8・14両国国技館。

『G1クライマックスⅩⅩⅠ』最終戦にして、優勝決定戦。


この日へ向けて、みんなが闘ってきた。

エントリーした20選手はもちろんのこと、関係者、スタッフ、マスコミ。


もちろん、試合や結果に一喜一憂しながらG1を見守ってきたファンも、

一緒に闘っていたことだろう。


1991年夏、27歳の蝶野正洋が第1回『G1』で頂点に立った。

座布団が舞う国技館で、闘魂三銃士(蝶野、武藤敬司、橋本真也)が両手を高々と突き上げた。

あのとき、私は29歳。


『週刊ゴング』の新日本担当記者として、巻頭カラーグラビアを受け持った。


「蝶野正洋・27歳、新日の頂点に立つ!」


そう大見出しを打ったのを覚えている。

いま振り返れば、なんの変哲もない、おもしろ味のない見出し。

ただ、当時は驚きが先に立った。


27歳という年齢で頂点に立つことじたい、プロレス界の常識を覆す出来事だった。


07年に初優勝した棚橋弘至=30歳。

08年に初出場・初優勝した後藤洋央紀=29歳。

もし今年、準優勝の内藤哲也が優勝していたとしても、29歳だ。


それほど、『G1』が残したインパクトは強烈で、プロレス史を変えるイベントであった。


あれから20年、いまも『G1』を最前線で取材し続けている自分がいる。

そして、20年が経った今も、緊張感に包まれ、達成感に酔いしれ、我を忘れるほどに

のめり込んでいる自分がいる。


49歳、変わらない自分。

それを実感させてくれる舞台が『G1クライマックス』なのかもしれない。


今年の『G1』両国大会は最終戦のみの開催となった。

かつては、両国3連戦が当たりまえ、その上をいく5連戦どころか、7連戦という、

とんでもない企画にチャレンジしたこともある。


ただし、連日満員というのは至難の業。

いずれにしろ超満員となるのは、最終戦の優勝決定戦。

それを考えると、今年は勇気ある選択をしたと思う。


試合開始は午後3時。

当日は、テレビ朝日による収録とスカパー!PPV生中継がある。

さらに、劇場公開用の3D収録も併せて行なわれる。


午後1時前に国技館へ。

快晴、照りつける太陽。そして、アスファルトからの照り返し。

両国駅から国技館まで、わずか徒歩3分の距離なのに汗が噴き出す。


これが21年通い詰めた『G1』の象徴的シーン。

開場前の国技館に入っていく緊張感、高揚感、期待感にはたまらないものがある。


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取材、制作打ち合わせを終えてから、普段より早めにリングサイドの放送席へ。

劇場公開3D映像用に、解説陣、実況陣の紹介用の絵を撮るため。

ひさびさの『ワールドプロレスリング』カムバック&実況に意気込む大西洋平アナウンサー。

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私は、第6試合~メインイベントまでの解説担当なので、

大会スタート前に桝席の最高峰をグルっと回って国技館の入りを確認してみた。

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これが、第1試合開始前の画像。

掛け値なしの超満員札止め、観衆1万1500人。

これほどビッシリと埋まった国技館を観るのは、いつ以来だろうか?


