赤い線(下方)は 11月11日の   , 

青い線(下方)は 11月12日の ,

赤い線(上方)は 11月14日の ,

青い線(上方)は 11月15日の ,

各軌跡。.

 

 

 「やまのべのみち」は、奈良市の「春日大社」まで続いているのだが、三輪山のほうから来て天理を越えると、歩く人の数は、ぐっと少なくなる。じつは、「春日大社」が終点というわけでもない。「みち」の典拠とされる『日本書紀』収録の「影媛 かげひめ」伝説とその和歌には、「春日」から「佐保」を経て「平城山 ならやま」付近までの道行きが示されている。

 

 そこで、計画を立てて「山の辺の道行き」を続けることにした。奈良県が「奈良盆地周遊型ウォークルート」というのを公表しているので、参考にすることができる。

 

 初日は、前回,南半分の終点にした「天理駅」から出発する。「石上神宮」から北へ向かい、「円照寺」で中断とした。

 

 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 

 

 

 冬近い朝の陽ざしは横殴りで、撮しにくいが、逆光の風景がかえって爽快な気分を伝えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 通学時間にぶつかってしまったらしい。が、道が広く車が少ないので、問題がない。地形図を見ると、正面に見えるのは「大国見山」のようだ。

 

 

 

 

 「天理教本部」↑を通過すると、小学生から中学生まで、ざっと数万人の学童が集まってくるところだった。地元の高校生の通学に加えて、なにか教団の行事の日に当たっているらしい。学童にカメラを向けることは控えたが、広い庭を埋め尽くす数の子供たちが、「天理教」の法被を着た若者に導かれて、破風屋根の巨大な神殿に吸い込まれていった。

 

 「石上神宮」に到着。前回は参拝を省略したので、屋形門の中まで入ってみよう。


 

 

 

 

 「春日大社」や、南の「みわ神社」と並び称される大神宮だから、さぞかし広い境内と想像していたが、意外にこじんまりした茅葺きの社 やしろ だった。その囲い地を、比較的広い樹林がとりかこんでいる。クリ,シデ,アラカシなどの混淆林。

 

 

 

 

 「山辺の道」の標識にしたがって、神宮の外苑地から外に出る。

 

 

 

 

 朝日を浴びているのは「大国見山」だろう。

 

 

 

 

 「布留 ふる の高橋」に到着。布留川の急峻な谷に橋が架かっている。橋の上から見下ろすと、深い谷底には、滝が2すじ見える。

 

 

 


 

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 鉄製の橋は最近架けられたものだが、「布留の高橋」じたいは、『日本書紀』『万葉集』にも記されていて、その時代からあった。深い谷をまたいで、つる草や綱を編んだような危うい吊り橋がかかっていたのではないだろうか。

 

 『日本書紀』には、「影媛 かげひめ」の追跡行伝説のなかで、つぎのように記されている:

 

 

 石上 いそのかみ 布留 ふる を過ぎて 薦枕 こもまくら 高橋過ぎ

 物多 ものさは に大宅 おおやけ 過ぎ 春日 はるひ 春日 かすが を過ぎ

 妻隠 つまこも る小佐保 をさほ を過ぎ 〔……〕

 泣き沾 そぼ ち行くも 影媛あはれ

 


 「ふる」は、「石上神宮」周辺一帯の古地名。「いそのかみ」「ふる」の次に「高橋」を通過することは分かるが、「高橋」は単なる地名なのか、じっさいに橋がかかっていたのか、判然としない。うがって考えれば、そうなる。

 

 他方、万葉歌は、つぎのようなものだ:

 

 

 

 

 

 現地説明板の↑このような読み方は、標準的な解釈だと思うが、現地に来て深い谷底を覘いていると、別の解釈も浮かんでくる。じっさいに、急峻な渓谷の高みに「橋」があったとすれば、当時の技術では、野草の綱を張っただけのきわめて危うい吊り橋だったにちがいない。それを、真っ暗な「夜更け」に渡る危険は、想像するだけでも恐ろしい。

 

 つまり、「高高に」を、標準解釈のように「待つ妹」の気持とは解さずに、「高い橋」そのものの描写としてリアルに受け取るのだ。「妹が待つ」家に帰ろうとして「橋」まで来たら、もう真っ暗になってしまった。これでは橋を渡れない。自分の帰りをじっと待っている「いも」のことを考えると、まったく気が気ではない。かといって、足を踏み外して命を落としたなら、それこそ「いも」はどんなに悲しむか知れないので、無理をして渡ることもできない。いったいどうしたらよいのだ‥‥。こうしたリアルな「橋」の情景を想像して、その全体によって恋人にたいする気持ちを比喩する。そうした抒情の構造になっているのではないか。


