ゴッホ「アニエールの工場群、クリシーの岸辺から望む」1887年。
Van Gogh, Fabriken in Asnières, vom Quai de Clichy aus gesehen. 1887.
©Wikimedia.
【9】 「豪傑君」――「士族民権」の自己否定か?
「民主・自由・平等」を宣揚しつつ、「非戦平和」を極限にまで――民族もネーション・ステートも否認する一歩手前まで――推し進めて主張する「洋学紳士」に対して、「豪傑君」は、さしあたってはその対極の論を対置します。他国との戦争を避けるべきでない、むしろ積極的に侵攻征服すべしとする豪傑君の論拠は、大きく分けて5つあります。①「闘争心は本能に根ざしたもので、[勝つことを好みて負くることを悪 にく むは動物の至情]である」。「争 あらそひ は人の怒 いかり なり。戦 たたかひ は国の怒なり。〔…〕人の現に悪徳有ることを奈何 いかん せん。国の現に末節に徇 したが ふことを奈何せん」という「快楽主義的な宿命論」。②「文明国は必ず強国」であって、国内には「厳明なる法律」があるので「人と人とは争ふこと無し。強盛なる兵力」があるので、他国とは戦わないことが無い。これに対して、「野蛮の民は、常々相争」ってやまず、国内がまとまらないから、他国と戦争などできない。「今の文明国は、今の善く戦ふ者なり。〔…〕武備は、各国文明の効の統計表なり。戦争は、各国文明の力の験温器なり」。つまり、軍備と戦争は文明国の条件である。③「戦 たたかひ は勇を主とし、勇は気を主とす。両軍将 まさ に合せんとす。気は狂するが如く、勇は沸くが如し。是れ別天地なり。〔…〕何の苦痛有らん哉。〔…〕我れ捷 かち を得れば、〔…〕我王国の武威、斯に四隣に光被せん。捷 かち を得ざれば、則ち一タヒ以て驍名を世に播さんのみ、是れ大将の楽 たのしみ なり。其楽たるや極て大なり」という、いわば「戦争の美学」。
「大将の楽しみ」と豪傑君に言わせているところに、兆民の鋭い観察が覗いています。「美学」に酔うのは指揮官だけであり、兵卒にとってはただの迷惑です。
そこで、「洋学紳士」から、私は君と「国家の大計」を論じているのだ、君の「一身の楽しみ」などを論じているのではない、という抗議があって、「豪傑君」も反省し、論議の方向を修正します。そして、これからが「本論」だ、と言って豪傑君が語り始めるのは、④「邦 くに 小なる者は、〔…〕兵を増し、〔…〕邦 くに を富し、邦 くに を大にせざる時は、或 あるい は亡滅に至る〔…〕。是れ算数の理なり」。「小国の生き残り策としては、軍備が弱く[惰懦 だだ にして与 く みし易」い グウタラデ、アツカイヤスイ[大邦]に率先して侵攻し、その領土を我がものとして自身を富ますに如 し くはないという〔…〕エゴイスティックかつリアリスティックな侵略主義がある。[小邦たる者、何ぞ速に之を取らざるや]」。この「大邦」は、名指しこそされていませんが、清朝の中国を指すことは、当時の読者には自明だったはずです。(『明治の表象空間 上』,pp.283-284;『三酔人経綸問答』,pp.165f,168f,171f,175f.)
日露戦争の白兵戦。
『⑤ 最後に来るものが、[好新元素]と[恋旧元素]の葛藤の問題である。過去に恋々と執着する(自分のような)人間は、国家にとって[癌腫]のようなものであり、それを〔…〕切り取る方法は、「之を駆りて戦に赴かしむ、是なり」。つまり、国内を分断する〔ギトン註――「好新元素」と「恋旧元素」の〕思想的不和を解消するために対外的侵略を利用しようとするもので、 〔…〕西南戦争以後も〔…〕燻りつづけた旧士族の憤懣が、自由民権運動にその吐け口を見出し政府に手を焼かせ〔…〕た当時の状況に照らして見るとき、この寓話的提言にも〔…〕現実性がないわけではなかった。〔…〕
ともあれ、「恋旧家」を自任する豪傑君自身が、「恋旧元素」とは「癌腫」だから日本から除去すべきだと自嘲的に広言して憚らない〔…〕
故に僕は、二三十万衆の癌腫家と倶に彼邦に赴き、事成れば地を略して トチヲウバイトッテ、別に一種の癌腫社会〔植民地?――ギトン註〕を チュウゴクニ 打開せん ウチタテヨウ。事成らざれば、屍を原野に横 よこた へ、名を異域に留めん。事成るも事成らざるも、国の為に癌腫を割去るの効果は必ず得可きなり。〔『三酔人経綸問答』,岩波文庫,p.185.〕
この屈折したアイロニーは、正しさの外見からは甚だしく懸隔したものである。とはいえ、この時期以降日中戦争の敗戦に至るまで、いわゆる「大陸浪人」たちが玄洋社,黒龍会,東亜同文会といった国家主義〔…〕団体と〔…〕結びつきながら日本の対中〔侵略――ギトン註〕関係において演じることになる〔…〕役割を考えてみるとき、〔…〕豪傑君の語るシニカルな夢想は異常に腥 なまぐさ いリアリティを帯びてくる〔…〕。 それはいわば、小さな正論の歪曲された変異態なのであり、ここでその歪曲をもたらしているものは〔…〕、洋学紳士の言説のこれ見よがしの正しさにたいして彼の覚える生理的反発〔…〕でもあろう。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.284-285,272.