試合開始前に、尾崎リングアナから全カードのアナウンスがある。

このときのファンの反応が、試合に対する期待度を正直に示している。


もっとも観客が沸いたのは、中邑真輔vs鈴木みのる。

二番手が、天山広吉vs小島聡。

三番目が、棚橋弘至vs内藤哲也。


ファンは正直だ。

私の期待度もその通りの順番である。


Aブロック最後の公式戦。

王者・棚橋が敗れた。

内藤の決勝進出が決定。


開幕3連敗からのビッグカムバック。

開幕戦となった8・1福岡大会の夜を思い出す。

福岡からの2連戦、G1の最中とあって、街へ繰り出す選手の姿は見受けられなかった。


当日、テレ朝『ワールドプロレスリング』スタッフとの食事会&反省会のあと、

新日本の関係者と合流するために、中州の街を歩いていた。

たまたま、ホテルに戻る途中だという内藤にバッタリ出会った。


ライバルでありパートナーでもあった高橋裕二郎に完敗を喫した内藤。

予告していた新技(エボルシオン)どころか、スターダストプレスも不発のまま終わった。

少しばかりの立ち話。


「今日は、内藤選手だけがイマイチだったね!?」


「そうですかあ……。なにか皆さんの期待が異常に大きくて驚いてるんです」


「そりゃあ、期待するよ! ファンの期待度も、マスコミの期待度でも№1ですよ」


「うーん、正直いって、メキシコ帰りで体が思ったように動かないんです」


私は、内藤の性格も知っている。

飄々としていて、温和なタイプに見られがちだが、これほど負けず嫌いな男もいない。


8・11代々木大会の第1試合では、ヒデオ・サイト―を破った内藤。

その後、アリーナの後方で試合を観ている内藤と、また立ち話をした。


「今週、ボクが週プロさんの表紙になっていてビックリしましたよ。

ノアさん、ZERO1さんとビッグマッチがあったのに、申しわけないような気持ちで……」


「期待感の現れでしょう。それだけG1のブランドはスゴいということでもあるんじゃない?」


「そうですか……最後までがんばります!

後楽園のバーナードさんとはシングル初めてなんで不安があるんですけど、

棚橋さんとは大丈夫です、何度もやっているから自信があるんですよ」


この自信というのが、試合内容にあるのか、勝負を指すものなのかは聞かなかった。

結果的に、どちらにも自信ありだったのかもしれない。

昨年の1年間で、棚橋との対戦成績=1勝2敗1分け。


この経験と負け越した悔しさが、今の内藤のバネとなりモチベーションとなってきた。

決して、番狂わせとも意外な優勝決定戦進出とは思わない。


第6試合のBブロック公式戦から放送席に座った。

前日、鈴木みのるを破る大金星をあげたストロングマンがⅤ候補の後藤まで食った。


筋肉装備のデクの坊。

口の悪い関係者は、ストロングマンをそう称している。

その筋肉マシンが人間の表情を見せた。


苦痛に顔をしかめながら、何度となく立ち上がる。

後藤をブロックバスターで倒し、ストロングマンが歓喜の雄叫びをあげた。

価値ある2勝が、中西の抜けた穴をなんとか埋めてみせた。


カール・アンダーソンvsMVPは、新日本流のガイジン対決となった。

無名のチャド・アレグラから”ザ・マシンガン”に成り上がった雑草のアンダーソン。

元WWEのスーパースターながら、新日本プロレスに憧れ続けていたMVP。


ともすれば、大味になりがちの外国人対決であるが、緻密な攻防が展開される。

新日本流の試合を制したのは、新日本マットの先輩、アンダーソンだった。


第8試合。

国技館が異様な空気に包まれる中、テンコジが対峙。

特別な闘いだ。

小島は勝たなければ優勝決定戦進出ラインには届かない。

天山はすでに脱落している。


それでも特別な闘い。

『G1』のドラマを超えた、2人だけのドラマ。

私は、新弟子時代から2人を知っている。

練習生のころから、彼らを見てきた。

そこには20年間、紡いできた2人だけのストーリーがある。


2002年1月、新日本を退団し、武藤とともに全日本への移籍を表明した小島。

後楽園ホールで、新日本所属として最後のテンコジタッグを結成した。


試合後、先に花道を引き揚げる小島に向かって、マイクを手に天山が吠えた。


「コジー!とっとと出て行きやがれ!」


ひとりで引き揚げてきた天山は険しい表情を崩そうとしなかった。

控室へと続く階段を下りてきた天山と目が合った。

私は黙ってうなずいた。


次の瞬間、天山の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「なんで編集長、そこにおるんや! ずっと堪えて我慢していたのに……」


