ヘネシー「金腕(bras d'or) 」印コニャック。仏王ルイ15,16世に仕えたアイルランド
貴族の将校リチャード・ヘネシーが退役後にシャラント(ボルドー近く)で
創業したコニャック・ブランド。斧をもつ腕の商標は、ヘネシー家の家紋。
明治の日本では「金斧」の名で親しまれた。
【6】 「イデオロギー」の賞味期限
ここで著者松浦氏がはっきりとは述べていないことを、私なりに・やや極端な言説のかたちにしておきたいと思います。聞いてカチンとくるかもしれませんが、これを言っておいたほうが、あとの話が分かりやすくなるからです。
福沢諭吉の「啓蒙イデオロギー」はひとつの例ですが、「イデオロギー」というものは、けっして単なる「まぼろし」や集団的な「思い違い」ではないし、かといってもちろん、「永遠の真理」でもありません。じっさいに、ある「イデオロギー」がある社会の多くの人〔統計的に過半数である必要はない〕に信じられ、社会――広い意味での「国家」をふくんだ「社会」――を動かしてゆく時期というものがあるのです。その長さは、日本の「啓蒙イデオロギー」の場合で測れば、「維新」から「明治14年」までの「およそ15年」ということになります。
イデオロギーの全盛期は「15年」。――こう言ってみると、これが意外に多くの場合に有効だということが判ります。「レーニン主義」〔アメリカの人々が言う「共産主義」〕の全盛期は 1917年から約15年間でした。「日本国憲法」に盛られた非武装「平和主義イデオロギー」も 1946年から 1960年代初めまでは〈有効〉でした。
それでは、〈全盛期〉を過ぎた後、「イデオロギー」は、どうなるのか? …それは歴史的条件に応じてさまざまですが、おおざっぱに言えば、「イデオロギー」は「国家」に取り込まれて変質します。明治の「啓蒙イデオロギー」の場合には、大部分の「民権家」が「国権」主義に傾斜し、中江兆民などは啓蒙を「パロディ」ないし「カリカチュア」の文脈で扱わざるを得なくなりました〔詳細は次節~〕。福沢のように「啓蒙イデオロギー」をあくまでも「正論」として主張しつづけようとする人は、本人はブレていないつもりでも、実際にはそのプラグマティックな言説は、初期の「啓蒙」とは正反対を向く国権主義・侵略主義の言説と化してしまうのです。
ロシアの「レーニン主義」の場合は、「15年」を過ぎたころからスターリンの執権と「粛清裁判」が始まります。第2次大戦後に東欧諸国に移植されたのは、もはや〈賞味期限〉をとっくに過ぎた「レーニン主義」の残りかすだったのですから、人びとに信じられるはずがないのです。
戦後日本の「平和主義イデオロギー」〔※〕は、自民党体制に吸収されて「専守防衛」に変質し、そのかたちで世紀末まで命脈を保っていきます。佐藤栄作が、自衛隊の強化と米軍核兵器の「持ち込み」容認を推し進めながら、ごまかしの「非核三原則」を唱えて「ノーベル平和賞」を獲得したのは、この「イデオロギーの変質」をよく示す例です。
註※「平和主義イデオロギー」: 第2次大戦後日本の「非武装非戦主義」のイデオロギー性(欺瞞性)については、すでに 60年前に『三酔人経綸問答』の「豪傑君」が明快に指摘しています。いわく:「諸弱小国に勧めて、速に民主の制に循ひ、且つ速に兵備を撤せしめんと欲するは、其意竊に米利堅,仏蘭西の如き民主国が其志を偉なりとし〔…〕来り援くることを冀幸するに非ざる無きを得ん乎」(岩波文庫版,p.162.)。これまたカチンと来る人が多そうですが、これを指摘しておかないと、今後の理解が困難になるので、あえて指摘しました。
しかし、ここで留意しておきたいのは、「イデオロギー」がその〈全盛〉の期間に公的な「正論」として文書化された場合、その文書自体は――現実とはどんなに乖離しようとも――イデオロギーの有効期間をはるかに超えて生き残るということです。柄谷行人氏のように、「9条」は改憲したくてもできない、改憲は絶対に不可能だ、と言う人がいます〔⇒:憲法の無意識(1)〕。それを聞いて、「そんなバカな!」と眼をむく人もいれば、「やっぱりそうか!」と胸をなでおろす人もいることでしょう。私は、柄谷氏の言は、良くも悪くも現実になるだろうと思っています。というのは、日本には巨大な前例があるからです。前例とは、701年制定の「大宝律令」です。「大宝律令」の規定が全面的に実施されていたのは、せいぜい平安時代の初めまでですが、「律令」自体は、それから 1000年以上経た明治初めまでそれなりに機能していました。朝廷は毎年、「律令」にしたがって百官の職位を任命していましたし、江戸時代の有力大名はみな、朝廷から官位・職分を与えられていました。吉良「上野介 かうづけのすけ」は現実に群馬県副知事だったわけではなく、浅野「内匠頭 たくみのかみ」は宮内施設庁長官として執務したわけではありません。水戸光圀は「中納言」に任命されたので、「中納言」の唐名で「黄門」と呼ばれたのです。
