Paul Cézanne, Le Pont sur la Marne à Créteil, 1888. Puschkin-Museum der
bildenden Künste. セザンヌ「クレテイユのマルヌ川橋」1888年。©Wikimedia.
【20】 「ネーション」の創出と「均質化」
――「人ノ上ニ人ヲ造ラ」ヌもう一つの理由
『政府の側からのネーション創出の過程を、合理的支配の貫徹という観点から見た場合、そこに働いた最重要の原則の一つは「均質化」〔…〕であろう。明治政府は単一の法的秩序と単一の政治機構によって統べられたネーション・ステートを生誕させるために、「四民平等」を謳って近世身分制を解体した。〔…〕
明治政府による「四民平等」政策は、〔…〕その「平等」〔…〕が有名無実で、実態としては紛れもない身分差別が温存された〔…〕。明治 5年施行の「壬申戸籍」には、華士族平民の別を示す「族譜」が記載されており、その身分登記は大正 3年の戸籍法改正まで〔…〕残った。華族は〔…〕明治20年代の法的整備を経て、明治憲法体制下でその政治上・法律上・経済上の特権的地位を確立する。また「旧賤民」は明治 4年〔…〕の太政官布告によって〔…〕「新平民」の』呼称『の下に差別されつづける。〔…〕士族層にかんしても、地域によっては政治的・社会的優位性を保った場合が少なくない。
「四民平等」のこうした空洞性』は、『日本においては「平等」〔…〕が、お上 かみ から下賜されたものでしかなく、人権尊重の意識に基いて「下から」獲得されたものではなかった』ためだと言われる。『それはもちろん正しいが、
他方、〔…〕政府の合理的支配にとって〔…〕ある程度均質な「国民」の創出が〔…〕ぜひとも必要〔…〕だったこともまた見逃してはなるまい。明治政府が選んだ支配形態は「一君万民」のそれであり、そこでは天皇という超越的価値にたいして社会の全構成員が平等にひれ伏すという構図が必要とされた。全「国民」に対して』天皇『の仁愛と仁慈が遍 あまね くまた等しく差し向けられるという公平性の原則こそが、天皇の権威の優越性を担保していたと言ってもよい。
したがって、華族や士族といった特権階級の温存(再編成)は、〔…〕利益誘導型のポリティクスの結果にすぎず、支配の合理主義の貫徹を目指す政府の側からいえば妥協の産物〔…〕という側面もないわけではない。いずれにせよ、〔ギトン註――平等化によって〕ことさらの特権を享受しているわけではない平民(及び新平民)にとって、「平等」が下賜された徳でしかなかったことは事実である。カント的に言い換えるなら、それ〔ギトン註――平等〕を、勇気と決意をもって選び取る主体ではなかったという点で、彼らは未だ「みずから招いた未成年状態」にとどまっていた。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.238-239.
明治初年、横浜の警察官。
【21】 「国権」強化,「言文一致体」の成立と、
中江兆民の抵抗
『本書第Ⅰ部「権力と言説」〔岩波文庫版,上冊〕において、われわれはまず、内務省と警察といった制度の生成過程を跡づけつつ、「予防」の配慮や「定位」の強制など、それら保安機関の存在理由を根拠づける要因を考察した。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,p.309. .
「定位」の強制とは、たとえば、全国民を一律に「戸」を単位として把握する「戸籍」制度の導入などで、近代的な「国民」の創出を目的とする国家制度ですが、これを設計した官僚の構想には、それ以上のものがありました。
前回 (7) で触れた行政警察の創設者川路利良は、「戸籍」に加えて「国内旅券」制度を設けて移動をチェックし各々の本籍地に縛り付け、完璧な安寧秩序を構築しようと構想していました。しかし、「近代的なネーション・ステートの国力の発展〔…〕資本主義と植民地〔…〕の急激な発展」のためには、住民の自由な移動は不可欠であったので、川路の構想は実現しませんでした。とはいえ、松浦氏によれば、「社会の最終的な警察化」を理想とする川路の思想は、現在の「住民基本台帳ネットワーク」「マイナンバーカード」「国道上のNシステム」となって・はるかに受け継がれ、「家族主義」のもとでの「不良分子摘発」、監視と国民管理による「停滞のユートピア」実現の欲動として今も「国家のうちに胚胎され」ているのです。(pp.89-91,94-95.)