そう言って、天山は泣き崩れた。

心優しき猛牛が子どものように泣いた。


20年のテンコジ・ストーリー。

ずっとテンコジという序列は変わることがなかった。

海外修行から凱旋した小島は、なにをやっても「天山のモノマネ」と揶揄されてきた。


2人の序列が大逆転したのは、あの闘いだった。

2005年2月、両国国技館でのIWGP&三冠ヘビーのダブルタイトル戦。

59分45秒の死闘。


だれもが時間切れドローを確信し始めた中、

脱水症状で天山が倒れた。

時間切れ15秒前の失神KO劇。


この瞬間、史上初のメジャータイトル同時制覇を達成した小島と、

醜態をさらした天山の序列が入れ替わった。


その後、IWGP戦、G1優勝戦と天山が2連勝しても序列が覆ることはなかった。

ダブルタイトル戦のインパクトがあまりに強烈すぎたからだ。

特に、ここ数年はグッと差が開いた。


肩、首の故障から満足なファイトができない天山は引退の瀬戸際まで追い込まれた。

一方の小島は全日本を退団し、昨年夏、フリーとして新日本マットに帰ってきた。


『G1』を制覇した小島はIWGPも奪取。

その陰に隠れるように、昨年11月、天山は新木場1stRINGという小さなハコで復帰した。

復帰した天山を突き動かすものは、小島へのジェラシーと意地だけだった。


もの凄い試合となった。

天山の表情には鬼気迫るものがあった。

8・5中邑戦以上の気持ちが溢れ出ている。


対する小島は冷静に燃えていた。

いや、冷酷な感じにさえ見えた。


当然のことなのだが、当然のようにヤワな仕掛けなど一切ない。

手負いの猛牛相手に、小島はなんの容赦もないのだ。


10分が過ぎて、戦慄すべきシーンが訪れた。

天山がムーンサルト・プレスをアピールしてトップロープへ。

周知の通り、天山のムーンサルトは表裏一体。


危険な匂いが漂い始める。

そこでスクっと起き上った小島は、天山の体勢を崩すとそのままネックブリーカー・ドロップ。

落下した天山の首がグニャリと折れ曲がった。

曲がった首に自分の全体重が圧し掛かった格好だ。


それを目の前で観た放送席は騒然となった。

よく覚えていないが、「これはもう試合を止めたほうがいい!」というようなことを

私も言ったような気がする。

コーナーでピクリとも動かない天山。

本当に命に関わると思ったのだ。


ところが、天山は立ちあがった。

あり得ない。

意識はあるのか、記憶は飛んでいないのか?


そればかりを心配していたが、まるでなにかに憑かれたようにラッシュする天山。

ついに奥の手・オリジナルTTDで小島を沈めてしまった。


15年前、中西学を病院送りにして以来、禁じ手としてきたオリジナルTTD。

以来、解禁したのはこれが3度目。

すべてが小島とのシングル戦だった。


こんどは小島の首が心配だった。

それでも小島は自力で歩いて引き揚げた。

本当に、これこそ命のやり取りではないか?


