ゴッホ「星月夜、バランス」1889年。
VanGogh, starry night, ballance, 1889. ©Wikimedia.
【12】 「平民主義」と「新民世界」
中江兆民より 16歳年下の啓蒙派ジャーナリスト徳富蘇峰は、『将来之日本』〔1886年〕において「平民主義」を唱え、「[貴族的社会]から[平民的社会]へ、という変化こそ歴史の進化法則であり、日本もその途を辿るべきであると」主張し、みずから主宰する雑誌『国民之友』において「大々的なキャンペーンを展開し」ていました。1887年に大阪で発刊された『東雲新聞』も、この年に首都を追放され大阪に移った中江兆民を主筆に迎え、蘇峰の「平民主義」に同調する論陣を張っていました。
明治政府による身分解放政策の不徹底さと欺瞞性の現れである「新平民」にかんして、蘇峰らは「平民主義」の徹底を主張し、「新平民」から「新」の1字を取り去り「平民」として区別なく扱え、と主張しました。「[啓蒙]的言説としては、明らかにそれが正論なのである。」
ところが、中江兆民が 1888年『東雲新聞』に掲載した論説「平民世界」では、「大円居士」と称する架空の「新平民」が、激越な調子で「平民主義」を批判するのです。「新」の字を除くのではなく、むしろ「平」の字を取り去って、われらを「新民」とせよ。そして、諸君らも「平民」をやめて、われわれ「新民」の仲間になれ、と。もとより兆民は、蘇峰らの「平民主義」に同調していたのですが、「それが正論として凝固することを嫌ったがゆえに、〔…〕[平民主義]の正しさを相対化しようと試みたのである」。
このような兆民の「正論」にたいする態度は、『三酔人経綸問答』において示された・さまざまな「正論」の相闘,正しさの宙吊り,正しさを定める尺度の無効化による「パロディ世界」の現出という、彼の世界観の延長上にあるものと言うことができます。(『明治の表象空間 上』,pp.281-282.)
『維新後、「賤民解放」を掲げる開明派の主張と、それに抵抗する村落共同体の側の差別慣行の現実との間の葛藤は、速やかには解消されず、結局「新平民」という「族譜」が戸籍に記載されることになる。だが、「平民」の頭に「新」を添えたこの呼称は結局のところ妥協の産物で、〔…〕「平民」と「賤民」との間にあった差別が、「平民」と「新平民」との間に持ち越されただけだ』った。
『いわゆる「賤民解放令」〔明治4[1871]年8月〕は、「穢$多,非人等ノ称、被廃 はいせられ 候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事」と宣言したが、〔…〕共同体内での心理的賤視がまったく解消されない一方で、皮革業などの独占権を失い、兵役や納税などの義務が新たに課された〔…〕
「新平民」という記号に仕掛けられた意味論的レトリックは〔…〕、「新」付きの平民と「新」なしの平民との間に差異を導入する。〔…〕
Van Gogh, Getreidefeld mit Mohnblumen und Lerche. 1887.
ゴッホ「罌粟花と雲雀のある小麦畑」1887年。 ©Wikimedia.
