2026年4月26日 .
こちらで詳しく見たように、一葉の両親:樋口則義・たきは、甲州塩山・中萩原村〔維新以前から幕府直轄領・石和代官のもとで存在。1875年に上・下粟生野村と合併して大藤村〕の出身でした。一葉自身〔1872-1896年〕は、東京都千代田区で生まれ文京区で没しており、甲州へは、帰郷したことさえあるのかどうか。東京市の外へ旅行した経験さえ、私が眼にする評伝・年譜の類には見当たらないのです。
ところが、「故郷」塩山〔現・山梨県甲州市塩山〕では、旧中萩原村を「一葉のふるさと」として顕彰し、塩山市街から中萩原まで「一葉のみち」なる道路まで指定しているのです。実際にその地を踏んでみた一葉ファンは気づかれると思うのですが、なにかまるで、ここが一葉の “ほんとうの” 故郷であるかのような既視感,なつかしさが胸に迫ってくるのも事実です。
一葉と「中萩原」とのつながりができたのは、彼女のタヒ後、妹樋口くに(邦子)の尽力で「慈雲寺」に一葉の顕彰碑が建てられ〔1922年〕てからと思われます。つまり、一葉タヒ後の全集出版などによる社会一般の一葉評価を経て初めて、樋口家の “故郷” とのつながりは回復したのであり、一葉の生前においては、村の厳格なしきたりに逆らって江戸に「駆け落ち」した両親の経緯から、一葉および樋口家と “故郷” とのあいだは深く断絶していたのではないかと思われるのです。
この[サトレコ]では、とりあえずその現実と、われわれの持つ印象との巨きなギャップを、ありのままに記しておきたいと思います。
一葉の小説『ゆく雲』には、甲州から東京に出てきて書生をしている青年野沢佳次が故郷について語る一説があります。佳次は、故郷では、近在「中萩原」の名家の養子に取られ、その家の娘「お作」との婚約まですでに決められている窮屈な身分――世間の貧乏人の眼には「うらやましき御身分」――なのです。語りの相手は、佳次が世話になっている寄宿先:東京の親戚の家の娘「お縫い」。佳次のセリフを水色で、お縫のセリフをピンクで示します。
『我が養家は大藤 おほふぢ 村の中萩原とて、見わたす限りは天目山 てんもくざん、大菩薩峠の山々峰々垣 かき をつくりて、西南にそびゆる白妙 しろたへ の富士の嶺 ね は、をしみて面かげを示めさねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚 うを といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう𩻩 まぐろ の刺身が口に入 い る位、あなたは御存じなけれどお親父 とつ さんに聞て見給へ、それは随分不便利にて不潔にて、東京より帰りたる夏分などは我 が まんのなりがたき事もあり、そんな処に我れは括 くく られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々 こつこつ として月日を送らねばならぬかと思 おもふ に、気のふさぐも道理とせめては貴嬢 あなた でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたはさう仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申てをりまする。』
樋口一葉『ゆく雲』(中),青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.44-45. .
「天目山」は、信玄亡きあと、織田信長・徳川家康の侵攻を受けた武田勝頼が、家臣の裏切りに遭って逃亡中自害した武田氏滅亡の地として知られます〔正確には、天目山中に入っていく谷口の「田野」。同地「景徳院」に勝頼親子3名の墓がある〕。塩山から、東京方向に “一山越えた” 険阻な谷間、笹子峠の手前にあります。
天目山。©なお🄿,yamap.com/activities/30618345.
「白妙の富士の嶺は、惜しみて面影を示さねども」とあるように、一葉は、富士山も顔を見せるのを「惜しむ」ほど卑しんでいる、不倖・不遇な故郷、として「中萩原」を描いています。じっさい、甲府盆地から見える富士山は、頭の先だけをわずかに見せているのです。↓これは「塩ノ山」頂上から〔2026年4月26日〕。
「そんな処に我れは括られて、〔…〕逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々として月日を送らねばならぬか」とある「故郷」への否定的な思いは、作中人物佳次の憂いを超えて、作者一葉が、この父母の故郷にたいして抱いていた陰鬱な思いを映し出しているようにも見えます。
塩山の市街地から重川 おもかわ の谷間に降り、「一葉のみち」を「中萩原」に向かって上がって行こうとすると、まず、その道路の狭さに驚きます。その狭い道を幹線道路のようにびゅんびゅんと往来する車列は、この道を散歩してみる気を失せさせるほど危険です。しかし、そうした風景さえもが、「やっと一葉のふるさとに出会った」との、何か・えたいの知れない望郷心をそそっているのです。
2026年5月15日 .
