赤い線(下方)は 11月11日の ,
青い線(下方)は 11月12日の ,
赤い線(上方)は 11月14日の ,
青い線(上方)は 11月15日の ,
各軌跡。.
たしかに、天理以北の「山辺の道」は地味だ。自分で十分に下調べをして行かないと、ただの歩行訓練になりかねない。現地の指導標が頼りでは、見どころを通過してしまうだろう。その見どころも、鄙びた渋い寺社や掘り出されたままの古墳が多く、まあ、パッとしない。住民の日常生活の汚れや掃きだめが、そのまま眼についてしまう。つまり、「観光開発」されていないのだ。しかし、「観光」を一歩越えた旅を望む人にとっては、味のある体験の機会となるかもしれない。ダイヤモンドの原石を探し当てる旅――それが「北・山辺の道」だ。
「山辺の道」のルートにしたがって、「竜王池」のかたわらの山に入って行く。登り口に鳥居があり、その脚もとの石碑に「岡山稲荷大明神」とある。
入ってゆくと、たしかに、まずお稲荷さんがあった。
しかし、重要スポットは、そのあとにあった:
奥に小さな仏堂があり、左に、光背を背負ったものすごい数の石仏が、右に、やはり多数の石碑が並んでいる。それぞれ一定の規格で造られているから、かなり新しいものだろう。
石碑には、「紀國」などの國名と寺の名、「一番」「二番」・・・・・の番号、そして和歌が刻んである。読めない山大権現の碑も立っている。
「慈照院」というお寺は多いが、この近くでいうと桜井市の「長谷寺」の院号だ。「法眼 ほうげん」は僧侶の位階で、「法印」につぐ第2位。このような僧位は朝廷の宣旨で与えられるもので、インドにも中国にも無い。日本特有のもののようだ。〔如来,菩薩,羅漢,縁覚,声聞といった修業の達成度に応ずる位階以外のランク付けは、仏教に反しないのだろうか ??〕
いったいここは何のお堂なのか? …と落ち着かなかったが、このあと訪ねる「円照寺」の「大師堂」と判明。「円照寺」の参道に出たところに、「西国三十三所霊場」の石碑が立っていた↓。並んでいた石仏は、33か所の寺の本尊、石碑は、各寺の御詠歌の碑だった。
「円照寺」は拝観禁止と判明(オッと‥)。「大師堂」だけでも詳しく見ておいてよかった。
「円照寺」の「山門」に向かう。
「山門」をくぐったとたんに、「立入禁止」の札に阻まれる。砂利にきれいな砂紋が付けられているので、一歩も踏み出せない!
「円照寺」は、斑鳩の「中宮寺」,佐保の「法華寺」と並ぶ「大和三尼門跡」の一つだという。1641年に後水尾天皇の第1皇女によって創建され、69年にこの地に移ってきた。「門跡」とは、「皇子・皇族や、貴族の子弟が、その法統を伝えている寺院」のこと。「円照寺」の歴代住持は現在まですべて皇女で、「山村御所」とも呼ばれている。どおりでガードが固い。特別拝観に行った人のレポートを見ても、ぎっちり一列縦隊で歩かされ、決められた場所だけ見せられて、門や建物の名前さえ、何ひとつ教えてもらえないそうだ。
参道を戻ってバス停に向かう。途中の池が、午後の陽差しを映し出していた。
タイムレコード 20251111 [無印は気圧高度]
(3)から - 1525竜王池[99m]1538 - 1546「円照寺」参道・出会い[100mMAP] - 1548円照寺[104m]1550 - 1552山辺道分岐★[98mGPS]1554 - 1602「円照寺」バス停[81m]。
踏査記録⇒:YAMAP
赤い線は 11月11日の,青い線は 12日の軌跡。
12日の行程グラフ↓。2日目は疲労が出た。スピードが落ちている:
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
12日は、「円照寺」バス停から再出発。きのう出てきた参道に入って行く。きのうの「大師堂」からの合流点よりも手前に、「山辺の道」の先へと進む分岐がある。
小径を昇って行くと、まもなく竹林のなかに、石仏をたくさん集めた小堂が現れる。「向山 むこうやま 地蔵」だ。
小さなお堂には石仏が3体。中心の大きい仏は、風貌・持ち物からしても明白に地蔵だ。
こちらの観音は、台座に「無縁法界」とある。
古い墓石も多いようだ。手前右の墓石の形は、僧侶の墓だ。
脇にも、おびただしい数の石仏が並んでいる。
路は、竹林のなかを進んでいく。
柿は筆柿。
とつぜんパッと眼の前が開けると、「崇道天皇陵」と「前池」が現れる。
