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赤線は、2026年10月18日の軌跡  .

◆ は、民権史跡         .

 

 

赤線は、2026年10月18日の軌跡    .

青線は、2026年9月14日の軌跡      .

紫線は、2026年10月10日の軌跡   .

 

 

 「内山梁山泊」は、「五日市学芸講談会」とは別の意味で、この地方の民権運動の発展に寄与した施設であった。

 

 「梁山泊」とは、黄河の氾濫でできた大沼沢で、入り組んだ水路と島々の地形のために王朝の支配が及ばず、宋代には、盗賊やアウトロー,反乱分子の巣窟となった。明代の白話小説『水滸伝』は、「梁山泊」を根城とする 108人の好漢が、悪徳官吏や知識階級の不正と戦って活躍する話。転じて、「梁山泊」は、「すぐれた人物(傑物)が集まる場所」という意味で使われる。

 

 

『当時の五日市には内山安兵衛という、若い自由党員の富豪がおり、全国からの青年,志士らに自宅を開放して自由に羽をのばさせていた〝内山梁山泊〟といわれる名所があったのである。』

色川大吉『北村透谷』,新装版,2007,東京大学出版会,p.84. .

 

 

 内山安兵衛は、wikiによると、明治・大正期の林業家・実業家・政治家で、1920年に衆議院議員に当選し1期務めている。1880年に、深沢権八らとともに「五日市学芸講談会」を設けて自由民権学習活動を行なう、とある。

 

 その「内山梁山泊」は、「武蔵五日市」駅の直近にあったとのこと。はて、いづこ? …… ここだ‼

 

 

 

 

 

 「西東京バス(株)五日市営業所」は、内山安兵衛の旧邸、つまり「内山梁山泊」の跡地に設けられています。

 

 現在の JR五日市線は、1944年まで「五日市鉄道」という私鉄線であり、1922年に内山安兵衛が取締役社長に就任して創業されました。「五日市鉄道」の敷設は、林業経営,水力発電などの開発を進める地元企業家たちの長年の努力の成果で、そのなかには、八王子・五日市間で乗合バスを営業する「五王自動車」の創業者石川虎一郎もいました。1963年に「五王自動車」が、高尾,奥多摩地域の他2社と合併したのが、現在の「西東京バス株式会社」です。


 安兵衛の旧邸跡が「西東京バス」の営業所になっているのは、そうした経緯からと思われます。

 

 それでは次に、安兵衛の墓地を訪ねてみましょう(10月10日)。「五日市中学校」から下りてきて「檜原街道」とぶつかった交差点を、郵便局のほうへ曲がらずに直進すると、「阿伎留 あきる 神社」があります:

 


 

 

 

 

 さて、内山家の墓地は、神社の東かたにあるはずなのですが... それらしいのが見当たらない。。。

 

 

 

 

 

 崖っぷちに出てしまいました。駅の向こうの山がよく見えます。YAMAP の地図によると、右奥に「唐松山」、左手前に「天竺山」のはずですが、峰が多くてよく分からない。

 

 うろうろしていると……、コスモスが咲き乱れた空き地のなかに十字架が...

 

 

 


 

 


 

「聖名保禄 ぱうろ 内山安兵衛之墓」

 

 とあります。内山安兵衛は、「民権時代」以後にカトリックに入信し、晩年は逗子に移住して信仰三昧の生活を送ったといいます。ここは、安兵衛の妻子のみならず、同信のカトリックの人びとの墓地であるようでした。

 

 

 

 

 

 それにしても、これほど多彩な、また各方面に先進的な人物を生んだ/引き寄せた「五日市」地域は、どんな基礎条件を具えていたのでしょうか?「五日市郷土館」では↓このように説明していますが、どうもピンときません。

 

 

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【註】「黒八丈」:江戸時代に秋川地域で生産されていた絹織物。

草木染め・泥染めによる黒い染色が特徴。

 

 

 江戸時代までの木材・木炭商業や絹織物生産、開国以後の養蚕と製糸手工業の隆盛、加えて言えば明治以後の水力発電、‥‥これらは、大都市に近い山沿い地域ならばどこにでもあった条件でしょう。そのなかで、「五日市」がこれほど特徴ある歴史を刻んだ理由は何なのか?

 

 結局のところ、どんな人物たちが生まれ、また集まり、どんな活動と努力をしたか、それぞれの個人的ことがらの集積が、地域の歴史なのでしょう。人間の歴史は、環境条件によって決定される自然過程ではない。そこには、偶然の時の運もある。逆に言えば、ほかのあらゆる地域でも、人びとの行動のしかたと偶然の取り合わせによっては、同じことが起きてもおかしくはないのだ。‥‥そんなことを考えました。

 

 

 

 

 千葉卓三郎が「草案」執筆最終段階に滞在した「狭山」「奈良橋」へ足を運んでみよう。「奈良橋」の「鎌田本家」は今も健在で、子孫のかたが住んでおられるようだが、個人宅なので見学することはできない。

 

 卓三郎は「奈良橋」でも自由民権の活動をしている。鎌田家の長子鎌田喜三とともに 1881年9月に狭山の「円乗院」で「自由懇親会」を開いており、卓三郎の演説原稿や、「五日市」の深沢権八に宛てて参加を依頼した卓三郎の手紙が残っている。「円乗院」を訪ねてみよう。

 

 

 

 

 

 

 寺伝によると「円乗院」の創建は平安末期。しかし、現在の場所に移ったのは 1607年で、現存する最古の建物は、1749年建立の・この「鐘楼門」。

 

 

 

 

 

 残念ながら、「狭山自由懇親会」が開かれた明治時代の「本堂」は残っていない。いまあるのは、1948年に再築されたもの:

 

 

 

 

 卓三郎は、なぜこの時期に「五日市」を離れたのか?「集会条例」違反による弾圧を避けて身を隠したとの見解、五日市での活動に限界を感じたとの説もありますが、「狭山」でも積極的に集会活動をしていること、10月に「明治14年政変」〔「9年後の国会開設」を約束等〕が起きるや直ちに「五日市」に戻っていることから、それらが理由ではないと思われます。「五日市」帰還後、翌年肺結核で亡くなるまで、「五日市」の人びとが卓三郎の生活を支えたことからも、彼と「五日市」のあいだに不和や意見の違いが生じたとは考えられません。

 

 ひとつありうるのは、「五日市」を離れた 5月までに、『憲法草案』は完成していたのではないかという推測です。そして、「奈良橋」行きは、「鎌田本家」の断っての願いによるものとする意見(⇒:東大和の歴史)が、私には説得力のあるものに思われるのです。卓三郎を慕う息子たちのために最前から来居を招請されていたものの、「五日市」での学習活動のまとめ役としてそこを離れるわけにはいかなかった;が、ようやく『憲法草案』も完成したのを機に、招請を受け容れたのではないでしょうか。

 

 この間に(正確な時期は分からないが)、卓三郎は各地の集会に出席し、北多摩(狭山の「懇親会」か?)、山梨、高知まで脚を延ばしたとの記述もある。奈良橋に腰を落ち着けてはいなかったのだ。五日市に「限界を感じた」のではなく、五日市の成果を各地に広めよう、あるいは、各地の構想と交流したい、という思いではなかったろうか。

 

 さいごに、千葉卓三郎の故郷:宮城県を訪れます。( (4) につづく)