〈天皇〉という世襲的地位がずっと続いてきたのも、〈天皇〉じたいの「威光」のせいではなくして〔「威光」は結果にすぎない〕、「律令」の担い手として必要な存在だったからにほかなりません。
このような現象が「日本人の国民性」だとか「皇国祖宗の美風」だとか、私は思いません。おそらく、8世紀に東アジア諸国が唐の律令を取り入れた時に、日本だけは、唐律をそのまま施行しないで独自の律令を作ったことが、原因として大きかったのだと思います。が、いずれにしろ、〈イデオロギーが文書化されると、その文書じたいは 1000年を超えて続くことがある〉というのは歴史的事実です。「9条」も、今後 1000年続くかもしれません。多くの人は「まさか」と言うでしょうが、否定できる人はいないはずです。そして、――「大宝律令」がそうであったように――文書が残るということは、何らかの意味で、その機能も残る〔まったく無効にはならない〕ということです。
鹿鳴館で踊る日本人の風体。ビゴー画。
【7】 『三酔人経綸問答』の枠組み
―― 現実とは隔絶した〈夢幻境〉のカリカチュア
『三酔人経綸問答』〔1887年〕という書は、現代語訳が出ていることもあって、兆民の文章のなかでは最も広く読まれているものでしょう。「性酷 はなは だ酒を嗜 この み、又酷 はなは だ政事を論ずる事を好む」南海先生の家に、洋学紳士,豪傑君の2人が、「ヘネシー金斧印」の「洋火酒」を携えて訪れ、三者三様の政論を闘わす、という筋書きですが、多くの読者の読み方は、3人のいずれか、――多くの人は洋学紳士に、著者兆民その人の見解を見、民主・平和・進歩主義の書として、この本を褒賞する、あるいは批判的に評する、というものです。つまり、この本は、中江兆民が自らの「正論」を主張するために書いたものだという前提で読み、3人の登場人物の発言のいずれが兆民の見解であるか、をめぐって議論していると言えます。
しかし、著者松浦氏の読み方は、それとは異なっています。3者の見解いずれも、兆民は自分の「正論」として述べてはいない。むしろ、それぞれの登場人物が、「正論」を述べようとして強弁のあまり、あるいは自己矛盾に陥るあまり、失笑を買うような発言に帰してしまう可笑しさを、兆民は描いている。いわば、「正論」ではなく、三者三様の「正論のパロディ」ないし「カリカチュア〔まんが〕」を提示しているのだと。
このような松浦氏の読み方には、いくつかの根拠があります。まず、兆民自身が弟子の幸徳秋水に問われて、この書は「是れ一時遊戯の作、未だ甚だ稚気を脱せず、看るに足らず」と述べていることです〔幸徳秋水『兆民先生』〕。つまり、本気で述べた「正論」ではなく、いわば「戯作」にすぎない。登場人物たちの発言は「稚気」に満ちている、と言うのです。
そうした「戯作」ないしライト・ノベルとしての設定は、この書じたいの冒頭と結末を見ても明らかです。なるほど、冒頭では、「三酔人経綸問答 南海仙漁 著」とあり、著者兆民=南海先生、であるかのように見えます。が、それ自体がフィクション設定かもしれない。というのは、この「南海先生」たるや、 酩酊すると「眼 まなこ は全世界を通観し、瞬息の間を以て、千歳の前に溯り、千歳の後に跨 またが り、世界の航路を指示し、〔…〕心は常に藐姑射 はこや の山〔不老不死の仙人が住む山〕に登り、無可有の郷 さと に游ぶ」ような人で、現実空間と「おとぎ話」の世界を自在に往き来している人なのです。そのような人が著者だとすれば、この書は「おとぎ話」以上のものではありえません。他方、結末を見ると、冒頭と呼応して、次のように「おとぎ話」の枠組みを完結しているのです。
『是に於て〔…〕隣鶏忽 たちま ち暁を報ぜり。二客驚ひて曰く、乞ふ、辞せん。
南海先生、笑ふて曰く、公等 こうら 未だ省せざる乎 か。公等の辱臨せらるゝより イラシテカラ、鶏声暁を報ずること既に両回なり。公等帰りて家に至れば、已に両三年を経過したるを見ん。是れ自 おのづか ら余が家の暦法なり。
二客も亦噱然として オオグチヲアケテ 大笑し、遂に辞して去れり。〔…〕二客竟 つひ に復 また 来 きた らず。』
中江兆民,桑原武夫・他訳註『三酔人経綸問答』,1965,岩波文庫,p.206.