この試合には後日談がある。

次のBブロック最終公式戦(中邑vs鈴木)終了後、10分間のインターミッション。

テレビ朝日の控室へと戻る。


テレ朝の控室は、国技館の地下駐車場口の手前にある。

そこに小島夫人が愛娘の手をひいて立っていた。

小島夫人とは古くからの知り合いだ。


「この子が寝てしまったので、私は試合が観られなかったんですけど、

主人が怪我をしたようで病院に行くみたいなんです。

いま救急車の手配をしてくださってるということで……。

金沢さん、試合はどうだったんでしょうか?」


驚いた。

天山のほうを心配していたのだが、小島が病院に行くという。


「最後に頭から落ちたんで心配だったんですけど、自力で歩いて戻ったんで。

すいません、テレビ解説についていたからバックステージの状況がよく分からなくて」


そう答えるしかなかった。

休憩開けで放送席に戻ろうとしたところ、

ちょうど首を固定された小島がストレッチャーに乗せられ運ばれてきた。


あとで、三沢威トレーナーに確認したところ、頭を打ったのと、右の眼窩底骨折の疑いがあるという。

翌日、小島本人からメールをもらった。

右眼窩底骨折は見つかったが、脳と眼球の検査では異常がなかったという。


少し、ホッとした。

どうやら天山のマウンテンボムを食った際に、天山の肘付近が右眼を直撃したらしい。

予想外のアクシデントだった。


一方の天山からもメールをもらった。


「もうマジで首が折れたかと思いましたけど、生きてます。

痛いけど、めんどくさいので病院には行ってません。

本当に、ファンの声援が一番ありがたかったです!」


メールにも、かつての豪放らいらくな天山の匂いを感じた。

親友からの容赦ない攻撃によって、眠っていた猛牛が覚醒したのかもしれない。


まるで優勝決定戦のように爆発したテンコジ対決の次に、公式戦の最終試合。

G1公式戦のメインカードともいうべき中邑vs鈴木戦へ。

もちろん、勝者が優勝決定戦へ進出する。


少しづつ距離を詰めて中邑が低いタックルへ。

それをうまく切った鈴木。


その瞬間、頭をよぎったのは、2003年の5・2東京ドーム大会。

『アルティメット・クラッシュ』ルールで、新日本マットに初めて導入された総合格闘技。

新星・中邑真輔は、K-1の大巨人ことヤン”ザ・ジャイアント”ノルキヤと対戦。

ギロチン・チョークでノルキヤを倒し、一躍総合部門のヒーローとして喝采を浴びた。


同日、藤田和之vs中西学が総合ルールで対戦し、

ダブルメインでGHCヘビー級戦(小橋建太vs蝶野正洋)と、

IWGPヘビー級戦(永田vs高山)が開催されたと聞けば、思い出す人も多いだろう。


このとき総合マッチのゲスト解説を務めたのが鈴木みのるだった。

翌6月に、新日本プロレス登場、プロレス復帰戦を控えてのゲストだった。

中邑の試合を観ながら鈴木はこう分析した。


「中邑選手は凄く体が柔軟ですね。

だから背が高いのに低いタックルが上手いんですよ」


まあ、現実にリアルタイムで試合を観ながら

そんな昔の言葉を思い出してしまうのは私ぐらいだろうか(笑)。


両者のレスリングはじつに見応えがあった。

ところが、予想通りというか、あえてタイチが手を出していく。

しかも執拗に中邑に攻撃を加える。


鈴木は、ファンの期待する部分の反対をいこうとしているようにも見える。

自分をあからさまなヒールという立場に置きたいのだろうか?


ともに得意とする膝での攻撃が、有効打となる。

スリーパーホールドも互いに得意とするム―ブ。

実際に2人が肌を合わせてから、そのことに気がついた。


張り手の乱れ打ちからゴッチ式パイルドライバーを狙う鈴木。

この『G1』での必勝パターンだ。

これを中邑が切り返すと、ついに温存していた逆落としへ。


中邑がうまく着地した。

直後、飛びつき腕十字からから丸めこむ。

慌てた鈴木に至近距離からの左ボマイェ。


この一撃が顔面にヒットして、3カウント。

ダウンした鈴木の顔から血が滴っていた。

左の頬に切り傷、さらに鼻血が噴き出している。


リング下に転がり落ちた鈴木はそのまま鉄柵にもたれ掛かった。

たまたまなのか、そこを狙ってきたのか、放送席の真正面。

鼻血を噴き出しながら、鈴木は1人、1人の顔を確認するように移動してニタリと笑った。


とんでもない被害だった。

リングに向かっていちばん左端に座っていたのは、

テレビ朝日の三雲スポーツ局長、その横が篠原プロデューサー。


あろうことか、その御二方のYシャツとネクタイが鈴木のかえり血に染まる。

その横に私が座っていた。

鈴木は血を滴らせながら、グイッと顔を寄せてきてニタッと笑った。


私のシャツにも一点の血のシミが残った。

資料とテーブル上には、血の痕が点々と残された。

鈴木が放送席に残した爪痕か?


いや、これが新日本マットに残した彼の爪痕を象徴しているようでもある。

その後の囲み取材でも、あまりの迫力に取材陣はタジタジになったという。                                

                 

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ちなみに、PPV中継終了後、私はバックステージに行ってみた。

もう、ほとんどの選手が帰路についたようで誰にも会うことができなかった。

今年は国技館の決まりで、節電のため恒例の打ち上げパーティーは中止とされている。


「おーい、ジジイ!」


反対側の控室前から、大きな声が響いてきた。

帰り支度の鈴木みのるだった。

「オマエ」の次は「ジジイ」かよ、おいっ!(苦笑)。


私もテレ朝の控室へ戻るところだったので、駐車場へ向かう鈴木と並んで少し会話をした。


「全日本ではさ、いつの間にかどういう状況でもオレはベビーにされてたもんな。

武藤敬司と鈴木みのるは特別みたいな感じで見られて……。

だからヒールでおもしろかったよ。

ここの若いやつら成長してたな、みんな!」


鈴木の口から、少しばかりの本音が出てきた。

この男、どうしようもないほどにプロレスラーなのだ。


さて、長い長い私の文章も、いよいよ佳境に入る。

休憩を挟んでセミに組まれたIWGPジュニアタッグ選手権(APOLLO55vsゴールデン・ラヴァ―ズ)は、

やはり進化した”鉄板”ぶりを披露した。


重厚な試合が続く中で、いいスパイスとなったし、清涼剤にもなった。

ジュニアの試合が1つあるだけで、こんなにもムードが明るくなることも改めて知った。


いよいよファイナル。

ここまで完璧な試合内容を見せつけ、上がるべくして上がってきた中邑。

一方、苦しみ、葛藤し自分の未熟さも痛感しながら、這い上がってきた内藤。


タイプの違う両者の共通点を見つけるのは難しい。

あえて言うなら、プロレスラーとしてのパフォーマンスの魅せかたという部分か?