明治 5年刊行の『学問のすすめ』初篇では「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と書いていた福沢が、明治17年〔1884年〕の「血統論」では、人間の心身の能力には天賦の差があり、それは遺伝によるものだから、結婚に際しては相手の祖先の血統をよく調査すべしといった優生学的発想をするに至っているという、この唖然とするような立場移動〔…〕〔それが「新平民」への差別を助長することは言うまでもない――ギトン註〕、「平等」という普遍的な正論の抽象性と観念性に、「啓蒙」的言説が耐えきれなくなって瓦解していったとき、〔…〕
かくして「啓蒙」が無力化してゆく過程で、一つの異形のテクストが出現する。〔…〕保安条例で東京から追放されたその自由民権論者〔中江兆民――ギトン註〕は、大阪に居を定め、関東よりはずっと根が深いこの地の被差別部落の問題に興味をもつや、短期間の調査を経てただちに一篇の論説〔「新民世界」――ギトン註〕を書き上げた。〔…〕その書き出しには或る〔…〕暴力的な衝撃が漲っている。
余は、社会の最下層のさらに其 その 下層に居る種族にして、印度のパリヤー、希臘のイロツトと同僚なる新平民にして、昔日、公らの穢$多と呼びなしたる人物なり。〔『中江兆民評論集』,岩波文庫,p.133.〕
これは、「四民平等」の理念を普遍的な正論として主張している文章ではない。〔…〕兆民の「新民世界」は、部落解放問題史において夙に高い評価を得ているテクストで、〔…〕みずから被差別部落民の立場に身を置いて、弱者の立場からその目線で語っているところが優れているなどとしばしば言われているものだ。しかし、「余は……」というこの〔…〕書き出しが孕んでいる衝撃は、人道主義的な共感の深さといった心理的要素に還元〔…〕されるような〔…〕ものとは思えない。〔…〕常識的には発話主体たりえないはずのものが、〔…〕いきなりみずからを主体と化して読者の前に立ちはだかっている・この一人称発話の形式が〔…〕ある荒々しい力を発動して読者を揺り動かすのだ。
〔…〕何ぞや、かの公明なる法律は〔…〕自ら過 あやまち を改め、公等と吾等を一混して同一平民と為したるに管せず ニモカカワラズ、公等士族平民諸君は〔…〕猶ほ忌避して、未だ敢て吾等と手を一堂の上に執り、觴 さかづき を一案の前に挙げ、団欒環坐し〔…〕同一鍋の牛鶏肉を賞味すること能はざるは何ぞや。此れ固 もと より公明なる法律の許るす所なり、此れ自 おのづか ら頑冥なる習慣の禁ずる所ならん。〔『中江兆民評論集』,岩波文庫,p.136.〕』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.277-278,239,241-244.
Paul Cézanne, Bathers, Pushkin Museum of Fine Arts, Yorck. 1890-1894.
セザンヌ「水浴図」1890-94年。©Wikipedia.
読んでピンとこない読者のために言いますと、明治生まれの祖父から私が聞いた話では、祖父の村には「川向こうの部落の住人」を異種族のように怖れる弊習があり、どうしてもその部落の家に行かなければならない時には、玄関口から上には決して上がらず、部落の家のほうでも、部落外の人に使わせる特別の茶碗を用意していて、その茶碗でお茶を出し、自分たちの茶碗は決して使わせなかったそうです。しかし、村の小学校に勤務していた祖父は、「部落」から通う児童の家庭訪問を足繫く行なっており、「部落」の人たちも、このような祖父は家の中に入れて自分たちと同じ茶碗で接待したそうです。この祖父は、私の知っていた時代には、すでに学校を退職していましたが、自民党の政治家や右翼筋に知り合いが多く、徳富蘇峰をたいへんに尊敬していました。おそらく「平民主義」に共鳴して「同和」の実践に加わっていたのだと思います。
この話から想像すると、明治時代には関東でも、「部落」の人と部落外の平民が飲食を共にすることなどは、およそ考えられない状態だったのではないかと思います。
『この「余」は、まさしく「ある人が読者世界の全公衆を前にして学者として理性を使用する」〔カント『啓蒙とは何か』〕ようなしかたで議論を展開しているのである。このやや傲岸な人物は、理性を公的に使用し、またそれを公的に使用することの無際限の自由を「読者世界の全公衆」に向けて誇示している。
〈明六社〉の〔…〕「啓蒙」の〔…〕「教育」的な正論の退潮期に、中江兆民は〔…〕、「四民」の〔…〕外部に位置し「啓蒙」からは最も遠い「社会の最下層のさらに其下層に居る種族」の一人を、いきなり、高度に完成した「啓蒙」的主体に仕立て上げ、〔…〕きわめつきの「啓蒙」的主体として立ち上げたうえで、〔…〕兆民自身もその一員である「公等」〔平民と士族――ギトン註〕は、旧慣に束縛され「封建世代の残夢」に囚われ、要するに「吾等」〔新平民=「新民」――ギトン註〕に比べて「啓蒙」の度合いがはるかに低いものと見なされる。主体の名にふさわしいのはむしろ、インドの不可触賤民〔…〕の「同僚」たる「吾等」のほうだというのである。「余輩は則ち公等を延 みちび ひて、余輩新民世界の中に納 い れんのみ」』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.244-246.