「豪傑君」について論じなければならないことは、まだ尽くされていません。「豪傑君」と「進歩の思想」との一種〈ねじれた〉関係については、もっと突っ込んでみなければならないでしょう。「豪傑君」が「恋旧」ならば「進歩」の価値を否定しなければならないのに、そうなっていない〔却って、「恋旧」の士を我が邦から排除して「進歩」の障害を除くべき、との意見にくみしている〕のは、どう考えても背理だからです。そして、このことに関する兆民の思索は『三酔人経綸問答』では解決されず、「新平民」〔未開放部落民〕の論である『新民世界』、そして、「余命1年半」と宣告された後で書かれた最後の著作『続一年有半』へと続くのです。
が、その問題を扱う前に、3人目の論者である「南海先生」の発言を片づけておきましょう。
Paul Cezanne, Fünf Badende, Musée d'Orsay.
セザンヌ「5人の水浴者」 ©Wikimedia.
【10】 「南海先生」――「不在のヒーロー」か?
民主・非戦の「好新元素」である「洋学紳士」と、武断・好戦の「恋旧元素」である「豪傑君」、それぞれの論が出尽くしたところで、「南海先生」は、双方の主張を取り上げて縷々 るる 批評しますが、洋学紳士と豪傑君は、顰眉不満の体 てい です。それなら先生ご自身は、どうお考えなのか? 人の意見ばかり批評していないで、ご自身の「国家百年の大計」を語っていただきたい。われわれは、それが聞きたくて、一瓢を携えてお宅に伺っているのですぞ!
二客からこう詰め寄られて「南海先生」が述べるのは:
『南海先生乃ち曰く、亦唯立憲の制を設け、上は皇上の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院を置き、上院義士は貴族を以て之に充てゝ世々相承けしめ、下院議士は選挙法を用ひて之を取る、是のみ。〔…〕外交の旨趣に至りては、務めて交和を主とし、国体 クニノタイメン を毀損するに至らざるよりは キズツケラレナイカギリ、決 けっし て威を張り武を宣ぶることを為すこと無く、言論、出版、諸種の規条は、漸次に之を寛 ゆるやか にし、教育の務、工商の業は漸次に之を張る、等なり。〔『三酔人経綸問答』,岩波文庫,p.205.〕
これを聞いた他の2人は、拍子抜けしたように、そんな凡庸なことなら「今日に在て児童走卒も之を知れるのみ」と嗤うが、〔…〕』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,p.274.
