沢山のblogの中から
出会ってくれてありがとうございます。
今日は、父の命日でお墓に行きました。
一緒に行った妹が、珍しく
「話したいんやけど」と言うので
ファミレスに寄り道しました。
彼女の話は、義父母とのこと。
少し重たい問題が起きたようです。
ずっと話を聞いていたら、ポツンと
「私、冷たいよなぁ」と言うのです。
私は、その言葉で口を開いて
「赦せないようなことを実際に言われたし、
されたんやけん、自分を責めんでいいよ!
冷たくなんかないよ!当たり前の心と思う!」
と言うと、、、
妹は、ポロポロポロッと涙を流し始め
「誰かにそう言って欲しかった」
と言ったのです。
正しい、とされることを出来ない
今の自分を責めていたのです。
一般的な○(正しい)=義父母に仕えること
一般的な✖️(冷たい)=義父母の世話をしないこと
かもしれません。
でも、傷ついている妹にとっては
その「すべき論」「一般的な正論」は、
自分を責めて苦しめることになるのです。
聖書の中に、姦淫の現場で捕らえられた女を
「正しい」人たちが取り囲んで、
イエスキリストに、
律法(姦淫の罪は石打ち)を盾にして
どうするか詰め寄った場面があります。
その時のイエスキリストの言葉です。⬆️
言葉を聞いた者たちは黙って去っていきました。
誰よりも律法に通じ、
父なる神様の心をご存じの方が
「私はあなたを罪に定めない」と
言われたのです。
そして、彼女のその後の人生に
「これからは罪を犯してはいけないよ」
と、背中を押したのです。
イエスキリストは、
律法や正論や一般常識を盾にして
私たちを裁く方ではありません。
正しい方向へ、無理矢理導く方でもありません。
私たちが、自ら神様を愛する道を
選ぶ心に変えられるように
助けてくださる方なのです!
妹も、心の傷が少しずつ癒されれば
きっと自ら義父母に仕える心になると、
私は信じています。
彼女は、元々は優しい人だからです。
妹本来の自然な優しさを取り戻せるよう
祈ろうと思いました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
あなたは、愛されるために生まれた人です。