すなわち、「新平民」が「身分解放」されて「平民」の仲間入りをさせてもらうというのではなく、逆に、旧習に囚われた「平民」「士族」よりもはるかに「啓蒙」の水準が高い「新民」たる我ら「新平民」が、君たち「平民」を導いて迷妄から解脱させ――つまり啓蒙してやり――、我ら「新民」の仲間に入れてあげよう、と言うのです。
「[余]はここで、理性を用いて自由自在に[論議]しており、カントによるならそれこそ[啓蒙]の最終目的の実現にほかならない。」
明治の初期から行われていた〈明六社〉の「教育」的「啓蒙」では、「ご説ごもっともと言うほかない」「正論」命題が提出され、「それが論理的な筋道に沿って論証されてゆくといった廉直な書きぶり」の論説が、「あれやこれやの」テーマについて書かれました。そこでは「理性」は、政治/社会「問題の提示やその解決」といった現実的なあれこれの目的のために使用されました。しかし、カントの『啓蒙とは何か』を論じたフーコーによれば、「論議する(räsonieren)」とは、「理性が・それ自身以外の目的を持たないような、理性の使用」であり、「[論議するために論議すること]にほかならない」。
Arnold Genthe: "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.
明治40年ころの日本のふつうの街角風景である。
「新民」の一人称発話を仮構した兆民の論説「新民世界」は、具体的な意味内容としては驚くほど空疎で、「部落差別」の具体的な実情が描かれているわけではなく、その解決の方策が縷々述べられているのでもありません。そこにあるのは、最初から最後まで:――「われらの同僚中には死獣の皮を剝ぐ者あり」、が、「公らの同僚中には」生きた人の皮を剝ぐ者がいるではないか、「之を医師と言ふ」〔『中江兆民評論集』,p.137.〕――といった激越な物言いの連続なのです。「不平等や差別にたいする批判や告発という[啓蒙]的身振り・を凌駕する或る暴力的過剰がここには漲っている」。つまり、そこでは「理性」は、「具体的問題の提示やその解決といった」実際的な目的のためには使用されていない。あくまでも「論議すること」だけを目的とする「論議」なのであり、「理性」の使用なのです。「単に[論議するために論議する]無償の遊戯的言述が、演劇的強度とともに演出されてゆくだけ」なのです。しかし、ここには、「啓蒙」というものの意義と価値をどこまでも信憑していこうとする意志が漲っていると言わなければなりません。
「中江兆民とは、[啓蒙]への信憑と、[啓蒙]に内在する合理主義への批判とを、二重化して同時に体現しうる逆説的な言説形態を模索した稀有の書き手であった。」(pp.246-247.)
【13】 「新民世界」のコスモロジー
兆民は、論説「新民世界」において、「大円居士」という「仮構された言説主体」に、「平民主義」を信奉する「公ら」『東雲新聞』の記者・読者を「攻撃させ、[平民主義]の正しさを相対化しようと試みたのである。そのとき、社会制度の民主化の彼方に大円居士が指し示しているユートピア」は、「[新民世界]という、正しいことからも正しくないことからも懸け離れた一種不可解なファンタスムであった」(p.282.)
