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青い線は 12月18日の     ,

赤い線は 12月19日の軌跡。 .

 

 

 


 「菅原東遺跡」は、古墳時代の住居跡なども発掘されているが、遺跡公園として保存されているのは、埴輪を焼いた「窯」の跡だ。埴輪のレプリカが並べられている。〔以下、一部は 2022年7月撮影〕

 

 

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 「窯跡」は、発掘されたあと、埋め戻されているが、この起伏の下に「窯跡」と確認された穴が6つある。右は、発掘されたままの状態で展示されている「3号窯跡」の覆屋。

 

 

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 6号窯跡と5号窯跡↑。埋め戻されている。

 

 

 

 

 


 覆屋内の「3号窯跡」↓。「窯」の構造は地中の穴だが、発掘された状態では天井が除かれている。

 

 

 

 

 

 

 覆屋の外にも、遺構らしいものがある。

 

 

 

 

 

 「窯跡」の一部のようだが、この石は何なのか、私にはまったく判らない。

 

 

青い線は 12月18日の     ,

赤い線は 12月19日の軌跡。 .

 

 

 「大和西大寺」駅の北側に移って、「佐紀池・御前池」の岸から落穂ひろいを始めよう。せんだっては撮影し損なった・東の「佐紀神社」↓に寄ってみる。

 

 

 

 

 

 この境内は、とにかく石が多い。もとあった寺院の礎石がまじっているのかどうか、見分けがつかない。古い灯籠の礎石らしい「返り花」はあったが。

 

 

 

 


 「御前池」の東岸から、「釣殿神社」のあたりを眺めてみる。このとおりの風景なら、たしかに釣殿があってもおかしくないが、なにしろ 1300年前。当時から池の地形が変っていない保証はない。

 


 

 

 

 池から北に向かう。「佐紀盾列古墳群」のうち、「やまのべ」から少し外れた小さめの古墳群を、見ておきたい。南から順に、「猫塚」「瓢箪山古墳」「塩塚古墳」「マラ塚古墳」などがある。

 

 「猫塚」は、聖武天皇の「松林苑」造営で変形を受けたため、古墳の形をしていない。ネットを見ても、私のような素人のブログはみな、どこにあるやら判らなかったと書いている。橿原考古学研の説明では、竪穴式石室,割竹型木棺をもつ全長 120m の前方後円墳(古墳時代前期後半〔4世紀後半〕)が検出され、短剣(槍先),画像鏡,石釧 いしくしろ,勾玉,管玉などの副葬品が出土している。また、その北側で粘土槨(猫塚北1号)が検出され、そこからも副葬品が出土しており、猫塚古墳の外堤上または陪塚と推定されている。

 

 「佐紀/御前池」から「瓢箪山古墳」へ向かう道路に、右へ入る二輪車幅の路があるので入ってみた。「猫塚」は、このあたりのはずだが、一面の竹やぶで、まったく見当がつかない。路の北側と南側を撮してみた。北側↓。

 

 

 

 

 南側↓。この土地のふくらみは、長さ 100メートルもないから、古墳はここではなく道の北側なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 車道に戻って、「瓢箪山古墳」へ向かう。「瓢箪山古墳」は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀後半~5世紀初頭)の前方後円墳だが、国の史跡指定がされているので、前方部の植生が取り払われ、周回できる見学路も設置されている。

 

 

 

 

 前方部↓。

 

 

 

 

 向こう側へ回って、前方部と後円部の中間(くびれ部)↓。

 

 

 

 

 後円部↓。

 

 

 

 


 全長 96メートルで、「猫塚」よりも小型だ。東側に周濠が残ってるが、現在、水は溜まっていない。葺石,円筒/壺型埴輪が検出されているが、埋葬施設は未調査。「猫塚」は、これより一回り大きかったわけで、保存された「瓢箪山古墳」から「猫塚」の本来の姿を想像することができる。

 

 「瓢箪山古墳」から車道をそのまま北上すると「塩塚古墳」に至るが、史跡の標柱と説明板は車道沿いではなく、墳丘の南東角にある:

 

 

 

 

 