『さらに、保安の思想の言説的具現として最重要の〔…〕近代刑法の成立を追い、〔…〕この言説の「システム性」がいかに強化され深化していったかを明らかにしようと試みた。
ついで、そうした制度的〔…〕な言説を現実的かつ物質的に織りなしている・近代日本語の書き言葉〔…〕に視線を転じ、「言文一致体」の初期形態の成立〔…〕、そこにおいて福沢諭吉〔…〕の果たした決定的役割に言及した。
とはいえ、〔…〕われわれの論述の重点は、むしろ「言文一致体」の明快な「啓蒙」性にたえず背を向け』る『中江兆民の文業が、その「反=近代」性と「反=啓蒙」性のゆえに発揮しえた批評的活力を〔…〕顕彰しようとする企図にあった。それは、透明な理解を志向する合理主義の光明に抗して、遊戯的な迂回や逸脱を厭わず、不透明な混濁によって理性の万能性をたえず疑問に付す、戦略的なオブスキュランティズム〔意図的に曖昧/難解な表現を用いる文学/思想スタイル――ギトン註〕のまとう批評性である。
〈明六社〉に拠った「啓蒙思想家」たちの言説が、明治14年の政変あたりを分水嶺として萎靡沈滞へ向かうのと対照的に、兆民ひとりがこの比類ない批評性によって国権の強化に抵抗しえたのであり、『三酔人経綸問答』のエクリチュールは、この抵抗の至上の表現と言ってよい。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.309-310.
千代田区四番町8。中江兆民「仏蘭西学舎」創設の地。中江兆民は、1874年
フランス滞在から戻ると、この付近の自宅で私塾「仏蘭西学舎(仏学塾)」
を開いた。同塾は、翌年には近隣の「二八通り」沿いに移転している。
【22】 「啓蒙」の「理性」と「非理性」
明治精神史、ないしそれ以降の日本近代思想史にかんする通説的なプロットを、極端に図式化して言いますと、1890年前後を境として、それ以前には朝野を巻き込んでいた「啓蒙のプロジェクト」が、「大日本帝国憲法」〔1889年〕と「教育勅語」〔1890年〕の発布を機に挫折し、「[啓蒙]的言説の自壊の後」、「非理性的な天皇制イデオロギーの専制へ」と向かう。「[理性]は[非理性]に決定的な敗北を喫し、その[非理性]の制覇は最終的に昭和10年代の[国民精神総動員]体制にまで至り着く。」
「他方、なおそれに抗しつづけるマイノリティの合理主義――主にそれは知識人の良心としてのマルクス主義によって担われる――は、特別高等警察(特高)の弾圧に遭って徹底的に芽を摘み取られていった、という図式」になる。そして、「昭和20年8月15日こそ、[非理性]の専制から人民が解放され[理性]が〔…〕再覚醒した記念すべき日付」となる。――
しかしながら、「[明治の表象空間]の立体的な深層に眼を届かせるとき、[理性]と[非理性]は、もっと錯綜した絡み合いを演じている」ことがわかるのです。
たとえば、①「特高」は、合理主義的「理性」の抵抗をとことん弾圧した「非理性」の牙城であったろうか? 「[大逆事件]〔1910-11年〕を受けて警視庁に設置された特別高等課に端を発する・この保安機関」「特高」は、「地方長官などを介さず」国の「内務省」本庁によって直接指揮される組織だった。「内務省」は、言うまでもなく帝国大学「法学部出身の抜きんでた秀才たちが結集」する「官僚システム」であり、「高度の効率性」を備えたそのシステムの運用は、「徹底して合理的な秩序に統べられていた」。すなわち、徹底した官僚的「理性」を体現していたと言えるのです。
したがって、「特高」と「マルクス主義知識人」〔彼らは合理主義的 “良心” の証しとしてマルクス主義を信奉した〕との闘いは、「非理性」の支配に対する「理性」の抵抗ではなく、むしろ、「1つの理性ともう1つの理性とのあいだで演じられ」た闘いだったのです。「[大きな正論]を掲げるマルクス主義は、[小さな正論]のシステム化された集積としての警察官僚制に抑圧されつづけた、ということなの」です。
② 明治国家の「警察官僚制」の核心的組織である「内務省」の創設が明治政府内で発議されたのは、明治 6年のことでした。が、この年は、〈明六社〉に「啓蒙」思想家たちが結集し、翌年『明六雑誌』を創刊して「啓蒙のプロジェクト」を開始した年でもある。つまり、「国家理性を貫徹する制度の創出と、「啓蒙的理性」の宣揚は、同期した出来事」だったのです。そのことは、〈明六社〉同人の多くが、政府の官吏として出仕し「国家理性に仕えていた」ことに現れています。彼らの意識は、「2つの理性のあいだの往還可能性」を実践しつつ何ら矛盾を感じなかった。福沢諭吉は、当初こそ、同僚たちの二重姿勢に懐疑を抱き、批判する文も発表していたが、「明治14年」以後になると、みずから「民権から国権への〔…〕転向」を遂げる。「彼はむろん、[理性]から[非理性]へ転回したわけではなく、たんに、一方の[理性]〔啓蒙的理性〕から他方の[理性]〔国家理性〕へ重心移動を行なっただけ」なのです。
「大日本帝国議会之図」。 芳景・画。
③ たしかに、「明治政府が最終的に採用」した「プロイセン流の立憲君主制」は、〔帝王への〕「[非理性]的な個人崇拝と不可分」だった。が、そのような「非理性」は、『帝国憲法』の発布によって初めて現れたわけでは決してなく、「明治初年から強烈に実在して」いた。『帝国憲法』と『教育勅語』は、「維新」の最初から存在した「非理性」に、「最も実効的かつ整合的な表現を与えただけ」でした。「そもそも天皇という[非理性]的存在を統合のシンボルとすることで、維新は成った」のです。(『明治の表象空間(下)』,pp.179-182.)