4月26日には「一葉のみち」は路線バスで通過してしまったので、5月に再訪して、重川を渡るあたりを撮影してきました:
「中萩原」の方向は高台になっており、「一葉のみち」は、くねくねと昇っていきます。正面遠くに見えるのは「大菩薩峠」、右の山は「恩若峯」です。
高台の上に立って振り返ると、まず、塩山駅近くの「塩ノ山」が台形に見え、その奥に、なだらかに下る「帯那山」の裾尾根、さらに遠くに、甲府盆地の西端を画する・南アルプスまでの山々が見えてきます。
最奥の冠雪の峰々は「白峰 しらね 三山」(右から、北岳 3193m,間ノ岳 あいのだけ,農鳥岳 のうとりだけ)。その手前は、櫛形山から甘利山の連なり。いちばん手前に「塩ノ山」の斜面が覗いています。
北岳↓。
北岳と間ノ岳↓。
間ノ岳↓。
農鳥岳↓。
さて、4月26日に戻ります。
「中萩原」バス停の1つ手前:「大藤小学校」でバスを降りて「慈雲寺」に向かいます。地元の言い伝えによれば、「慈雲寺」は父則義が経書〔儒教の古典、四書五経〕を学んだ寺であり〔本人の日記では、同村の「法正寺」で学んだとある〕、一葉の碑とモニュメントは、ここに集中しています。
小学校前から「慈雲寺」のほうへ坂を上がってゆくと、「大菩薩峠」が正面に見えます。ここは、平野部の農村ではなく、山すその傾斜地、ほとんど山村と言ってよい場所であることがわかります。
路は、「慈雲寺」に脇から入っていくようになります。門内に、「真下専之丞」「樋口一葉」それぞれの顕彰碑が建てられています。
真下 ましも 専之丞(晩菘)の碑↓。「真下専之丞」は、則義よりも一足早く〔1825年〕江戸に出て幕臣となった故郷の先輩で、則義は、この先達の指導と取立てのおかげで幕府にも、維新後の明治政府にも地位を得、攘夷から開化への激変の中で出世してゆくことができたと言えます。(⇒:一葉記念館【1】)
漢文の碑ですが、読み下してみましょう↓。
『真下晩菘先生碑
封建之世、四民異等、官限門地、奇才異能有りと雖も頗る進仕し難く、泯然として畎畞に老死する者、何ぞ晩菘〔遅咲きの菜〕に限らんや。先生は農家の子、乃ち能 よ く奮発して身を起こし、仕へて大吏と為り、世家を班 わか つ。亦以て其の志行堅卓、群を出づるを見るべし。先生諱 いみな は穆、小字は藤助、後ち専之丞と称す。本姓は益田。甲斐大藤村の人なり。少 わか くして磊落、大志有り。屢 しばしば 江戸に遊学し、為に傾産す。郷里嗤笑して顧みず。年十六にして、幕吏行郡の威燄赫奕なるを見、嘆じて曰く、「丈夫此くの如き邪適に当たらず」と。以て争ひ、村吏の恥しむる所と為る。ここに於いて家を棄てて江戸に至り、代官の手代と為り、練りて吏務・幕府之制を習ふ。賤士・胥吏の姓を假り職を鬻 ひさ ぐを聴き、先生因って出貲して真下氏を冒し〔冒称して〕、初めて士籍に列するを獲 う。擢せられて支配勘定と為り、金山奉行を拝して甲州に莅 のぞ む。先づ微行を期し佯 いつは りて鑛夫と為り、力役す。利病情偽を審 つまびら かにして還る。其の再来するに及んでは、輿馬儼然、従者数十人、郷閭を過ぐ。嚷笑罵者、咸 みな 駭いて曰く、「是れ、藤助か」と。敢て仰視する者無し。天保中、公事方を兼ぬ。平反する〔再審して正した〕所多し。蕃書取調所肝煎、小十人、陸軍奉行竝 ならび に支配を累遷す。幕府、砲台を品川に築くや、先生の參畫、有力なりき。慶應三年、致仕〔引退〕して横濱に居し、専ら育英を事とす。旁 かたはら に翰墨を弄び、自ら楽しむ。明治八年を以て歿す、年七十七なり。先生、親孝に事ふ。其の母は酒を嗜みて酗す〔酔って暴れた〕。先生これを憂ふ。冬夜、寒を冒して往きて琴平の祠に祈る。時に年纔 わずか に十二三なり。長ずるに及んでは、任侠周急〔窮迫した人を助ける〕コトニカケテハ 後を恐る〔人に後れまいとした〕。其の職に在るや、恩威並び行ひ、吏民帰心す。浮浪飲博の徒も亦感激して効力ありと云ふ。養客多く、視るに骨肉の如し。配金子氏、大能これを待つのみ。則ち衣食不給、一貧洗ふが如し。門生皆能く成り、立ちて名士と為る。沼間守一、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎、荒川義太郎、村野常右衛門、蒲生重章、石坂昌孝等、最も著し。先生の学は常師無し。実用の書〔書道〕を主とす。〔書道は〕初め空海に学び、後ち懐素・趙子昂に学び、最も草體に長ず。日に一百字を課し、劇務を執ると雖も廃せず。書を乞ふ者有れば、必ず飲食を留め、所獲の潤筆を盡して止む、一銭を留めず、其の財利に淡なること此くの如し。嗚呼、先生勢位を求めて勢位を獲 え、既に勢位を獲れば、則ち亦勢位を忘る。是れ、其の志固 もと より利禄の外に在り。且つ其の吏績は審かならずと雖も、門下の多材を観て、其の学行の偉、想ふべきのみ。碑を慈雲寺に卜地す、先生先塋の所在なり。貲を募りてこれを建つる者は、住持・紹憲師る曁 およ び親故、門生なり。来 きた って余に文を乞ふ者は、先生の孫・阪本君三郎なり。
大正三季四月 公爵徳川家・達・篆額 松平康國・撰 日高秩父・書』
『一葉女史の碑』↓。
「慈雲寺」本堂と「イトザクラ」。この「イトザクラ」は有名で、花見に訪れる人も多いそうです。
「山門」↓から外に出ます。本来は、こちらが寺の正面玄関なのですね。
門前のわきに、一葉の胸像と、『ゆく雲』の一節を彫りつけた文学碑(右奥)があります。

