 このように解釈する場合には、当時から実際に「高い橋」が架かっていたことになるだろう。

 

 「豊日 とよひ 神社」に到着。ここに掲出されている「由緒書き」は、じつに注目に値するものだった。が、まずは神社のたたずまいを見ておこう。


 

 

 


 これが拝殿。奥に、かなり急な石段があり、登ったところ(↑白丸内)に神殿がある

 

 

 

 


 注目されるのは、拝殿→神殿を結ぶ直線が西→東の方角に一致していることで、拝殿から見ると、早朝には神殿の向こうから光芒が差して見える。夕刻には、神殿は柔らかな夕陽に照らされることだろう。

 

 

 

 

 

 鳥居の前に立てられた・この「由緒書き」は、「由緒」というより「由緒の否認」だ。原初の素朴な信仰だけを純粋に取り出そうとする意志に貫かれ、後世に付加された一切の権威も言説も否定しようとする過激なミニマリズムに満ちている。その過激さは感動的なほどだ。

 

 原理主義なのか? 原理主義のような理論を再構築することさえ拒否する・徹底した素朴主義と言うべきだろう。

 

 「氏子一同」の賛同を得た執筆者は、「豊日神社」という呼称じたいが、明治以後における「牽強付会」〔無関係なものを、むりに理屈をつけて関係づけること〕の説に基いており、この神社は本来は「天満宮」であったとし、かつ、「天満宮」さえも「付会」であって、本来は「天神 てんじん」であったとする。

 

 つまり、この神社の本来の信仰は、「天神」すなわち、落雷という自然現象を、豊作をもたらす神として崇める自然崇拝であって、平安時代以後に、「天神」は、菅原道真に関する怨霊信仰と習合して「天満宮」となる。各地の「天満宮」とともに、この豊井村の「天神」もまた「天満宮」として祭祀されてきた。ところが、江戸時代の国学者が、この神社を、道真怨霊化以前の 863年の朝廷実録記事に付会し、「豊井」は「豊日」が訛 なま った誤称だと決めつけた。863年に朝廷から官位を授けられた「豊日神祠」が、この神社だという確証は無いにもかかわらず、この村の「豊井」という地名は「豊日」の訛りだと決めつけることによって、この2つを結びつけてしまったのだ。ここには、朝廷公認の古文献のみを真実とし、村びとの言葉や信念を誤りとして蔑 さげす む支配者の観念が現れている。

 

 そして、明治以降には、この国学説を引き継いで、天満宮であったこの祠を「豊日神社」に改号してしまった。しかしそれが牽強付会であることは、境内の石灯籠がみな「天満宮」の号を刻まれていることから明らかである、と。

 

 これをさらに一歩進めれば、明治以来の、「廃仏毀釈」の暴力革命にはじまる近代神社神道は、人民の古来の信仰を破壊した上に粉飾された天皇制軍国主義の翼賛機構であったとする安丸良夫氏の構想につながる。同時にそれは、近代日本の実証主義・文献史学、及びそれを引き継いだ戦後の「科学的歴史学」の妥協的性格に対する批判ともなりうるだろう。

 

 さて、以上について私見を述べるならば、「豊日」→「豊井」に見られるような、似た音の同一視などの理屈づけを安易に重ねて歴史を再構成しようとする傾向が、現在の歴史考察にもたいへん多いことは否定できない。それによって、史書の不明な記述を蘇生させて理解可能なものとすることができる、という史実探究の魅力には抗しがたいものがあるからだ。それらは、一歩下がって見れば「付会」に過ぎないとの「由緒」執筆者の指摘は、いくら強調しても足りない正論ではある。が、その一方で、江戸時代の国学者が指摘する「社地ノ、夕日朝日共共ニ良キ処ナルヲ以テ『豊日』ト申」す、との観察は、村びとの素朴な「天神」信仰と矛盾するものではない。この地の「天神」が9世紀の朝廷によって「豊日神祠」として権威付けられた、との想定も、まったく根拠の無いものではないと思われるのだ。

 

 

 

 

 「豊日神社」のすぐ下には溜池↑があって、「天神池」と刻んだ石碑が建てられている。ここは、どこまでも自然の豊饒さを拝する「天神」の空間なのだ。

 

 

 

 

タイムレコード 20251111 [無印は気圧高度]
 天理駅[66mGPS]753 - 823「布留」交差点[83mGPS]850 - 857「石上神宮」拝殿前[104m]905 - 920「布留の高橋」[96m]930  - 936「豊日神社」[110mGPS]952 - (2)へつづく 。