この「南海先生」の発言は、「大日本帝国憲法」公布〔1889年〕の2年前である『三酔人経綸問答』刊行の時点〔1887年〕に置き直してはじめて、それが〈どういう発言なのか〉を理解することができます。それは、いかにも一門 ひとかど の提言のかたちをとりながら、内容においては単なる〈現状の追認〉ないし〈ごまかしのレトリック〉でしかない物言いなのです。
発言の前半は、天皇執政制を堅持しつつ憲法を制定し、世襲貴族による「上院」と、臣民からの選挙による「下院」を設ける、ということで、2年後に政府が公布する「帝国憲法」「帝国議会」そのままです。しかも、これは、すでに「明治14年政変」〔1881年〕時点で伊藤博文ら藩閥政府首脳が公言していた構想にほかならないのです。「万民の福祉を増し」は、プロイセンでもロシアでも、あらゆるヨーロッパ流の専制政府・帝王・官僚がタテマエとして述べていたことで、20世紀以後の「社会福祉」とは全く無関係です。プロイセン国家学では、〈国家の目的は、幸福と国民福祉の増大にある〉は常識でした。もちろんその手段は社会保障でも所得再分配でもなく、征服戦争による領土拡大、富国強兵、などでした。〈上院議員を世襲制にする〉に至っては、伊藤博文らの「帝国議会」の水準にも達しない封建時代の「老中会議」さながらです。
発言の後半については、未だ日清戦争以前の時点だということが留意されなければなりません。この時点で明治日本は、まだ、どこか外国と正面から戦ったことは無く、国内の産業もいまだ微々たるもので、外面的な「文明開化」〈近代化〉は、経済の実際にも国民の中下層にも及んではいませんでした。欧州列強はもとより、清朝中国と戦っても果たして勝利を得られるものやら、判ったものではなかったのです〔1884年、朝鮮の「甲申政変」では、日本の助力を当てにして蜂起した金玉均に対し、日本は清朝を恐れて兵を出さなかったので蜂起は失敗しました〕。「不平等条約」もまだ不平等のままでした。この時点では、諸外国に対しては「務めて交和を主と」するのが現実的な外交方針だったのであり、それは、現実に明治政府が採っていた外交方針でもありました。言論・出版の自由、教育・産業政策に関しては、注意深く添えられた「漸次に」という語が注視されなければなりません。「南海発言」は、実際のところ、これらの施策を「今すぐには、やらない」「当面はしない」と表明しているに等しいのです。「検討を加速する」などと言うよりはずっと良心的ですが‥‥
Arnold Genthe: "Travel Views of Japan and Korea", 1908~.
明治40年ころの日本のふつうの街角風景である。
以上のことは、当時の読者にとっては、「子供やパシリのフリーターにも分かる」常識であったでしょう。「南海先生」が開陳しているのは、「正論」のかたちをしているが、中身は単なる現状追認の理屈合わせでしかない「正論の擬態」ないし「正論のふりをした・正論ならざるもの」なのです。
『〔…〕嗤うが、常識の範囲にちんまりと収まりかえった提言〔…〕、あまりといえばあまりの平凡さには、何やら不気味なものが漂っていはしまいか。その不気味さとは、この・ぬるま湯のような中庸の言説が、かぎりなく正論に似た何かであることから来るものだ。〔…〕この箇所に添えられた眉批〔ページの上部欄外に印刷された著者の注記・小見出し――ギトン註〕には、「南海先生誤魔化せり」とある〔…〕いわば「正論の擬態」なのである。〔…〕「誤魔化し」によって発信された正論まがいのフィクションにすぎないのである。
『三酔人経綸問答』とは畢竟、正論という言説形式そのものに差し向けられた批判なのである。〔…〕ここ〔この〈パロディ空間〉――ギトン註〕では、言説の正しさの度合を測定する尺度それじたいが失効しており、何が正しいのか正しくないのかをめぐってすべてが宙に吊られたまま〔…〕暁を告げる隣家の鶏鳴によって〔…〕言葉の流れは〔…〕不意に断ち切られる。
〔…〕明治初年から10年代の時点で、日本がいかなる国家となるべきかという問いをめぐって、正しい選択とは何かなど誰にも分かっていなかった〔…〕。存在したのは、そして今なお存在しているのはただ、その問いへの返答として発信された無数の正論だけである。それら正論に内在する恫喝的な権力性に抵抗したのが中江兆民である。正論に対して懐疑を、「啓蒙=光」に対して不透明な混濁を、差し向けようとしたものが彼の言説的実践であり、そこから産み落とされた最も強力なテクストこそ『三酔人経綸問答』にほかならない。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.273-275.
【11】 「啓蒙」を超え出た地平 ――「新民世界」
すでに述べたように、『三酔人経綸問答』の前半は、「洋学紳士」の長大な発言で占められています。しかもそのうち文庫本で 41ページ分は、「進化」論に当てられているのです。そこでは、「民主・平等・自由」の増進に向かって前進してゆくことが人類の運命であって、この趨勢には何者も抗しえない、という「進歩」のイデオロギーが滔々と陳べられます。「進歩」は、「啓蒙」イデオロギーの基盤をなす基本的方向付けの一つなのです。
ところで、私たちの眼に奇異に映るのは、「洋学紳士」の対極に立つはずの「豪傑君」もまた、この「進歩」イデオロギーを言外に受け入れてしまっていることです。「好新元素」と「恋旧元素」の争いに議論が及んだクダリで、「豪傑君」は、「紳士君、紳士君、一国中、朝 ちょう となく野 や となく両元素交々 こもごも 力を角し、〔…〕互に勝敗を一挙に決せんと欲するに及 およん では、国其れ殆 あやう ひ哉 かな。」だから、「2元素のうち、1を除かなければ、国家の事業は何ひとつできない」と断じる「豪傑君」にたいして、「じゃあ、[好新元素]と[恋旧元素]のうち、どちらを除くんですか?」と「洋学紳士」。
ここで「豪傑君」は、「[恋旧元素]ですよ」と言下に断ずるのです。「なぜなら、[好新元素]が生肉だとすれば、[恋旧元素」はそれにくっついて生体の機能を阻害する[癌腫]だからです」とまで彼は言い切ります。(『三酔人経綸問答』,pp.183-184.)