『したがって、まず「理性」のプロジェクトとしての自由と民権の主張があり、その挫折後、民衆の欲望が「非理性」的な天皇主義に収斂してゆくという〔…〕定式は、事柄をあまりに単純化しすぎている〔…〕。「非理性」は明治中期〔※〕に事新しく登場し〔…〕たわけではなく、終始在ったし今なお在る。要は、その「非理性」は、近代国家においては、「理性」の司る諸装置の中継回路を経ることによってしか現実界において機能しえないという点なのである。そして、〔…〕そうした装置の代表的なものこそ、帝国憲法や教育勅語といった言説にほかならない。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.182.
註※「明治中期」における「非理性」の登場: 通史的叙述でよく引かれるのは、1889年に『帝国憲法』とともに公布された進歩的な旧「民法典」の施行に強力に反対した「民法典論争」。旧「民法典」はフランス民法(ナポレオン法典)に範をとった自由主義的・個人主義的なものだったが、「民法出でて忠孝亡ぶ」などと批判され、結局、施行されず、より保守的な親族・相続法を備えたプロイセン流の民法典が新たに起草され施行された。
『帝国憲法』は、「西欧の憲法学の基礎のうえに」それとの「整合性と無矛盾性に配慮しつつ」、「天皇主権」という神政的な「非理性」の権力を「理知的に」基礎づけています。たとえば第1條は「万世一系」,第2條は「神聖ニシテ侵スヘカラス」というヨーロッパの立憲憲法ではありえない表現を、「理知的」言語の中にうまく納めています。その点で『帝国憲法』は「一種[理性的言語]で書かれた言説」だと言えます。
これにたいし、『教育勅語』のほうは「単に情緒主義的な修身のお説教とのみ受け取られ」がちですが、その「本文の練り上げに」は「[啓蒙]的知識人井上毅のきわめて[理性]的な言説戦略が凝らされている」のです。
Van Gogh, Seineufer im Frühling an der Pont de Clichy, 1887.
ゴッホ「クリシー橋そばの春のセーヌ河畔」1887年。 ©Wikimedia.
『帝国憲法』を起草した伊藤博文と井上毅、『教育勅語』を起草した井上毅は、『内務省を創設した大久保利通や「行政警察」を創設した川路利良の仕事を言説の水準で承継し、その徹底化を図ったにすぎない。「非理性」の化身〔「神聖不可侵」な天皇――ギトン註〕を主権者として機能させるには「理性」の諸力のネットワークが必要とされるし、〔ギトン註――逆に〕国家事業の「理性」的運営に向けて国民を組織するには「非理性」の超越的審級〔天皇の「統治権」――ギトン註〕による「総攬」が要請される。この共犯性を、もっとも無矛盾的に、もっとも合理的に包摂する解として起草された作文が、帝国憲法と教育勅語であった〔…〕。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.183. .
ひるがえって言えば、在野「啓蒙」主義の側における「明治初年の[啓蒙]のプロジェクト自体、実はこの[理性]と[非理性]の隠微な共犯関係に汚染されてい」た。「理性的秩序の論理(合理主義)は、単独では機能しえない。それはイデオロギー(非理性的なドグマ)と一体となった形でしか実効的に作動しない」。
「われわれの意図はけっきょく、この[理性]と[非理性]の相互依存性ないし相互補完性の回路を見定めようとする試みにあった。」 (『明治の表象空間(下)』,pp.183-184.)
『ここで犯してはならぬ過誤は、この共犯関係を「理性」の未熟〔…〕と把え、そこに日本の後進性を見るという〔…〕「進歩史観」〔…〕の視点をとることだろう。〔…〕「啓蒙の世紀」と呼ばれるフランスの 18世紀において〔…〕合理主義思想が〔…〕いかなる洗練を遂げたにせよ、フランス革命の原動力は階級間格差をめぐる血腥い憎悪にほかならなかった。そこで高唱された〈ラ・マルセイエーズ〉〔現フランス国歌――ギトン註〕のルフランは、「武器を取れ、市民よ!〔…〕/〔ギトン註――敵の〕汚れた血がわれらの畑の畝を満たすまで!」というもので、それは理性的な「大義」の主張とはほど遠い情念の高揚を謳い上げている〔…〕。世界の近代史の激動期にはつねに「理性」と「非理性」の共犯関係があった』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.184-185.
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