ヘネシー・コニャック の「金斧(金腕)」マーク。©ameblo.jp/dryvermouth-bx
「洋学紳士」と「豪傑君」もまた、現実世界の住人とは思えない存在です。この「二客」は、南海先生の評判を聞いたと言って、まったくの初対面で突然に「南海」宅を訪れ、ニワトリが朝を告げるや否や、日に当たると消えてしまう幽霊のように、慌てて立ち去ってゆくのです。そして、二度と訪れることも、遭遇することもない。しかも南海先生が彼らに告げるには、あなたがたが喧々諤々の議論をしている間に鶏が2回時を告げたから、現実世界では2~3年が経過してしまった、と、まるで竜宮城の浦島太郎です。「おとぎ話」ないしフィクションとしか思えない設定なのです。
この「南海先生」の発言には、さらにそれ以上の含意があります。つまり、「三酔人」が議論をしている間に、現実世界は彼らの頭脳を超えて、はるか先へ進んでしまっているのだ、という警告です。じっさい、彼らが、民主と国権、侵略と平和を闘論しているあいだに〔『三酔人経綸問答』,1887年〕、政府は国会を開設し〔1890年〕、軍備を増強して朝鮮の政変にかかわり〔1882年壬午軍乱,84年甲申政変,94年甲午農民戦争〕、日清戦争〔1894年〕に向けて突き進んでいた、という現実の急速な展開がありました。
「『三酔人経綸問答』には〔…〕二種類の時間が流れてい」ます。「一方で〔…〕それはいわば[歴史]の時間であり、中江兆民は、この[歴史]にたいして〔…〕ある提言を行なっているが、」それは「単一の論の直線的展開という形をとらず、3人の登場人物による演劇的対話という矛盾と錯綜の相において示されている」。「しかし他方、このテクストには、〔…〕鶏が二度ときをつくるうちにいつしか3年が過ぎていたという[寓話]の時間の経過が示唆されている。このアレゴリカルな」二重の時間が、「物語を[歴史]的事実の桎梏から解放し、言説が現実に対して何がしかの働きかけを行うべきだとする直接的実効性の要請を宙に吊って、費やされた言葉のいっさいを〔…〕条件法の発話態に置くことになるのである。」
3人の討論が行われる「南海先生の家」は「非歴史的な無時間地帯であり、そこで交わされる議論」もまた「現実から遊離した遊戯的な空論であること」が「終始強調されている。」そうでありながら、2つの「時間」は、たがいに無関係などではない。「ここでは、[歴史]の時間の裏側に[寓話]の時間がぴたりと貼りついている」。
さらに、「時間の二重性は〔…〕空間をも二重化する」。3人の論客はそれぞれ、古今の歴史的事象、目下の内外の情勢を引いて議論しているのだが、それらは微妙に史実とも現実ともずれている。「斯世界の地誌歴史と、唯 ただ 名称を同くするのみにして、事実は往々齟齬することあり」〔『三酔人経綸問答』,p.121.〕と述べられているとおりなのです。(pp.248-250.)