Van Gogh, Weizenfeld mit Zypressen, 1889.
ゴッホ「小麦畑と糸杉」1889年。 ©Wikimedia.
兆民は『三酔人経綸問答』の翌年〔1888年〕『東雲新聞』に掲載した論説「再び士族諸君に告ぐ」において、「嘲弄と同情とを同時に滲ませる〔…〕語調で、士族の[恋旧]ぶりに言及している。〔…〕兆民は、彼らが新時代に即応した形で[蘇生]することを期待してもいるのだ。」兆民は言う:「らまるく,たーうゐんの進化説に由りて言はゞ、公等は士族的として既にタヒしたるも、豈に平民的として蘇生せざるの理有らん哉 ヨミガエラナイワケガナイデハナイカ」。「ここで兆民が」士族に向けて「発しているメッセージの要点は、勉強せよ、学問せよ、ということに尽きる。〔…〕[恋旧家]は啓蒙されなければならない」というのが、戯画もパロディも取り去った本心での兆民の主張だったと言えます。兆民には、士族であれ平民であれ、「旧習や迷信の内部でまどろんでいる者を覚醒させ、その軛 くびき から解放し、何とか新時代と遭遇させてやらねばならぬという使命感」があったと言えます(『明治の表象空間 上』,pp.285-287.)
しかし、そうだとすると、兆民の本心の主張は、「天は人の上に人を造らず」と言った福沢諭吉の初期の「啓蒙」と、変わらなかったのか? それ以上に出ることはなかったのか? …という疑問がわきます。
兆民は、この論説の1か月前、やはり『東雲新聞』に、「新民世界」を執筆しています。この論文は、「大円居士」という匿名で掲載されており、「大円居士」は、「余は、社会の最下層のさらに其の最下層に居る種族〔…〕新平民にして、昔日、公らの穢$多と呼びなしたる人物なり」という挑戦的なカムアウトで書き始めるのです。
ここでおさらいしますと、福沢諭吉が『学問のすすめ』で述べていたのは、 人には生来、「貴賤上下」の区別は無いから、各人は自らの努力によって富貴も名誉も獲得できるのだ、ということです。 ところが、明治の社会には、「皇族/華族/士族/平民」という区別が、封建社会の身分制のような厳しいものではなかったにしろ、まだ残っていました。 しかも問題になるのは、「平民」のなかで一部の人びと――江戸時代までは「エ$タ」「非人」等と呼ばれた人びと――は、「新平民」とされ、「平民」との区別が戸籍にも記載され、婚姻等の差別――〈共同体〉内での差別――が温存されたことです。
この問題について、現在までになされた〈ふつう〉の批判は、「新平民」などと「新」をつけて特別視することがそもそも新たな「差別」ではないか、というものです。
ところが、「大円居士」――に扮する兆民――が言うのはその逆で、むしろ「平」を外して「新民」とせよ。われわれ(大円居士ら「エ$タ」)こそが「新民」である。諸君も、「平民」であったり「士族」であったりするのをやめて、われわれ「新民」に合流してはどうか?
この論文で兆民の意図は、韜晦とアイロニーの陰に隠れて、よく見えなくなっています。察するに、「皇族/華族/士族/平民」に分かれた明治社会の中途半端な身分制を批判する意図があったのは、確かでしょう。が、果たしてそれだけか? 「啓蒙」そのものを――少なくとも福沢のような・楽観的で〈透明〉すぎる啓蒙を――、批判する意図は無かっただろうか?
私たちは、パロディとアイロニーの陰に隠れた兆民の真意を探って、『三酔人経綸問答』を大きく越え出てしまいました。これ以上の追究は、回を改めてじっくりと続けることにしましょう。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







