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青い線は 4月3日の,赤い線は 4月6日の軌跡。 .

 


『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,p.179.

 

 

 ちくま文庫版『たけくらべ』に載っている挿絵地図↑によると、現在「一葉公園」がある筋の1本東の筋あたりに「育英舎」という私立学校が実在した。『たけくらべ』で、美登利信如が通う小学校です。もとは寺子屋で、主に下層階級の子弟が通っていたが、吉原の遊女の妹である美登利と、寺の息子である信如の位置は微妙で、彼等は中層以上が通う公立小学校には行きにくい家だったのです。

 

 

『入谷 いりや ぢかくに育英舍とて、私立なれども生徒の數は千人近く、狹き校舍に目白押の窮屈さも教師が人望いよ\/あらはれて、唯學校と一ト口 ひとくち にて此あたりには呑込みのつくほど 「学校」トイエバ育英舎ヲサスホド 成るがあり、通ふ子供の數々に或は火消鳶人足、〔…〕三百といふ代言〔弁護士〕の子もあるべし、お前の父さんは馬〔ツケの売春代金の取立て人〕だねへと言はれて〔…〕顏あからめるしほらしさ、〔…〕多くの中に龍華寺の信如とて、〔…〕〔寺の住まい〕は親ゆづり〔親の寺を継いで住職になる定め〕の勉強ものあり、』

樋口一葉『たけくらべ』(一),青空文庫. .  

 

 

 「育英舎」のあった位置は、右の並びの奥と思われます。

 

 

 

 

 「茶屋町通り」に戻って進んでいくと、突き当たったところが旧「吉原遊郭」との境界です。「よし原 揚屋町」と書いた標柱が見えます。上の青い挿絵地図でわかるように、遊郭内部の街路の向きは外部とは異なっていました。その碁盤目のズレが今もそのまま残っているわけです。

 

 

 

 

 

 

 「遊郭」の中は少し高くなっている↑。境界に段差があります。

 

 「揚屋町」「江戸町」「京町」――「遊郭」内の・かつての街区の名前です(↑青い挿絵地図参照)。

 

 

 

 

 

 青い挿絵地図↑を見ると、吉原遊郭は、四方から土手で囲まれていたことが分かります。遊郭を囲んでいた土手の痕跡は、街路の形に残っています↓。

 



 

 

 土手の痕跡と思われる道形をくなぞってみました↑。ちょうど、「大門 おおもん」のあった場所と一致しています。右のの線は現在の「日本堤通り」。江戸の街を隅田川の洪水から守るために築かれた長大な土手「日本堤」の跡です。江戸時代には、「吉原」へ遊客が通う正式の道は、「日本堤」の上を歩いて来て、ナナメの坂(えもん坂,五十間道)を下りて「大門」から郭内に入る、というものでした。「日本堤」から「えもん坂」へ曲がる角に「見返り柳」がありました。

 

 囲み土手の痕跡の道形を、郭の西南角付近と東南角付近で撮してみました↓。土手だった場所が駐車場になっています。

 

 

 

 

 

 遊郭の北端の道を西へ向かうと「浅草国際通り」(↑トップの地図の・黄色い南北の道路)にぶつかります。ぶつかったあたりに「大音寺」↓があります。

 

 

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『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝 どぶ に燈火 ともしび うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來 ゆきき に はかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申 まうし き』

樋口一葉『たけくらべ』(一),青空文庫. .  

 

 

 これが『たけくらべ』の始まりの部分です。「お歯ぐろどぶ」は、土手とともに遊郭を囲んでいた水路。一葉の時代には土手も「どぶ」も健在だったようです。一葉が住んでいたあたりは「大音寺」の門前として「大音寺前」と呼ばれていました。 遊郭の玄関口である「大門」「見返り柳」のほうから見ると、こちらは裏っかたで、表て側へは遊郭の土手をぐるっと廻って行かなければなりません。それでも、「茶屋町通り」には「明け暮れなしの車〔人力車や荷車〕の行き来」があり、賑やかで陽気な街だったのです。

 

 大音寺とは「国際通り」を隔てて向かい側のならびに、浅草「酉の市」で有名な「 おおとり 神社」があります:


 

 

 

 

 

『此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく此處をかこつけに檢査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維 ちい かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町 すみちやう 京町 きやうまち 處々のはね橋より、さつさ押せ\/と猪牙 ちよき がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、』

樋口一葉『たけくらべ』(十四),青空文庫. .  

 

 

 「角町」「京町」は、遊郭内部の街区。外部に通ずる道は、「お歯ぐろどぶ」に「跳ね橋」がかかっていました。「チョキがかった言葉」とは威勢のよい掛け声で、吉原通いに多い「チョキ舟」の船頭のように威勢良い、というわけです。「検査場」は、遊女たちが性病の検査を受けた施設で、「鷲神社」の裏側、遊郭との中間にありました。「酉の市」には、表ての鳥居をくぐらずに、裏側から押し寄せてくる人も当時はおおぜいいたわけです。「検査場」があったのは、↓この右側当たり。左に「鷲神社」の神殿の裏が見えます。

 

 

 

 

 「検査場」があったあたりには、現在は区立病院があります。

 

 


 

 「吉原公園」↓。戦後の売春防止法施行で遊郭が無くなったあとできたものでしょう。ここは「吉原遊郭」の北東隅にあたります。

 

 

 

 

 

 「公園」が、その東側の土地よりも一段高くなっている↑のは、ここが「遊郭」と外部の境目にあたるからです。

 

 「公園」の東側↓には、「遊郭」の土手の外に、「大黒屋」という大店 おおだな 遊女屋の寮がありました。『たけくらべ』のヒロイン「美登利」は、両親とここに住んでいる設定です。


 

 

 

『大黒屋の美登利 みどり とて生國は紀州、言葉のいさゝか訛 なま れるも可愛く、第一は切れ離れよき キマエノヨイ 氣象を喜ばぬ人なし、子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理、姉なる人が〔遊女で〕全盛の餘波 なごり〔…〕樓の主 あるじ 〔ミドリを〕大切がる樣子 さま も怪しきに、〔…〕姉なる人が身賣りの當時、鑑定 めきき に來たりし樓の主 ノ が誘ひにまかせ、此地に活計 たつき もとむとて親子三人 みたり が旅衣 たびごろも〔…〕今は寮のあづかりをして母は遊女の仕立物、父は小格子の書記に成りぬ、此身〔ミドリ自身〕は遊藝手藝學校にも通はせられて、其ほかは心のまゝ、半日は姉の部屋、半日は町に遊んで見聞くは三味〔三味線〕に太皷にあけ紫〔朱と紫〕のなり形〔遊女のような派手な服装を見馴れている〕、』

樋口一葉『たけくらべ』(三),青空文庫. .  

 

 

 遊郭の「大門」の跡↓。旧遊郭内部から、旧「えもん坂」方向を望む。「えもん坂」の曲がった道形が残っている。

 

 

 

 

 「見返り柳」↓。もちろん「遊郭」当時の樹はとっくに枯れており、何代目かの植え直し。しかも、往時はここは「日本堤」の上で、もっと高い場所でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20260403
 (1) から - 1601「一葉公園」[3mGPS]1615 - 1633「大音寺」[3mGPS]1504 - 1642「鷲神社」[2mGPS]1652 - 1703「吉原大門」跡[2mGPS] - 1713「吉原公園」[2mGPS] - 1722「吉原大門」交差点[2mGPS] - 1725「吉原大門」バス停[2mGPS]。

 

 踏査記録⇒:YAMAP