『2つの時間、2つの空間は、この「齟齬」と「切当」〔適合――ギトン註〕の戯れによって、ときに乖離しときに一致し、かくして兆民の言説は、「歴史」と「寓話」、現実的政論と遊戯的放言のあいだを自在に往き来しつづける。〔…〕
「歴史」と「寓話」のあいだを揺れつづけることで、この政論はその正論としての断言的性格を奪われ、定立された命題の真偽は絶えず宙に吊られつづけることになる。〔…〕洋学紳士と豪傑君と南海先生が〔…〕互いを循環的に批判し合うという構成が、単一の真理に収斂することを言説に終始禁じ続けているのである。〔…〕洋学紳士,豪傑君,南海先生の3人』は、『戯画化された虚構のフィギュアと考えておけばそれで十分なのであり、兆民の真意が奈辺にあるかを探るには及ばない。〔…〕兆民の思考にはつねに複数の異質なものがせめぎ合っており、生来の気質から発するとおぼしいアイロニカルなシニズムが、その不調和な混濁ぶりをさらにいっそう増大させている。〔…〕率直な本音を直截に書くといった姿勢から、中江兆民の文章ほど遠いものはない。〔…〕主筆として関わりをもった幾つもの新聞に彼が書きまくった多くの論説文に〔…〕著者の自己が率直に表現されているものは思いのほか少ない。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.251-255.
「われわれがここで改めて興味をもつのは、」兆民のテクストのこうした「[演戯]的性格そのもののうちに、いかなる歴史性が孕まれているのか、という問題である。〔…〕単一にして現実的な歴史の時間への収斂を拒み、それへの主体の関与の直接性を、反語と韜晦と皮肉によって絶えず混濁させてやまない中江兆民の言説群を、あらためて[歴史]の時間の文脈に置きなおしてみよう。」するとそこに現れて来るのは「明治14年政変」であり、「14年」以後の「時代閉塞」の「隘路」です。しかし、これについてはすでに十分に論じました。(pp.253,257.)
Ignacy Aleksander Gierymski[1850-1901], Rosz ha-Szana,Święto trąbek I.
アレクサンデル・ギェルィムスキ「ロシュ・ハシャナー(角笛の祭り)1」,
ワルシャワ国立美術館。
【8】 「洋学紳士」――「啓蒙のカリカチュア」か?
『三酔人経綸問答』について、さらに3人の登場人物ごとに見ていくとしましょう。まず、「洋学紳士」は『問答』の前半で、この書のページ数の半分を越える長広舌を繰り広げている論客です。
『洋学紳士の主張は、民主・平等・自由を讃える理想論であり、語のもっとも素朴な意味での「啓蒙主義」をカリカチュア化したものと言ってよい。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.269. .
このような「洋学紳士」の主張のなかで、他の2論者とのあいだでとくに争点となっているのは、〈平和主義と国防〉の問題です。それというのも、明治時代のコンテクストでは――今日の日本でも同様ですが――「民主」ないし「民権」と「平和」、「国権」と「国防」は、強く結びついて語られざるを得ないからです。日本という後発国家が主権国家システムのなかでネーション・ステートとして自立しようとすれば、強固な国防国家として自己編成せざるをえない。が、そのためには、「徴兵制」による軍備の強大化が必須であり〔※〕、それは「民権」の伸長とは逆行するからです。
註※「ネーション・ステートと徴兵制」: 近代化にあたって「徴兵制」以外の選択肢が無かったわけではありません。たとえば兆民は、「常備軍(徴兵制)」を廃止して、スイスを模範とするような「土着兵(民兵制)」を創設することを提唱しています(pp.302f.)。しかし、明治の日本では、このような主張は稀れでした。
そこで、「洋学紳士」は、いっさいの軍備を否定する徹底した非戦主義・非武装平和主義を主張します。これは明らかにカリカチュアです〔「憲法9条」という公的文書をもつ現代日本人にはカリカチュアに見えないかもしれないが、明治時代にはそのような文書は無かった〕。なぜなら、兆民自身の主張は、「民兵制」による全人民武装だからです。