『新民とは、旧民に対するの語なり。卑々屈々自由を奪はれ、権理を褫 うば はれ、同一人類なる士族の為めに打たれ踏まれ軽蔑されて憤発することを知らざりし旧時の民〔=旧民。江戸時代の平民――ギトン註〕に対するの語なり。
始無く終無く、縁無く辺無く、日月星辰を懸け、河海山嶽を載せ、上下無限蔵、縦横無限里、混々茫々たる一大円塊こそ是れ我が新民の世界なり。〔「新民世界」:『中江兆民評論集』,岩波文庫,p.134.〕
〔…〕「狭隘なる平民世界を去りて、濶大なる新民世界に進み来 きた らば」如何、と彼は「公ら」に向って呼びかける。「余輩固 もと よりこれが アナタガタノ 仲間入を許容せんのみ。」
〔…〕「新」の字が肯定的徴表として価値化され、かくして「平民」と「新平民」の階層的順位が逆転してしまう。
ゴッホ「アルルのグレーズ橋」1888年。
VanGogh, Pont de Gleize bei Arles, 1888. ©Wikimedia.
公等果て旧民の殻を脱することを欲せば、〔…〕学問も新、文芸も新、農も新、工も新、〔…〕芝居も料理も政治論も新聞も夫婦の交も親子の間柄も、凡そ天下の事〔…〕皆此一の新てふ意象を印捺せよ。〔同上,p.135.〕
〔…〕大円居士のほとんど強迫観念の域にまで達した「新」への執着には、一種形而上的とも宇宙論的とも言いうる何かが感知される。〔…〕単に「近代的」な合理主義(理性主義)の範疇に収まりきらないコスモロジーが、歴史的現実を超えた非合理的な衝迫として提示されているかのようなのだ。
〔…〕「始無く終無く、縁無く辺無く、日月星辰を懸け、河海山嶽を載せ、上下無限蔵、縦横無限里、混々茫々たる一大円塊こそ是れ我が新民の世界なり」といった言葉遣いで「新」のユートピアが描写されているのを読むとき、同じ啓蒙思想家とはいえ兆民を、〈明六社〉に集った人々から隔絶させるものが、やはり明確に存在していたことを痛感せざるをえない。〔…〕それは、〔…〕「新民世界」における「平民主義」批判へと兆民を押しやった最重要のモチーフ』であり、『先ほどわれわれが〔…〕形而上的ないし宇宙論的と呼んでみた何かである。
兆民は、「新民世界」への「旧民」の「蘇生」を、洋学を学ぶべしといった単に実利的な生活改善の提言を超えたところで発想していた。〔…〕彼のリアリズムの背後には、つねに、それを相対化する・超越性の垂直軸に統べられた観念論的世界が、ぴたりと貼りついている。〔…〕「新民世界」が、人々の棲まう現実空間というよりはむしろ、『三酔人経綸問答』の「寓話空間」(「身は斯世界に在るも、心は常に藐姑射 はこや の山に登り、無可有の郷に游ぶ」等々)に比すべき何かであることは明らかだ。』「大円居士」の『「大円」とは、「上下無限蔵、縦横無限里」の「一大円塊」に棲まっているという意味なのだから、彼の所有する「新民世界」は宇宙そのもののように広大であり、〔…〕ただ、南海先生の想像力が駆けめぐる時空が〔…〕寓話性の範疇にとどまっているのにたいして、大円居士の「新民世界」を基礎づけているものは、もっと即物的な唯物論的宇宙観だと言うべきかもしれない。というのも、この「一大円塊」の描写は、〔…〕兆民が最後の力を振り絞って書き上げた遺著『続一年有半』〔1901年〕に繰り広げられる世界像を思わせずにはいないからである:
余は断じて無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説を主張するので有る。〔『続一年有半』〕』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.280-283,287-290.
ここで松浦氏は、兆民最後の著作『続一年有半』から引用しているのですが、できればもっと広い範囲を引用して兆民の真意に迫りたいものです。また、余命宣告後、『続一年有半』より前に書かれた『一年有半』にも見ておきたい部分があります。そこで、回を改めて、兆民が生涯の最後に達した地平へと、松浦氏とともに進入していきたいと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!
Károly Ferenczy







