を生む。


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1997年2月、高橋は『UFC12』でヴァリッジ・イズマイウを破り、

日本人として初めてUFCで勝利を挙げている。

MMAにおける日本人ヘビー級ファイターの中で、

もっともパンチの技術に長けているのは誰もが認めるところだ。


だが、この日はグローブを装着していないため、

久しぶりにレスリングで勝負を仕掛けていく。


もちろん、レスリングでも強い。

日大時代は藤田和之の先輩にあたり、

高校時代は鈴木みのるの最大のライバルであった。


また、ケンドー・カシンが総合格闘技に出場するときには、

そのトレーナーを務め、常にセコンドに付いていることも御存じだろう。


高橋のタックルに、あの高山がおもしろいように転がされてしまう。

中盤までは完全な高橋ペースで、高山の汗の量が目立つ。

しかし、捕まえて首相撲になると、やはり高山の強さが発揮される。


膝蹴りで追い込んでから、豪快に叩きつけるエベレスト・ジャーマンでKO。

あのゲーリー・オブライトを彷彿させるような投げっぱなしだった。

あとで解説の山崎さんとも話したのだが、

やはりU仕様で当日のマットは固かったようだ。


スープレックスが一撃必殺となるのだから、いかにもUらしい。

というか、プロレスの原点とも言えるだろう。

試合後、高山は素直な心境を話してくれた。


「正直あのスタイルでやることにも怖さを感じたし、

高橋義生という男とやることも怖かったよ!

だけど、高橋選手はいいキャラですね、もっとプロレスで活躍してほしい」


私も同感だ。

高橋のように、強さを感じさせる選手はそうそういない。

単に強いというより、そういう空気、雰囲気を漂わせているのだ。


大会終了後、高橋とも立ち話をした。


「今になって、凄くプロレスの魅力を感じているところがあるんですよ。

最終的に残るのはプロレスだって、言われるのもよく分かるし。

鈴木みのるなんか、怪我もあって総合で通用しなくなったとき、

シフトチェンジしてプロレスに戻ったけど、成功しましたよね。

もう生き生きとして、素晴らしいじゃないですか?

自分の中では、本気でプロレスやりたいなあって思いもありますよ」


永遠のライバルである鈴木の活躍に影響されたところもあるのかもしれない。

ただし、高橋自身の中でも確実に心境の変化があるようだ。

高橋には雰囲気もあれば、感性もあるし、プロレスセンスも充分にあると思う。


タイプ的には、杉浦貴プラス藤田和之といった感じ。

こんな男が、もし鈴木のパートナーや、高山のパートナーにでもなれば、

また面白い世界をのぞけるような気がする。


メインイベント(金原vs鈴木)は、本当に素晴らしかった。

まさに、UWFを見ている気がした。

懐かしのUスタイルでありながら、プロレスとしても大満足。


前半は、流れるようなグラウンドの攻防。

関節技を狙って、足、腕を取り合う。

クルクルと曲面が変わり、どちらかが必死にロープへ手を伸ばすと大歓声。


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中盤から十八番の蹴り、膝で猛ラッシュを駆ける金原。

この積極果敢な姿勢が金原らしさであり、修羅場の経験値を物語っている。

なんと鈴木が二度のダウンを喫した。


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ハラハラドキドキしながらも、いつまでも見ていたい、浸っていたい……

リング上の2人に感情移入するファンから、そういうムードが伝わってくる。

それに終止符を打ったのは鈴木のスリーパーだった。


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敗れても笑顔の金原はマットに正座した。

あの鈴木が照れた顔で「それはいいよ」という仕草を見せる。

結局、鈴木もそれに応えて、座礼した。

ホールは拍手で沸きかえる。


その後、鈴木は金原のレガースに描かれた『U W F』の三文字を、

一つ一つ指でさしながら、なにかを語り掛けた。


「UWFを頼むな!」とでも言ったのだろうか?


リングを降りた鈴木は、2008年6月17日(後楽園ホール)の

デビュー20周年興行でのモーリス・スミス戦(エキジビションマッチ)以来、

3年半ぶりに装着したレガースを外すと、客席に投げいれた。


そう言えば、レガースを装着したにもかかわらず、

試合中、鈴木は1発の蹴りも出していない。

金原のU魂に応えるための粋なレガース姿だった。


「オレはプロレスラーだ、オレは鈴木みのるだ!」


最後のパフォーマンスは、そんな無言のメッセージなのだろう。

マイッタ、やられた、シビれた!

ちょいとばかり、格好よすぎじゃないか!?


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エンディングは、全選手が笑顔、また笑顔で記念撮影。

金原も最高の笑顔をのぞかせた。


「みんな喜んでくれましたか?

ボクの原点は人を喜ばせることというのを最近忘れていたんですよね。

それを思い出せてよかったです。

UWFはボクにとっては青春なんです。

ボクの20周年は、U系がUインター、藤原組、リングスの3派に

分かれたときの20周年でもあるんです。

ちょうど分かれたときに入門したんで」


そう言われて、改めてその史実を認識した。

Uの魂は、今も健在なり!


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 ◎お知らせ

 今回、上写真のように携帯サイト『Kamipro Move』で取材申請をしました。

 12月14日より、同サイト名が『KAMINOGE Move』に名称変更されます。

 今後も、私の連載コラムは続行されますので、よろしくお願いします!