「崇道天皇」とは、奈良時代の皇族早良 さわら 親王の追諡 ついし〔タヒ後に贈られた名前〕で、天皇に即位したわけではない。早良親王は、桓武天皇の同母弟で皇太子だったが、「藤原種継暗刹事件」に連座して廃太子され、淡路島に流される途中、自ら絶食してタヒ去したという〔「強制断食による事実上の処刑」説もある〕。ともかく、タヒ後には怨霊伝説が生じ、桓武,嵯峨天皇を恐慌させた。桓武天皇は、近親の病死や疫病・飢饉は親王の怨霊のためだと思い、800年に天皇号を追諡した。晩年には、自分の病気は「崇道天皇」の祟 たた りのせいだと信じ、淡路島に葬られていた早良親王の陵を大和國に改葬する事業を進めさせた。が、それから1年足らずで桓武天皇は崩御してしまった。改葬が完了したのかどうか、どうもハッキリしない。
ともかく、のちの「延喜式」〔927年編纂完了〕は、大和國「添上郡」に所在する「崇道天皇陵」を記録しており、江戸時代初め〔寛永4=1627年〕には、この「八島」の地に「崇道天皇社」〔神社〕と「宮寺」があったと記録されている。文久年間〔1861-64年〕に至って、京都の朝廷はここを「崇道天皇八嶋陵」と定めたが、「天皇社」と「宮寺」はそのままだった。明治時代になると、天皇陵復活・整備の風潮のなかで、1886年に、「陵」と見られる墳丘の上にあった「崇道天皇社」を東方へ移築して「嶋田神社」〔地元の村社。後出〕に合祀し、「八嶋陵」を現在の陵墓の形に整備した。
江戸時代の記録にあった「宮寺」については、江戸~明治に「陵」の西北にあった「八島寺」が、早良親王の霊を鎮めるために建立されたものだと伝えられていた。じっさいに、800年の天皇号追諡のさいに、淡路島から遺骨を分骨して「大和國八島寺」に納めたとの記録も存在する。しかし、「八島寺」は明治の「廃仏毀釈」政策により廃寺とされ、毘沙門天像が 300円で売りに出されるなどして消滅してしまったので、確証を得られなくなった。明治国家は科学性に乏しい復古政策を強行したため、かえって天皇陵の史的根拠さえ究明困難にしてしまったわけで、皮肉な結果ではあった。
とはいえ淡路島には、崇道天皇陵と伝承される場所が、少なくとも2か所あるという。一般的に言って、奈良時代以降の天皇陵については、宮内庁の指定は史実とほぼ一致していると言える。が、「崇道天皇陵」に関しては疑問が少なくない。
桓武天皇は、平城京から山城國への遷都を一貫して進めた。まず「長岡京」への遷都を試みたが、これは貴族の反対を強硬に押し切った面があり、結果的にも淀川の水害などによって失敗し、「平安京」へ再遷都することとなる。「藤原種継暗刹事件」は、この「長岡京」遷都問題から引き起こされている。藤原種継は「長岡京」への遷都を建議した人で、桓武の信認のもとに「造長岡宮使」に任命され、遷都を実現した。そのため、平城京維持派の貴族たちの恨みを買うことになったのだ。
早良親王の「祟り」は、「怨霊」信仰が日本で現出した最初の事件ではないかと思う。有史以来、怨恨を抱いて死亡した皇族や高位貴族は、崇峻天皇,山背大兄王,大津皇子,長屋王,藤原広嗣,藤原仲麻呂など数えきれないが、彼らから「怨霊」が生じたことはなかった。このあと「怨霊」信仰は、菅原道真と平将門で頂点に達するが、「崇道の祟り」は、この集団心理現象の最初の噴出だったと見ることができるだろう。
「崇道の祟り」の背景に「遷都」問題があったことから考えると、「怨霊」信仰の元には、「土地の霊」への恐れがあるのではないだろうか。たとえば、桓武を継いだ平城天皇は「祟り」を受けた形跡がないが、この天皇はその諡号のとおり、自らが平城京への復帰を強く願った人だったのだ。
「崇道天皇陵」に関して疑問をさらに大きくするのは、この陵の前にある「八ツ石」遺跡〔八嶋陵前石室古墳〕↓だ。
「八ツ石」は、古墳時代後期の横穴式石室が露出したものだという。「崇道天皇陵」として指定された領域の外部、「前池」とのあいだにある。時代から言って早良親王とは無関係なはずだが、それがどうしてここにあるのか?「崇道天皇陵」だとされている小山は、崩れた古墳の一部にすぎないのか? それとも、古い古墳の一部を利用して9世紀に陵を築いたのか? 想像してみることはできるが確証は何もない。
「前池」のほとりに歌碑も立っているが、これまた早良親王とは関係が無い:
万葉仮名で書いてあると、えらく厳粛に見えるが、何のことはない。ヤリ手のケンちゃんのヤリ逃げの口上だ。
やしまくに つままきかねて はるひの かすかのくにに くはしめを ありとききて
『日本書紀』96「継体紀」, 勾大兄皇子 .