2人とも、そこはメキシコでの体験が大きい。

ルチャリブレの殿堂、アレナメヒコでル―ドを経験したことが財産になっている。


中邑はボディ狙いで、内藤は足殺しで攻める。

押され気味の内藤が、新兵器のエプロンからの水面蹴りでペースを五分に戻した。

さらに、予告していた新技エボルシオンも決まった。


対する中邑は、封印していたランドスライドへ…

と思いきや膝の上に叩き落とす。

ちょうど後藤の牛殺しの要領で決まった。


あっという間に20分が経過している。

終盤のノンストップの攻防は目が追いつかないほど。

最後は渾身の左ボマイェがトドメとなった。

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8度目の正直。

あの橋本真也さんと同じだ。

ミスターIWGPと呼ばれながら、なかなか届かなかった『G1』の頂。


中邑にとっても、近くて遠い『G1』王者への道だった。

考えてみると、IWGP王座に関しても負け続けている。

この1年で、3度挑んで3連敗である。


王者・棚橋は素晴らしい内容の防衛戦を重ね、ファンの絶大な支持を得た。

その間、音なしの構えで、派手なアクションを起こすことのなかった中邑。

両エースの間に大きな差がついたようにも思えた。


しかし、中邑はこの優勝で、その差をチャラにしてみせた。

いちばん大切な試合内容で、モノ言わぬアピールを続けた。

MVP戦に始まって、小島戦、天山戦、井上戦、アンダーソン戦、後藤戦、鈴木みのる戦。


どれもが名勝負たりえた。

これほど内容の充実したG1覇者は、かつていなかったかもしれない。

最初に頂を見ることなく、1戦1戦、中邑は自分自身と闘ってきたように感じる。

   
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自分に課したハードルを越えることが、彼の最大の喜びであったのかもしれない。

キャリア9年にして、他の選手の何倍もの経験を積んできた。

訳の分からないまま、デビュー早々に総合のリングに駆り出された。


大好きなプロレスが元プロレスラーの格闘家によって貶められた。

黙ってはいられないから、IWGPのベルトを持参して大晦日『K-1』のリングに立った。

ところが、アウェイのリングには罠が張り巡らされていた。


純粋な思いが踏みにじられた。

プロレスを守るつもりが、プロレス側からも批判を浴びた。


プロレスと総合格闘技が混然としていた時代。

「一番スゲェ―のはプロレスなんだよ!」

そう叫んでも、素直に受け入れてくれるファンばかりではなかった。


時代は流れ、格闘技バブルは終焉を迎えた。

プロレスラー中邑真輔は、プロレスラ―としての自分を磨き続けた。

いま、新日本プロレスは完全復活の手ごたえを掴みつつある。


2011年、8・14両国国技館の空間は、

座布団が舞った91年の革新的大会にも劣ることのない空気に満ちていた。


かつて武藤敬司はこう言った。


「思い出と闘ったって、勝てっこねえんだよ」


一方で、中邑真輔はこう言った。


「過去と闘ってなにが悪い、昔を超えようとしてなにが悪い、未来はオレが創る!」


いま、私が素直な気持ちで言えること。

新日本の『G1クライマックスⅩⅩⅠ』は、過去を超えた。

少なくとも、試合内容の厳しさ、選手の覚悟は昔の比ではないと思う。


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「ここにいるやつらは、みんな知っている。一番スゲェーのは、一番スゲェーのは、プロレスなんだよ!」


超満員の両国国技館が、中邑の言葉でひとつになった。

そう、あとはここから世間に打って出るだけだ。


中邑がそう叫んでいるとき、私も心の中で叫んでいた。


「やっぱり、一番スゲェーのはプロレスラーなんだよ!」