 説明板の後ろに見えるのは前方部だが、「松林苑」造営のさいに低く削られて建物の基壇とされたため、平らになっている。ふつう、古墳の前方部は、「瓢箪山古墳」で見たように山裾状の斜面になっている。

 

 「塩塚古墳」は、古墳時代中期前半(5世紀前半)の前方後円墳で全長 109メートル。「猫塚」と「瓢箪山」の中間の大きさだ。後円部で竪穴式粘土槨が検出され、鉄斧,鉄鎌などが出土している。「猫塚」「瓢箪山」より時期が後なのに副葬品が貧弱なのはなぜだろう?‥5世紀には、政治の中心は他の地域(南大阪?)に移り、この地の豪族は勢力を失った、ということだろうか?

 

 「塩塚古墳」の後円部(北東角)↓。

 

 

 


 くびれ部。

 

 

 


 前方部から後円部を望む。

 

 

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 はるかに「春日山」が望まれる。もうだいぶ暮れてきたが、古墳群はもう1か所だから行っておこう。

 

 

 

 

 「マラ塚(オセ山)古墳」は、本来は前方部を西に向けた全長 65m の前方後円墳だったと見られるが、「松林苑」造成で前方部が削平されたため、現状は円墳のように見える。5世紀ころの築造と思われるが不明。未調査のようだ。↓南側の道路から撮している。

 

 

 

 

 

 ↓北側に回って撮した。

 

 

 

 

  近くに神社があるので寄ってみる。「添御縣坐 そうのみあがたにいます 神社」。「添」は、この地方の古地名。地元の伝承によると、侵略者神武と戦った先住民の英雄「長髄彦 ながすねひこ」を祀ったもので、明治時代の天皇崇拝の風潮に折れて祭神を改名したのだという。より史実に即した推定でも、当地土着の豪族である「添縣主」(小野氏)の建立とされる。ともかく、『日本三代実録』859年条で「添御縣神」として神階を授けられ、『延喜式神名帳』〔927年完成〕では大社に列せられている。きょう見た古墳群の被葬氏族の土着豪族的性格とともに、たいへん興味深い。

 


 

 


 「本殿」↓は、南北朝時代の 1383年建立。歴史ある建造物を保存・使用しているのも、神社では珍しい。

 

 

 


 朝廷から謀反の疑いをかけられて惨刹された長屋王と、故なき左遷を蒙って没した菅原道真の和歌の碑が立っている。

 

 

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 佐保すぎて 寧楽 なら の手向 たむけ に置く幣 ぬさ は 妹 いも を目離 めか れず 相 あひ 見しめとそ

『万葉集』三-300, 長屋王 .

 

 

 平城京を発って、異郷との境目である「ならやま」で神に手向ける・この幣は、旅先でも妻に会わせてほしいとの思いからだ。まさに、この地で詠まれた歌。

 


 このたびは 幣 ぬさ もとりあへず 手向 たむけ 山 もみぢのにしき 神のまにまに

『百人一首』24段, 菅原道真 .

 


 神にささげる幣を持たずに来てしまったので、この紅葉のけしきを代わりに捧げます。この「手向山」も、やはり「ならやま」を指す。ただし、道真の場合は、宇多上皇のお供をして京都から吉野へ向かう途上。長屋王とは逆方向に「ならやま」を越えている。

 

 

 

 

 

 「大極殿」バス停に着いた時には、日はとっぷりと暮れていた。

 

 

 

 

タイムレコード 20251218 [無印は気圧高度]
 (12) から - 1315「菅原東遺跡」[74mGPS]1326 - 1347「スターバックス」大和西大寺駅北口[74mGPS]1437 - 1445「大極殿」バス停[76mGPS] - 1450東の「佐紀神社」[76mGPS]1500 - 1511「猫塚」[82mGPS]1519 - 1525「瓢箪山古墳」[89mGPS]1537 - 1548「塩塚古墳」西側[90mGPS]1553 - 1609「塩塚古墳」南東角[97mGPS]1553 - 1616「マラ塚古墳」[94mGPS]1626 - 1630「添御縣坐神社」[86mGPS]1638 - 1643「歌姫町」バス停[85mGPS] - 1700「大極殿」バス停[76mGPS]。

 

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