付属の説明板には、こう解読されているが、これは勾大兄 まがりおおえ〔安閑天皇〕の歌の・ごく最初の部分にすぎない。「八嶋國」も、ここの地名「八島」ではなくして、「たくさんの國」「さまざまな地方」という意味だ。
和歌全体を漢字仮名交じり文に直すと、こうなる:
八嶋國 妻枕 ま きかねて 春日の 春日の國に 麗し女を ありと聞きて 真木 まき さく 檜 ひのき の板戸を 押し開き 我れ入りまし 脚取り 端 はし 取りして 枕取り 端取りし 妹 いも が手を 我れに纏 ま かしめ 真柝葛 まさきづら たたき交はり 鹿 しし くしろ〔腕輪〕 熟睡 うまい 寝し間 ま に 庭つ鳥 鶏 かけ は鳴くなり 野つ鳥 雉 きざし は響 とよ む 愛 は しけくも いまだ言はずて 明けにけり吾妹 わぎも
あちこちを遍歴して、どの女も気に入らなくて、「かすがの國」には美女がいると聞いて、やってきていきなり夜這って、脚を取ったり枕を取ったり、あとはドシンバタン「叩き交わり」、気がついたらもう朝チュンだから、かわいいなんて言ってるヒマはない、ほなサイナラ~~
池でオッちんでろ・・・・・
あをによし 奈良の大路 おほち は 行 ゆ き良けど この山道は 行き悪 あ しかりけり
『万葉集』巻15-3728, 中臣宅守 .
オトコはダメだねえ。元正上皇の爪のアカでも飲んだらどうか?
カリン↓。
「嶋田神社」。崇道天皇陵に関連するスポット。現在の「崇道天皇陵」の上にあった「崇道天皇社」を、明治時代に撤去して、もとからここにあった「嶋田神社」〔延喜式内社〕に合祀・移築した。そのさい移築された「本殿」は、春日大社の本社「三之殿」〔1709年築〕が享保年間〔1727年頃〕に「天皇社」に払い下げられたもので、江戸時代の春日様式神殿の姿を見ることができる。
「嶋田神社」じたいについては、れいによってこちらで詳しく考証されています。
奥の赤い神殿↓が、江戸時代中期の春日の神殿様式を伝えている。
山裾に向って棚田のなかの道を昇って行く。遠く生駒山までの盆地の眺望が広がる。
棚田の上の集落には「白山比咩 しらやまひめ 神社」がある。
「白山比咩神社」〔「白山神社」と称する社も多い〕は、石川県・白山麓の総本宮(式内社,加賀國一の宮)から全国に広がった「白山」信仰の神社で、加賀・越前・美濃・飛騨にまたがる「白山」を神体とする。中世には「白山権現」信仰,修験道と結びついて繫栄し、加賀・越前・美濃の寺社が互いに正統性を主張し「信仰利権」を争い合うようになった。全国に広まったのも南北朝時代以後のようだ。
ここの「白山比咩神社」は、元禄4〔1691〕年より古いものは伝わっておらず、江戸時代に成立したもののようだ。棚田の最奥、いわば「さと」と「やま」の境界部分に建てられており、村鎮守として馴化された山岳信仰の一つの形と見てよいと思う。
万葉歌碑もある↓。
春日野 かすがの に しぐれ零 ふ る見ゆ 明日 あす よりは 黄葉 もみち 頭刺 かざ さむ 高円 たかまど の山
『万葉集』巻8-1571, 藤原八束 .
「高円山 たかまどやま」は、ここから北東の方角にある山で、若草山,春日山につづく南の峰。このあとの道行きで見えるかもしれない。
タイムレコード 20251112 [無印は気圧高度]
930「円照寺」バス停[83mGPS]1208 - 940「円照寺」参道上の分岐点★[145mGPS]943 - 1020「崇道天皇陵」[88mGPS]1038 - 1045「嶋田神社」[94mGPS]1054 - 1110「白山比咩神社」[106mGPS]1126 - (5)へつづく 。















































