「豊日神社」をあとにして、山裾のへりを北へ向かう。二上山がシルエットで見える。
破風屋根のコンクリート建物が多いが、これらはみな「天理教団」の宿泊施設だ。「静岡詰所」「広島詰所」といった地方名を冠せた表札を掲げている。全国から信者が集まってくるのだろう。
ナナカマドだろうか、紅葉が始まっている。
ここで、「迂回路」が分岐するが、本来の「山辺道」のほうに進むとしよう。指導標には、「←豊田城跡」とある。
溜池の岸を通る。ぎっしりとヤブに囲まれている。アラカシが多い。クヌギ,ヤブツバキ,タブノキなど。イロハカエデ,ミズキ,ケヤキは、もう色づいている。
ヤブが深くなってきた。あとで調べてみると、この付近から右の山へ上がったところに「豊田山城」の跡がある。発掘調査などは行われていないが、多くの郭址 くるわあと を残した手つかずの中世城郭が見られるそうだ。豊田氏は、この地域の小領主で、興福寺大乗院の勢力下で抬頭し、戦国期に入ると山城國の松永久秀の襲撃を受けて落城した。これまで見てきた柳本氏などと共通の運命をたどっているわけで、その点でも興味深い。
それにしても、天理市という自治体は、こんな薮深い場所を観光地として推してくれているわけで、これは、皮肉ではなく素晴らしい方針だ。さきほどの「豊日神社」でも、その前の古墳群の扱いでも感じたが、この自治体の文化政策には、なにか時勢に流されない堅実なものがある。それが理解できない県や国の馬鹿役人どもは、歩きやすいアスファルト道路を迂回していればよろしい。
野生化した「筆柿 ふでがき」が生 な っている。このへんの柿は筆柿が多いようだ。
ヤブから外に出た。眼の前が開ける。車道に出て、「迂回路」と合流する。
クヌギが多くなった。人里の林相になったということだろう。
溜池と竹林。
柿はやはり筆柿。
「観光みかん園」の看板を出している。
「みかん園」の下に、『日本書紀』の説明板がある。
斉明天皇〔「重祚」前は「皇極天皇」〕は、「大化の改新」に遭遇した不幸な天皇だ。息子の中大兄 なかのおおえ 皇子と藤原鎌足が眼の前で宰相蘇我入鹿を刺し刹すのを見せられて、ブルって天皇を退位してしまったが、位を譲られた孝徳天皇も、まもなく中大兄と不和になり、遷都した「難波宮」に置き去りにされて病没してしまった。そこでやむなく斉明が重祚 ちょうそ〔再即位〕して、飛鳥に都を戻したが、↑上のような悪評に悩まされることとなったのだ。
しかし、われわれが関心をもつべきは、皇族間の軋轢や古代の世論よりも、奈良盆地を貫通する運河の掘削,宮殿造営のための石材伐り出し・運搬といった当時の技術事績だろう。
古い時代から奈良盆地南部では、運河の掘削が行なわれていたらしい。「巻向 まきむく」では、卑弥呼の時代とも云われる運河の跡が検出されている。「飛鳥」の飛鳥池の水利技術は、現代でも驚くレベルの優秀なものだったことが確証されている。斉明の事績とされる「大運河」は、もし史実ならば、それらの技術成果を集大成したものだったにちがいない。
「石上 いそのかみ 山」とは、さきほどの「豊田山城」がある山のことらしい。7世紀には、そこに石切り場があったのだろうか。「天理砂岩」という・古代の技術でも加工しやすい軟質の石材が産出したという。石材の伐り出しによって開かれた山ならば、中世の地域領主が山城を建設するのも容易だったにちがいない。こうして、古代史と中世史が結びついてくる。なにぶん「石上山」―「豊田山城」は、まだ学術的な調査の手が入っていない。今後、古代の石切り場の跡が発見されて脚光を浴びるのかもしれない。
説明板の隣りに、こんな籠があって、蓋がしてある↓。
蓋をとってみると、‥‥完熟した「あけび」が、こんなにある。無料で持って行けとは粋な計らいだ。
竹林に入って行く。クヌギ,クリ,アラカシが混じる。このあたりから「白川ダム」の先まで、古墳がめじろ押しだ。墳丘の破壊が大きいのと、遺物の出土が少ないために、あまり注目されないが、古墳の密度で言えば、天理の南の「大和古墳群」に匹敵するのではないか。古墳時代後期のものが多く、時代から考えると、物部氏に関係する墳墓だろう。
路の左には「天理大塚〔石上大塚〕古墳」、右には「ウワナリ塚古墳」がある。どちらも、横穴式石室をそなえた前方後円墳。「天理大塚」は周濠も備え、後期前半・6世紀前半の築造;「ウワナリ塚」は後期後半・6世紀後半の築造と推定されている。
「名阪国道」のハイウェイをくぐると、↓「ハミ塚古墳」。崩れた残丘の形からでは判らないが、古墳時代終末期・6世紀末~7世紀初めの方墳だそうだ。飛鳥の「石舞台」古墳と同時期で、墳丘の規模も「石舞台」に匹敵する。横穴式石室が発掘され、周濠も検出されている。
各古墳とも、石室などの見学ができるようになっているのに、下調べ不足のせいで通過してしまった。天理付近の遺跡と博物館は、いつかまた訪れたいものだ。
「白川ダム」「白川溜池」に到着。
「白川ダム」は、1933年築造の農業用貯水池「白川溜池」を、1993-95年に嵩上げして築いた治水ダムで、用水のほかに洪水調節機能を備えている。釣りをしている人が多かった。
ダム周辺には、紅葉している樹も多い。
紅葉に誘われて、「古墳公園」に向かう。
現在のダムサイトにあった「和爾小倉谷古墳群」7基のうちの3基で、1993年~の「白川ダム」建設工事に先立つ 91年の調査で横穴式石室が発掘されたので、ここに移築されて保存されている。古墳時代後期~終末期の小規模な円墳,方墳。古墳時代も終り頃になると、このような小さな墳丘墓の集合が多くなり、同じ石室に新たな被葬者を追葬するケースも珍しくなくなる〔たとえば、推古天皇陵,聖徳太子陵とされる墳墓は、いずれも複数の石棺を収めている〕。死生観が変わってきたとも言えるし、被葬者の階層が下に拡大したとも考えられる。詳しい解説は、こちら。
「2号墳」↓。「終末期」7世紀前半の方墳。石室は、花崗岩の大きめの切石を組み合わせている。
「3号墳」↓。7世紀なかごろの方墳。7世紀末葉~ 8世紀に追葬が行なわれている。
タイムレコード 20251111 [無印は気圧高度]
(1)から - 936「豊日神社」[110mGPS]952 - 1010迂回路分岐[100mMAP] - 1028車道迂回路合流[92m=GPS]1037 - 1128「白川ダム」[124mGPS]1143 - 1158古墳公園[117m]1208 - (3)へつづく 。





































