「小倉山」は、山頂に差しかかる手前で広い石畳風の道になり、しかも下降しはじめるので面食らってしまう。
が、ピークへは、この遊歩道から岐れて、林内の踏み跡を登るようになる。アラカシ,ヒノキ,アカマツ,ソヨゴ,アセビ,サカキ,ヒイラギなど常緑樹ばかり思い思いに繁茂している。山頂↓。展望は無い。
遊歩道に戻ると、そのまま急な下りになる。やはり、北側斜面は落葉樹が多い。
「小倉山 」は歌枕として有名だが、「秋」「もみじ」と結びついた歌ばかりで、今の冬~早春にはふさわしくない。それでも少し拾ってみると:
小倉山 嵐の風の寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき
藤原公任、大鏡。 .
強風で、紅葉した落ち葉が人びとの服にかかって「にしき」に見える。「衣」と「着ぬ」を掛けている。この歌にはヴァージョンがいくつかあって、他の一つは:
朝まだき 嵐の山の寒ければ 散るもみぢ葉を きぬ人ぞなき
藤原公任、拾遺抄。 .
こちらでは、「小倉山」が「嵐山」になっている。『大鏡』によれば「大堰川」に浮かべた舟の上で詠んだということだから、どちらの山でもよいのだろう。『拾遺抄』のほうが、すなおで叙景に無理がなく、情趣も深い。
をぐら山 ふもとに秋の色はあれや 梢 こずゑ のにしき 風に裁 た たれて
西行、山家集。 .
小倉山 ふもとの里に 木葉散れば 梢に晴るる 月を見るかな
西行、新古今和歌集。 .
秋の夜の 月の光し 明 あか ければ 小倉の山も 越えぬべらなり コエテシマエルダロウ
在原元方、古今和歌集。 .
ふもとで詠んだ歌ばかりで「小倉山」に登る歌が無いので、↑これを選んでみたが、ふつうのテクストは「小倉の山」ではなく「蔵部 くらぶ の山」になっている。『古今集』の特殊な写本なのだろう。「小暗」「暗部」に掛けて使われるが、どちらも地名。「蔵部」は、甲賀郡蔵部郷。
幅広い遊歩道をぶらぶらと下っていたのも束の間、やがて右から自動車専用道が寄ってきて、人は崖っぷちの危険な岩場に追いやられてしまう。足もとが滑れば、たちまち転落する。その恐怖の隘路から「保津峡」を眺めろとの結構なご趣向らしい。
「保津峡下り」の舟を見下ろせたのは収穫だった。やがて車道に降り立つと「六丁峠」だ↓。
「六丁峠」から下りる車道は、幸いにも歩行禁止ではない。下っていくと、大きな鳥居がある。
奥へ昇っていくと「清滝」。嵯峨野の最奥地だ。しかし、きょうは早く「大覚寺」に着いて「大沢池」を見たいので、「清滝」へは寄らない。参道をどんどん下っていく。
蝋梅、白梅、金柑。
「大覚寺」「大沢池」の古い道標。
「大覚寺」に近づいてきた。藁ぶきの家が珍しい。
「大覚寺」門前に到着。
「勅使門」↑。↓「表門」と「式台玄関」
「大覚寺」は、嵯峨天皇の離宮を 976年に寺院に改めたもので、14世紀初めから「大覚寺統」の院政の御所となり「嵯峨御所」と呼ばれた。門と堂宇の名称がふつうの寺と異なるのは、御所の性格からなのだろう。1392年には、ここで南朝・後亀山天皇から北朝・後小松天皇に「三種の神器」が渡され、南北朝の和解が成立している。
「勅使門」の内側。「石舞台」と呼ばれる壇がある。玉砂利が敷き詰められているが、むかし来た時には、グランドのような裸地だった気がする:
「大沢池」↓。
池のほとりには、「心経宝塔」と呼ばれる多宝塔、「聖天堂」、菅原「天神島」などがある:
石仏群:
「名古曾 なこその 滝」跡↓。
平安時代から中世にかけて、涸れては修復されを繰り返した。水がある時には、手前のほうへ流れて「鑓水 やりみず」を作っていた。
滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
藤原公任、百人一首。 .
は、この滝が涸れていた時期に詠まれたもの。
「菊島」と「庭湖石」〔右の白い岩〕↑。大沢池は、中国の「洞庭湖」を模して造られたという。
タイムレコード 20260221 [無印は気圧高度]
(1) から - 1332「休憩ポイント」[274mGPS]1336 - 1348「小倉山」頂上[291mGPS]1353 - 1426「六丁峠」[178mGPS] - 1437「愛宕山」鳥居[99mGPS]1440 - 1516「大覚寺」入口[56mGPS] - 1618「大覚寺」出口[55mGPS] - 1622「大覚寺」バス停[57mGPS]。
踏査記録⇒:YAMAP















