もしも凶暴な外国が侵略して来たらどうするのか? という「豪傑君」の問いに対し、「洋学紳士」は、「敵国に理性的な説得を試みたうえで、それでも〔…〕侵攻軍がどうしても退かぬと言うのなら、[我衆大声して曰はんのみ、汝何ぞ無礼無義なるや、と。因て弾を受けてタヒせんのみ」。「僕の意に於て、我邦人が一兵を持せず一弾を帯びずして、敵寇の手に斃れんことを望むは、全国民を化して一種生きたる道徳と為して、後来社会の模範を垂れしむるが為めなり」と言い切ります。そして、敵の悪事に対して自分のほうも悪事(防禦戦闘)をなすのは、なんと「鄙 ひ」〔野蛮で、いやしい〕なことだろう、と論難するのです。
これを聞いた「豪傑君」は失笑を繰り返すのですが、「これはいわば大きな正論のパロディなのであり、豪傑君のように失笑することが読者にもまた期待されている〔…〕のである。理性の旗印を掲げた「啓蒙」的理念の水準に立つかぎり、洋学紳士の非戦思想の正しさは疑いえない。これはまぎれもない正論である」。しかし、それはまさに「正論」であるがゆえの強圧性・権力性を最大限に強調された言表となっており〔「生きた道徳」とされて射刹される国民と、徴兵されて戦タヒする国民の間に、どんな違いがあるというのか?〕、「みずからの正しさをドグマティックに説諭しようとする〔…〕強圧性のゆえに〔…〕、正論の戯画と化してしまっている。」「ここで戯画化されている最大のものは〔…〕正論という言説形式それじたいなのである。」「『三酔人経綸問答』のこの箇所に読むべきは、〔…〕民主・自由・平等という大きな正論をただそのまま素朴に正論として提起」すれば足れりとする「身振りに対して、明治20年のこの時点で兆民が感じていたシニカルな無力感〔…〕なのである。」(pp.269-271,273.)
江華島事件。1875年9月20日、「雲揚艦の兵士ら、韓島の永宗城を襲う」 木版画。
日本軍艦・雲揚号は、韓江河口に侵入し挑発した上、江華島の砲台を占領
して朝鮮王朝に開国通商を強要し、不平等条約を結ばせた。 ©Wikimedia.
なお、洋学紳士の非戦思想について、以上の松浦氏の議論に付け加えておきたいことがあります。それは、洋学紳士の次の発言です:
『弱小の邦に據りて強大の邦と交はる者は、彼れの万分の一にも足らざる有形の腕力を奮ふは、鶏卵を巌石に投ずると一般なり オナジダ。彼れ文明を以て自ら誇れり。然れば則ち、彼れ固 もと より文明の原質なる理義の心無きの義有らず ナイワケガナイ 。然れば則ち、我 わが 小邦たる者、何ぞ彼れの〔…〕無形の理義を以て兵備と為 なさ ざる乎 か。自由を以て軍隊と為し〔…〕、平等を以て堡塞と為し、友愛を以て剣砲と為すときは、天下豈 あに 当る者有らん哉 や。〔…〕
彼れ果 はたし て兵を引て ヒキイテ、敢て我邦に来り據らん乎 センリョウシタラ。土地は共有物なり。彼れ居り我れ居り、彼れ留 とどま り我れ留らんには、何の葛藤か有る乎 や。〔…〕我れ今日甲の国に居る、故に甲国人なり。我れ明日乙の国に居れば、又乙国人ならんのみ。〔…〕世界万国、皆 みな 我宅地に非 あら ず乎 や。』
中江兆民,桑原武夫・他訳註『三酔人経綸問答』,1965,岩波文庫,pp.124-125.
まず、最初の段落での洋学紳士の主張は、さきほど松浦氏が引用していた部分よりも説得力があるでしょう。これは必ずしもドグマティックな非戦主義ではありません。国内の自由と平等を増進し豊かな文化をもって立国することは、軍備を増強する以上の国防効果がある。これは、時代を経ても通用する真理であり、限定的な軍備保持とも両立する考え方です。
が、第2段落の主張は、どうでしょうか?「植民地支配」の問題意識が完全に欠落していると言わざるをえません。最近、ロシアがウクライナに侵攻を始めた時に、日本のテレビに出演したウクライナ大使に向かって、あるお笑い芸人が、戦争はやめろ、降伏すればいいじゃないか、と言って大使の憤激を招いていたことが思い出されます。しかも、この洋学紳士の発言は、日本国家みずから植民地獲得競争に加わり始めた時代のものであることを踏まえれば、洋学紳士は、決して徹底した「民権」論者でも自由主義者でもないと言わざるをえません。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







